無骨な石の前に立ち、それをじっと見下ろす。次に地面に膝をつき、手に持った花をそっと石の前に置いた。石に触れると、それはつめたく光ってぼくの指先を冷やす。否定も肯定も為されない。石から手を離し、それを顔の前でゆっくりと合わせた。目を閉じ、無心のままに拝む。すると頭上からくつくつと笑う声が聞こえた。目を開けると、石の横に男が立っている。たなびく赤ハチマキがちらちらと網膜を色づけた。
「……笑うところじゃないだろ」
「いや、すまん。どうにもおかしくてな」
亜双義は笑うのを止めた後も、なんだか愉快そうに顔を和らげていた。なぜそんなにおかしそうなのか。ぼくは今、おまえの墓に参っているというのに。
昔からオバケは苦手だったはずなのだけれど、実際にこうして親しい人物に化けて出られるとなんだか恐怖も湧かないもんである。ましてや出たのが亜双義だから、余計にだろうか。倫敦で暴れてやろうと笑い合っていたあの頃とまったく変わりのない笑顔で「成歩堂」とぼくを呼ぶその声、ずいぶん穏やかだ。
「そんなにおかしいか?」
消えないほほえみに向かって尋ねてみる。亜双義は目を細めてぼくに答えた。
「キサマがやけに熱心に拝むからだ。オレは神様か何かか?」
その言葉にぼくは笑いながら、腰に携えた狩魔にそっと手を乗せる。今となってはもはや当たらずしも遠からずといったところかもしれない。守り神のような、唯一の神様のような。思考するものの、的確に形容する言葉をぼくは持たなかった。石を見下ろし、ぼんやりといろいろなことを思う。
後悔なんて山ほどある。なぜあんなことしかできなかったのか、なぜあれもそれも言えなかったのか。亜双義が目の前に現れた今、少しでもその後悔を解消しておくべきなのかもしれない。けれど今この場ですべて終えるには、きっと時間なんて足りないだろう。多分亜双義は待ってくれない。そんな気が、何故だかするのだった。ならばと、ぼくは後悔の泉を濾過していく。器に残った滴は、ずっとぼくが知りたかったあるひとつの事柄だった。
「ずっとおまえに訊きたいことがあったんだ」
亜双義に目を向ける。真っ直ぐにその瞳を見る。目は泳がせない。これから一秒も目を逸らしたくなかった。焼き付けなければならないからだ。
「何だ、言ってみろ」
腰に手を当て、亜双義はそう言う。きっと何を訊いても答えてくれるだろう。そういう目をしていた。ぼくは息を吸い、言葉を紡ぐ。あるひとりの女性のことを頭に浮かべながら。
寿沙都さんは言っていた。あの方はいつもふと、何かを慈しむような目をすると。その目をする時はきっと誰かのことを想い描いていたのだろうと。果たして誰を想い浮かべているのか気になって仕方がなくて、けれどついに訊くことは叶わなかったのだと。
「きっと、わたししか存じておりません。わたししか……寿沙都しか、一真さまのあの目に気づいてはいませんでした」
うつくしい黒の花嫁衣装に身を包み、赤い口紅をきれいにひいて、これから名家に嫁ぐ寿沙都さんはぼくに微笑んだのだった。まるで知らない女性のようで、けれど確実に寿沙都さんだった。あきらめよりももっと優しく煌めく感情をかんばせに貼り付けて、すべてを受け入れるかのようにそこにいる。彼女はもう少女ではなかった。だからきっと、亜双義の瞳が生む意味を、彼女は精緻に読み解いていたのだろう。探偵のように。ぼくには気づくことすらできなかった、それを。
「おまえの視線の先には、誰がいたんだ?」
寿沙都さんの言葉とともにそう尋ねる。亜双義は、すこし驚いたような顔をした。そしてちいさく息を吐く。
「彼女は聡いな。……その様子なら、きっとすべて知っていたんだろう」
その口調は存外柔らかいものだった。まるで懐かしむようにどこか遠くを見つめている。
先に言及したように、亜双義は必ずぼくの問いに答えてくれるのだと思う。たとえどんな質問でもだ。ぼくのこの問いにすら、きっと笑顔すら浮かべながら答えてくれるのではないだろうか。それをわかっているから、ぼくはほんのすこし新たな後悔を覚えた。覚えてしまった。ぼくは答えを訊くのが怖いのだ。
予想通り、亜双義の顔には穏やかな笑みが還る。ぼくは左の開いた手を拳に変えた。その唇が緩慢に動く。
「キサマが一番よく知っている人物だ」
「ぼくが、一番?」
「ああ、誰よりも」
思考する。あれやこれやと記憶の引き出しをまさぐってみる。けれど思い当たらない。コイツがよく見ていた人物なんて言ったって、ぼくの記憶の中の亜双義はいつもぼくと向かい合って笑っているばかりだ。顎に手を当て唸るぼくを見て、亜双義は「あっはっは」と高らかに笑った。
「やはり節穴以下か?キサマの観察眼は」
いつものキツめのお言葉をいただいてしまう。仕方がないじゃないか、本当にわからないのだから。眉を寄せてそう抗議すると、仕方がないと言わんばかりにため息をつかれてしまった。やっぱりずいぶん楽しそうだ。
「成歩堂」
「何だよ」
「オレの視線を追え」
亜双義はそう言った。視線? 言葉の真意がわからず、ぼくは首を傾げる。
「難しい事は言っていない。余計な事は考えず、今オレの視線の先にあるものを知れ」
それが今回の答えだ。そう言うのである。ぼくの困惑はより巨大なものとなった。視線を追うと言ったって、それが答えだと言ったって。今、おまえはぼくと向き合っているではないか。その視線の先にいるものなど、ひとつしかない。ひとりしかいない。……ひとりしか、いない。
そこでぼくはようやく気がついたのであった。亜双義の瞳に映っているそれを目にして、ぼくはようやく、答えにたどり着いたのであった。ああ、通り抜けし過去よ。ぼくはずいぶん歩いてしまった。
「亜双義」
「何だ」
「ぼくも、おまえのことが好きだったみたいだ」
いざ口に出してしまえば、案外馴染む言葉だった。亜双義の瞳の中でぼくは笑っている。その目はあたたかな色をしていた。亜双義は、またおかしそうに笑い声をあげてみせる。
「そいつはまた、願ってもない話だな」
ぼくたちは顔を見合わせ、大きな声で笑い合う 。なるほど、ぼくの後悔の根はこれだったのか。そう自覚していった。だんだんと涙が出てきて、もう笑っているのか泣いているのかわからないぼくを亜双義はきつく抱きしめる。もしかしておまえも泣いているんじゃないか、とは訊かない事にした。墓はつめたく光るばかりである。
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