下宿で飲み潰れてそのまま眠りこけてしまった日、深夜にふと目が覚めた。畳に横たわるぼくの視界が真っ先に捉えたのは、同じく飲み潰れた亜双義が障子を背に座って寝息を立てている姿。月明かりに照らされたその表情はずいぶん穏やかだ。いつもの刀はその手元にはなく、傍に立てかけられている。ハチマキは少しずれて片方の眉にかぶさっていた。今まで見た中で、おそらく一番無防備な姿だ。どこかその雰囲気すら普段より柔らかいように感じられる。
上半身を起こし、亜双義に近づいてみる。寝息は規則正しく立てつづけられていて、まだ起きる気配はない。好機ととらえ、観察のためにじっとその顔を見つめた。凛々しく瞬く刃物のような瞳も今は静かに閉じられ、瞼に覆いかぶされている。たびたびこういう風にぼくの下宿でこぢんまりとした酒宴会を開くことはあったけれど、亜双義が飲み潰れることはあまりないかもしれない。寝顔なんて、今日初めて目にした。大学でも名を馳せる秀才で現役の弁護士のわらじをも履きこなすコイツの、こんなに油断した顔を見ることができる人間というのは、果たしてどれくらいいるのだろう。ぼくは今、貴重な経験をしているのだろうなあ。そうぼんやり考える。
秋の気配が忍び寄る近頃の夜はそれなりに冷える。冷気が体に忍び入ったのか、亜双義が自らの体を抱くように腕を組んで肩をすこしだけ震わせた。常に熱い風を吹かせているとはいえ、やはり寒いものは寒いのか。そう冗談混じりに考えたあと、押し入れに向かい毛布を引き出した。起こさないよう、それをそっとかぶせる。すると、ん、と吐息のような小さな声があがった。起きたかな、と様子を窺ってみるが、その目は開かれることなくまた寝息が立てられはじめる。ぼくの胸はなぜだかすこし高鳴っていた。何に対してなのかは、よくわからない。
それからまたじっと見ているうちに、亜双義に掛かった毛布がずり落ちてくる。近づいて、もう一度肩にそれをかけなおす。触れた体はあたたかい。至近距離には、その相貌がある。その中でも、うすく開かれた唇に意識を捕らわれた。普段言葉という武器を使って人々を守るコイツの唇も、触れてみれば当たり前に柔らかいのかな。なんだかすこし、気になる。考えていると、亜双義がもぞりと動いて腕をきつく組み直した。そのまつげがすこしだけ震える。ぼくはそれを、どうしても見逃せなかった。予想以上に酒が回っていたとしか思えない。
その一瞬、やけに胸の奥がすうすうとした。ゆっくりと唇を離し、感触の残るそれを指でさする。亜双義の唇は、やはり柔らかかった。それを自らの唇で体感してしまった。ーーはて、ぼくは何をしているのだろう。じわじわと脳が平生を取り戻し始める。なぜぼくは今、親友であるこの男、亜双義を相手に接吻なんて行為をはたらいたのだろうか。行動に思考がまったく追いついてこず、頭の中は完全に混線する。顔にはゆっくりと熱が集まってきた。幸い亜双義のことを起こしてしまいはしなかったようで、その瞼はまだ上がる気配もなく閉じられている。ほっと胸をなで下ろしながらも、ぼくは大変困ってしまった。完全に酔いは醒めたし目も冴えた。このまま朝まで、おそらくぼくは寝られない。なんだか変に汗が滲んできたし、月明かりがいやにまぶしく感じられる。
「……ん」
ふと亜双義が小さく呻いて、眉間に少しだけ皺を寄せた。ついどきりと体を跳ねさせてしまったが、やはり起きてくる様子はなくまた穏やかな寝顔に戻っていく。けれど、今度はなぜか、ぼくは安堵することができなかった。どうにも胸の高鳴りが消えない。小さくあげられた呻きと、その際に開いた唇の先の赤が網膜を支配する。顔の熱はより上がり、急に月のまぶしさが増した。ああ、よもや。ぼくはとんでもない領域に足を踏み入れてしまったのではなかろうか。数時間前までただの親友だったはずなのに、そんな馬鹿なことがあるのか?そう思いながら亜双義の顔をじっと見つめてみる。途端に心の臓がどうしようもなく苦しくなって、その顔を見ていられなくなったぼくはすぐさま視線を此方に外し胸に手をやった。明日からどういう顔を向ければ良いのか。今から朝までのこの議題は、夜を明かすにはあまりにもじゅうぶんだった。
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