「カズワン、散歩行こうよ」
オレを呼ぶこの飼い主の声。能天気でありやたら幸せそうであり、愛玩動物のオレに向ける愛情を隠そうとしない。少し間抜けなそれではあるが、オレはこの声を存外気に入っている。
飼い主の名前は成歩堂龍ノ介と言った。英語学を専攻する大学生で、歳は23。泳ぐ目と震える足がぼくのチャームポイントだ、と何故か得意気に断言するような男である。普段の印象は前述のとおり冴えているとは言い難い代物だが、ときおり日常の中でとてつもない観察眼と推理力を発揮する。この間成歩堂が帰って来た際、オレがいつもよりほんの少しだけ遅れて出迎えただけで、オレに熱があるということを見抜かれたくらいには力のあるものだ。しかし本人は自分のそういう才能にどこか鈍感な節があり、大したことはないよ、とよく口にする。なかなかに大したものだというのに。
そんな成歩堂は時たま学友に「弁護士」という職業を勧められるらしかった。弁護士は観察力と精神力が物を言うんだって。そんな風に、学友から聞いた話をオレに語りかける。
「ぼくにはずいぶん縁遠い職業なのにさ。アイツ、ぼくをからかってるんだろうな」
そう言って困ったように笑いながらオレの頭を撫でる。縁遠いか。果たして本当にそうなのだろうか。案外、向いている気がしてならないが。そう思いはするが、人間の言語を持たないオレにそれを伝える手段はない。代わりに犬らしく一言「わん」と鳴けば、成歩堂は笑みを柔らかくしてまたオレをがしがしと撫でた。こういうときに、この体がもどかしいと強く思う。せめて言語だけでも手に入れられたなら、コイツを新たなる可能性の中に引っ張っていってやれるかもしれないというのに。コイツの輝きを、何も知らない人間共に見せつけてやれるかもしれないというのに。

散歩の最中、成歩堂は大抵上機嫌だった。鼻唄混じりに近所を歩き、風景を楽しんでいる。そしてときおりオレを見ると「今日はいい天気だな」などという比較的どうでもいい言葉を一言二言投げてきた。
ところで毎度決まったこの散歩道では、よく同じ人物とすれ違う。そういう人物は三人ほどいたが、特に印象深いのは端正な顔立ちをした淑女だった。成歩堂もその淑女とすれ違うたび視線をちらりとそちらに向ける。そうして後ろ姿までを目で追いかけつづけ、「相変わらずキレイな女性だなあ」なんてことを呑気に呟いた。この瞬間がいつもあまり好きではない。いつもこの時オレは、根本から湧き出るゆえに解決しようもない、ほぼ絶望的とも言える焦燥感に苛まれる。それは一生をかけてオレを蝕みつづける拷問のようなものだった。見上げた先には何事もないようにまた上機嫌に歩み出す成歩堂がいる。そういうことすらどこか物悲しく感じられる。
幸いというべきか、オレは何がどうなろうが飼い犬である。例え成歩堂が先程の女性と結婚しようが何をしようが、飼い犬であることに変わりはない。ただオレの成歩堂と共に過ごす時間は、将来現れるのだろうコイツの妻をも凌駕することは不可能だった。犬は犬だ。人間ほど寿命が長くないことは、とうにわかっている。ああ、これでもしオレが人間であったなら。そういう馬鹿馬鹿しさの極まった思考はふとした際に頭を掠めた。
順当に行けばオレはこの男より早く死ぬ。そこに対しての納得はある。それにオレは何故か、人間であろうと犬であろうと、この男より早く死ぬ気がしてならない。むしろそれでいいとすら思えている。ただ生きている間は、絶やすことなく注がれる愛情を感じていたいと思う。そうしてオレも生涯をかけてコイツの魂を愛でてやりたいのだ。果たしてこれは人間で言うところのどういう感情なのだろうか。具体的に挙げるとすれば、愛か独占欲とでも言ったところか。
「カズワン、行ってくるよ」
そうして成歩堂は今日もオレにとっての外の世界へ足を踏み出す。ああ、首輪でもつけておけたら楽だろうに。そう考えて、犬はどちらだとひとり苦笑した。
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