「成歩堂。今夜、空けておけ」
大学の廊下ですれ違いざまにそう告げられる。周りに聞こえないくらいの声音ではあったものの、まるで周囲のすべての音が止んだかのような気持ちになった。音が戻るときには、顔にはすっかり熱が集まっている。近くにいた同級生に体調を心配されて、慌てて無理やり作り笑いを浮かべた。その後うしろを振り返ると、遠くに亜双義の背中が見える。きっと亜双義はぼくとは違ってなんでもないような顔をしているのだろう。
亜双義の言う「今夜空けておけ」の意味は、たいていの場合ひとつしかない。『そういうこと』を今夜しようという、誘いの意味だ。その言葉とあつく燃ゆる瞳をたずさえて、人前だろうと構わずぼくの目にむりやり色をつけていく。それにしても毎度毎度朝一番に言わなくたっていいと思うのだけど。おかげでもう一日何も手につかなくなることが約束されてしまった。悶々としながらぼくはずっと空が青から橙、そして黒になるのを待つ。こういうときの夜までの時間は、ちょっとした永遠という感じだ。
すべての講義が終わり、同じく講義を終えた亜双義と合流する。そのまま二人でぼくの下宿まで足を進めた。ぼくはもうこの先のことばかり考えてなんの言葉も頭に思い浮かばないし、亜双義も亜双義であまり喋ろうとしない。 おかげで帰り道はとても静かだった。どうしよう。本当はもう部屋に入ってすぐにでも口づけて押し倒して服を脱がして、本能に従ってしまいたい。というかいつもたいていそうしている。けれど、あんまり性急すぎるのもどうなのかとも思う。亜双義は許してくれるけれど、たまに靴すら脱がないときもあるくらいだし、がっつきすぎだと実は半ば呆れているのではないかしらん。今日こそはもう少し余裕を持って、下宿についたらまずちゃんと靴を脱いだあと亜双義にお茶を入れようか。それからすこし歓談でもしたあと、布団を敷いて……ああ、長いな……。
ぼくがぐるぐると思考を巡らせているあいだに、もう体は下宿の前に着いてしまっていた。横目で亜双義を見やるとばっちり目が合ってしまい慌てて逸らす。とりあえず、今日はなんとかお茶を出そう。そう決心して、ぼくはそのまま亜双義を部屋へと導いた。
扉を開けて中へ入るよう促すと、亜双義はもうすっかり慣れた様子で玄関にあがり靴を脱いでいく。前はちょうど今みたいに亜双義が靴を脱いでいるときに辛抱たまらず襲いかかってしまったけど、今日はきちんと靴を脱いで揃えて座敷にあがった。
「お茶入れるから、ちょっと待っててくれ」
ちょうど靴を脱ぎ終わったらしい背中にそう告げると、ゆっくりとこちらに振り返ってきた。その目はなぜか丸くなっている。
「なんだ、突然」
「いや、いつもろくにもてなせてないから……」
「べつに今さら構わん」
そうは言われたが、いちおう茶は出しておく。薄い座布団も二枚置いておいて、座ってもらうよう促した。亜双義は座布団の上に座り、茶を一口啜る。そのちょっとした仕草の中にすらいやらしい要素を見出してしまって、早くも頭の中が真っ白になってきた。眼前の少し濡れた唇に今すぐにでも吸いついてしまいたい。けれどそれだといつもどおりだ。とりあえず何か歓談でも、と話の種を探して脳をかき回す。しかし、そこで亜双義が唇をぺろりと舐めたことに意識が持っていかれて、喋ろうとしたことはすべて頭から吹き飛んでしまった。見つめあった状態のまま、なんとも言えない沈黙が場を支配する。やがてそれを斬り裂いたのは亜双義だった。
「しないのか?」
その一言はぼくの理性を確実に崩しにかかった。亜双義の瞳にはやはり薄赤い炎が灯っている。ぼくをなんとか燃やしつくそうと画策するその熱に頬を撫でられ、思わず息をのんだ。ああ、そうだ。布団敷かなきゃ。
「……ふ、布団、敷く?」
しどろもどろになりつつなんとかそう言うと、亜双義は目を瞬かせたあとに、なぜか可笑しそうにはははと笑った。なんだよと慌てて訊くと、口元を緩ませたまま亜双義はぼくに答える。
「ああ、いや。……普段は性急なくせに、今日はずいぶんお行儀が良いじゃないか」
お父上の教育の賜物か?なんてからかうように言ってくるので、なんだか急激に恥ずかしくなってしまったぼくの顔にはどんどん熱が集まってきた。だって、と思わず呟いて亜双義をじっと見つめる。
「だって、……そうだろ?」
「何がだ」
「その、普段がっついてしまいがちだから。たまには余裕を持ってしないと、そろそろ呆れられそうだと思って……」
「ああ……」
そういうことか。言って、亜双義はまた声をあげて笑う。そこまで笑わなくても。ぼくは羞恥心からへそを曲げてしまいそうだった。しかし亜双義の瞳の中に植わる愛情のようなものがなんだかすこし肥大したように見えて、つい動きを止める。細められたそれの中で、亜双義はぼくを愛でていた。この目はよく見る。情事の最中、ぼくの名前を呼ぶときのそれだ。
ぼくが気づいたことに気づいたのか、亜双義は先程までとは異なった類の笑みをぼくに対して浮かべる。そうしてゆっくりとした口調で言葉を紡いでみせた。
「オレはこういうときのキサマの行儀の悪さは、嫌いじゃないんだがな」
やわらかな眼差しに網膜を刺される。それはするすると首もとを這い、ぼくの服にするりと入り込んできた。理性の壁はどんどん打ち壊されていく。ああ早く布団を敷かなければ。布団を、……。
「成歩堂」
来い、と亜双義は言う。それでついにぼくの辛抱は打ち砕かれた。亜双義に手を伸ばし、その肩を掴んで床に引き倒す。すると亜双義は上機嫌を露にしながら、ぼくの首の後ろに手を回した。
「今は、オレ以外の余計なことは考えなくていい」
そう耳元で囁かれ、体の芯を融かされていく。今ぼくの瞳では炎がめらめらと燃えているのだろう。ああ、きっとこの火がすべて悪いのだ。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -