朝起きて最初にすることは、いつだって朝食の用意だ。コンロの火を止めて鍋の中を踊るトマトスープの味をみれば、兄が好みそうなそれにうまく仕立てあげられていた。立ち上る湯気を見つめながら、ああ兄さんを起こさなければと宿命のように思う。最近の兄さんは俺より起きるのが遅いのだ。仕方がないけれど、朝起きたときに誰もいないというのはすこし寂しい。そんなことを今更知った。
常に開けられるようになった兄の部屋の扉を開けて、ベッドに沈むその体を認める。その傍に足を寄せれば、俺に続いて部屋にやってきたルルがそっとこちらにすり寄って来た。しゃがんでその喉を撫でるとごろごろと音を出す。ルルはどんな朝でもかわいい。変わらない俺たちの宝物だ。
「ルドガー」
不意に声がした。そちらに目をやると、眠そうな兄さんが微笑みながら俺を見ていた。ベッドに片肘をついて、レンズに阻まれていないその瞳をじっと眺める。
「おはよ兄さん。…結婚しようか」
「…ははは。ああ、しよう。結婚式の場所はどこがいい?」
「海の見える教会」
「やけにロマンチックだな」
「一生に一度の事だからな。まあそんな場所ないけどさ」
「式の参加者は…俺たちしかいないよなあ」
「いいじゃん、二人きりの結婚式。ドラマみたいだ」
「うん、そうだな。料理は全部お前が作ってくれるんだろ?」
「はいはい、お任せあれ。フルコース頑張るよ」
「楽しみだな」
「ていうかこの場合花嫁ってどっちになるんだろうな」
「ん?そうだな…しかし俺は明らかに花嫁って柄じゃないだろう」
「それ言うなら俺も違うだろ」
「じゃあ両方花婿ってことでいいんじゃないか?」
「そうだな、そうしよう」
「結婚式のあとはハネムーンでも行くか?」
「お、いいな。俺リーゼ・マクシア行きたい」
「それならイル・ファンなんか雰囲気が出てていいんじゃないか?」
「…雰囲気ってなんの雰囲気だよ。やらしいな」
「…いや、そういう意味で言ったんじゃないんだが」
「まあ初夜だもんな。兄さんも男なんだしそういうこと考えるよな」
「お、お前なあ…」
「で、新婚生活始まったらどうしようか?ご飯にする?お風呂にする?ってやろうか?あとイエスノー枕も」
「そっち方面はもういい…」
「ごめんごめん。…でもさ、新婚生活って言っても、特に何も変わらないよな」
「そんなことはないだろう。何かは確実に変わるさ」
「そうかな」
「ああ」
「…なあ兄さん」
「どうした?」
「兄さんの作る世界なら…きっとあるよ、海の見える教会」
兄は優しく笑っている。もううまく見えないせいで焦点の合わない視線の中、必死に俺を見てくれている。例え黒に蝕まれていようと兄さんは格好よくてかわいいし、とびきりきれいな人だ。いつまでもそれは変わることなんてないだろう。これからどんどん姿は変わってしまっても、きっと。
「大丈夫だよ」
「ああ」
「大丈夫だ、大丈夫」
「うん」
兄さんは左手を持ち上げて俺の頭を撫でてくれた。赤い左目が柔く細められている。
「お前はきっと大丈夫だな」
そう言い終わってからすぐに、兄さんはいつものあの歌を口ずさみ始める。俺も兄に合わせてそうっとその音を口ずさんだ。ルルがすこし寂しそうに、にゃあと鳴いている。
大丈夫なわけがないのだ。俺はきっと兄を追ったあと教会を探しに行くだろう。俺ではない俺に笑いかける兄を見ながら、ひとりっきりで結婚式を挙げるのだろう。大丈夫なわけがないのだ。
ひっそりと薬指にはめられた指輪に未だ気づかない兄が心底愛おしかった。簡単に縛らせてくれるところが好きで、何よりも憎い。
「ここの生活楽しかったな」
「大切だったよ」
「結婚しような」
「ああ」
「絶対にしような」
「約束だ」
もう感覚もないのだろうその左手と指切りをした。


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