「コウモリ」
聞き覚えのある呼び名を、聞き覚えのある声が背後から投げてくる。ああ彼だ、内心でそうつぶやきながらすこし眉をしかめて振り向いた瞬間、急に肩を掴まれた。その後実に唐突に、目前に唇が迫ってくる。その狙いは確実に僕のそれへと定められていた。思考する手間を一度省き、すぐさま肩に置かれた手を払いのけ、腕を盾にして口への接触を防ぐ。すると直前で静止した界塚伊奈帆は無表情のまま僕をじっと見つめてきた。
「何?」
「……こっちの台詞です」
 睨むように視線を返しても彼の表情はひとつとして変わりはしない。その眼差しの意図はあまりにも掴めず、こちらがしようと思えばどうとでも解釈ができた。しかしその割に彼の意志はいつも胸中できちりと銃をかまえているらしい。それらを理解できてしまうからなのか、僕は彼の目を心底不得意としていた。だからこうして睨んでいるいまも、もしかしたら僕のほうが自爆している状態なのかもしれない。俄然逸らす気のないらしい視線をやむを得ずこちらから外し、腕に力を込めつつ言葉を紡ぐ。
「なんなんですか、いったい」
 何故突然キスなんてしようとするのか。しかもよりにもよって、この僕に。僕は彼が苦手で、彼だって僕を嫌っているはずなのだから、そんなことをする理由も意味も僕達には有り得ないはずだ。彼の行動理念が、まったく理解できない。
彼は相変わらず眉ひとつ動かそうとはしなかった。こういうところもなんだか苦手で仕方ない。
「理由を知ったところで、納得できるのか?」
「……は?」
「理屈も理由ももちろんあるけど、それを話す意味は僕には感じられない。この件で君に納得は生まれないだろうから」
「い、意味がわからないうちはより納得できないじゃないですか!」
 あまりの暴論に思わず腕を下げてそう抗議したが、その一瞬の油断を彼に狙われていたらしい。下ろした腕を掴まれ、強い力で引き寄せられた。彼の顔が一気に近くなる。あ、これはまずい、キスされてしまう。そう思った瞬間、自分でも驚くような速さで空いていた手を突き出して、彼の口に手のひらを押しつけた。少しだけ目を大きくした彼と僕との間に、束の間の沈黙が訪れる。今度の彼の表情は読みやすかった。瞳の奥がどこか不満気に濁っているからだ。
「本当に、どういうつもりなんですか」
「あまりふざけないでください」
 先程より怒りを乗せた眼差しを彼に叩きつける。しかし彼は僕の言葉を聞くなり、瞳から不満の色を消した。その意図が読み取れず当惑していると、手のひらに訪れたのは生温い感触。――舐められた、らしい。
「っ!」
 血の気が引いて、反射的に手を引っ込める。当の彼は何もなかったかのような態度で静かに僕を見つめていた。ついに本格的な困惑と怒りが体の内から沸き上がってくる。何か言葉を絞り出そうとしたが、乾いた脳は滴をも垂らさなかった。そんな僕を、彼は視線で殺そうとでもしているのかと思えるくらいに冷やかな瞳で見つめてくる。
「何?」
「な、……何、じゃないでしょう!」
「……」
 ふう、と、ため息を吐かれた。訳がわからない、そうしたいのはこっちのほうだ。一定の距離をとりながらこの身すべてでの警戒を彼に向ける。何をしてくるかわからない。油断は命取りだ、そう胸中でサイレンを鳴らしつづける。
 しかし、意外にも彼は目立ったアクションをとらなかった。なにもしないという意思を示すかのように両腕をだらりと下げたかと思えば、一言。
「わかった」
 などと言ってみせたのだ。まず思ったのはまた唐突におとなしくなって不気味だ、というものだった。しかし完全に先程までとは違って、今にも行動を起こしてきそうな威圧感は薄れたように思える。未だ警戒は緩められない反面、ああもう大丈夫だろうか、と僕はひそかに胸を撫で下ろしかけた。しかしこれは、明らかに僕の油断だった。
「じゃあ君のほうからして」
「え?」
「されるのが嫌なら、そっちからしてくれって言ってる」
「……あなたが何を言っているのか、今までで一番わかりません」
 言語が違うのだろうか、そう思いたくもなる。ここまでの素振りを見ておいて何故今さらそんなことが言えるんだ、このオレンジ色は。というか彼は、僕のことを嫌っているんじゃなかったのか?どうしてここまで執拗に迫ってくるのだろう。いったい、どういう裏がある?
「しなくていいの?」
「……したくありませんし、する理由もありませんから」
「じゃあ理由があればするんだ」
「……」
 何かいやな雰囲気を感じる、ような気がする。最早ここにいるのは危険なのではないか。できるかはわからないが今のうちに逃げようか、そう思って踵を返そうとした瞬間、その足は後ろから響く「セラムさん」という単語によって食い止められることになった。
「君、確かセラムさんの教育係だったよね。けど、その役はたぶん僕にも出来る」
「今度からは僕が代わりをするって彼女に言っておくけど」
 どうする、と聞き終えた瞬間、体を翻し彼の胸ぐらを強く掴んだ。彼はそうされながらもやはり平然と僕を眺めている。僕のわずかな幸福のときを奪う、これが彼の言う理由か。丸めた拳に力が入る。
彼の「理由」に従うとして、必要なのはただ僕の我慢、それのみだ。言ってしまえばキスなんてしょせん唇同士を引っ付けるだけの行為でしかないのだから、あのちいさくも大きい、姫とのふたりだけの世界を守るためならば、こんな一瞬のことなんて些末な話ではないのか。無理やりにそう思い直し、挑むように界塚伊奈帆を睨む。ほんの少しだけ目を細めた彼を前に自らの眉間は自然に皺を寄せるが、ここまで来て後戻りなんてできそうにもないし、するわけにもいかなかった。僕は自分でもわかるほどにぎこちなく、彼にゆっくりと唇を寄せていく。大丈夫、一瞬だ。何度もそう胸中でつぶやく。
そのとき、不意に思いきり腕を引っ張られた。止まれない、とも思う暇さえなく、気づいたときにはもう唇に柔い感触が降りおちてしまっていた。頭のなかでなにかが弾けるような感覚。なおも僕を見据えるその赤を前に、身体中の血が泥のように思考を浸していく。すぐさま唇を離し繰り出した拳は、ああ屈辱だ、完全な正確性をもって彼に避けられてしまった。唇を何度も拭いながら、やっぱり好きになれない、と強く思考する。――ああ、なんなんだ、自分でしろと言っておきながら!
「ありがとう」
 彼はそう言った。顔をあげると、そこには平生の無表情ではないものが飾られていた。口元が、ほんのすこしだけ緩んでいる。そんな表情を見たのはこれが初めてだった。そこで僕はもはやすべてを悟ったような気がしたのだ。なるほど、そうか、これは確実性を持った彼の悪意なのか、と。なんだ、きちんと納得できる答えじゃないか。
「楽しかった」
「……それは良かったですね」
 髪を揺らして頷く彼から僕は一刻も早く遠ざかってしまいたい気持ちでいっぱいになっていた。出来ることならば、その存在を今すぐ撃ち落としてしまいたい。そう思えさえする。そして、それをするための武器だってこの手中には収まっている。けれど彼の手のうちにもまた、武器は握られている。彼の色に呑まれてはならない。油断すれば撃ち落とされるのは、きっとまた、僕のほうなのだから。


たやすい銃弾
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