「キサマに対しては一等誠実でありたいと思ってはいるが、なかなかうまくいかないものだな。………」

そんな声をどこかで聴いた。口調や声から、それが亜双義だということがわかる。けれど、果たしてどこでそんな言葉を聴いたのかはどうしても思い出せなかった。いったいいつ、どこでそんなことを言っていたのだっけ。夢か現かすらわからない。あまりに朧気なものだから、よくよく考えると夢だったような気がしてくる。
夢といえば、昨夜こういう夢を見た。ぼくは下宿の畳の上で寝転んでいる。ずいぶん暗い部屋の中では蝋燭による薄明かりだけがぼんやりと灯っていて、あたりに転がる少なくない量の酒瓶を控えめに照らしていた。夢らしく頭は非常にぼんやりとしていて、ぼくは薄目で天井のシミなんかをじっと見つめている。でも、不意に天井が黒い何かによって遮られた。それはぼくに影を落とし、しばらくじっと動かずにいた。あんまりにも視界が真っ黒なので、つまらなくなったぼくは目を閉じる。完全な闇の世界。そこにひとつ、感覚が落ちてきた。場所は唇だ。柔い何かが、唇に触れた。そのあたりでぼくの意識は夢と切り離され、そのまま深い眠りに誘われていった。


「……という感じだったんだ」
「はあ……そうか」
牛鍋屋の一角で鍋をつつきながら亜双義に昨日の夢のことを話す。亜双義は興味がないのか少し眉をひそめながら生返事をするのみだった。確かに『まさに夢』という感じのとりとめのないものを話されても困るだろうとは自分でも思うけれど、なんだかただの夢ではないような気がしてならないのだ。
「何だか不思議な夢だと思わないか?」
「そうか?よくある意味のない類いのものとしか思えないが」
亜双義はやはりこの話題にはあまり興味がないようだった。あまり深い話にしようとしない。けれどどうにも気になるので、ぼくは顎に手を当てううんと唸りながら話を続けた。
「そうかなあ。実は深層心理の現れとかだったり……」
すると亜双義は、はは、とどこか乾いたようなそれで笑う。鍋の中で煮立つ肉を箸でひとつまみし、それを食む。ぼくには向けられないその瞳はなぜだかいつもより暗い色に塗られているように見えた。
「そんなに小難しいものではないかもしれないぞ」
「そうかなあ……」
「ああ。まあ、所詮夢は夢だ。そんな些細なことは早く忘れてしまえ。そんなことよりキサマ、昨日はずいぶん飲んでいたが、二日酔いにはならなかったのか?」
訊かれて、ああ、と呟く。昨日、ぼくと亜双義はぼくの下宿で酒盛りを行ったのだ。ぼくも亜双義もそれぞれ早い調子で酒をあおり、いつもどおり憂国論議や寄席の話などを思い思いに展開していた。そうしているうちにぼくの意識は睡魔に襲われ、気づけば朝を迎えていたのだ。
「そういえばおまえ、ぼくが起きた途端すぐ帰っちゃったよな」
「大学に出る前に、家に用があったからな」
「ふうん……」
「それより早く食え。オレがすべて平らげるぞ」
言って、亜双義はまた肉を食む。ぼくはそこで自分の箸が止まっていることに気づいた。見ている場合ではない。せっかくの牛鍋なのだから、ぼくも早く食らわなければ。そうしてぼくもまた鍋に箸を伸ばし、とりあえず夢のことは置いておいて空きっ腹を埋めることを優先することにした。そうして鍋を堪能するうち、夢のことなどすっかり頭の片隅に追いやられてしまった。あのとき唇に降ったやけに生々しい感触については、話すことを忘れていた。

牛鍋屋を後にして、それぞれの帰路の分かれ道まで歩を共にする。道中では、今日の牛鍋や前に行った寄席の話などをいつもどおりの調子でふたり語り合っていた。けれどなんだか今日は、亜双義はあまり言葉を使おうとしなかった。さっきからぼくばかり喋っているような気がする。
「亜双義、何だか今日は口数が少ないな」
何気なくそう言ってみる。そのまま亜双義の返事を待ったが、何も返ってこなかった。ついでに、隣で聞こえていた足音も不意にピタリと止んだ。はてと思い立ち止まり、後ろを振り向く。そこにはぼくの数歩前で直立する亜双義の姿があった。
「え、どうした?」
そう声をかけてみるが、またもや返事はない。表情は学生帽で隠れていて窺うことができなかった。ふと先程の牛鍋屋での亜双義の瞳を思い出す。そういえば、暗い色をしていた。
「……本当に、キサマには…誰よりも誠実でありたいと思っている」
「……え?」
「そこに嘘はない。だが、何故だろうな……」
「亜双義……?」
よく声が聞こえない。名前を呼ぶと、亜双義はゆっくりと顔をあげた。その表情にはもうすでに影はなかったけれど、なんだか少し寂しげなようにも見えてしまった。気のせいだろうか。
「なんでもない。すまないな」
「な……なんでもないならいいけど」
柔く笑んだ亜双義は、ぼくの隣に並ぶと「では行くか」とすっかりいつもの調子で言い放った。ああと返事をして歩き出す。さっきの亜双義の様子は、明らかにいつもとは違っていた。いったい何だったんだろう。気になったけれど深く入り込んではいけないように思えて、ぼくは口をつぐんでただ亜双義の横顔を見つめていた。
その後、ふと思い出したことがある。あの夢のことだ。あのときにぼくを覆った真っ黒な影。あの黒の中に、ぼくは赤を見つけていたのだ。鈍く、ほの暗く光る悲哀のような赤だ。赤はさみしげな様子でぼくを見つめている。光はぼんやりとしていたけれど、なんだか、亜双義によく似ていた。
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