狛枝が怖い。あんなにも自然に気を狂わせることができる男を俺は他に知らない。あいつはおかしい、いかれてる。あんな奴の傍にいたら何をされるかわかったもんじゃない。だから、俺は一刻も早く逃げなければいけない。これは本能さえ超越した意思だ。あの凄まじい、トラウマのような脅威から逃げることをやめてはならないのだ、俺は。絶対に。両方の靴が脱げてみっともなく転んだとしても、この足を止めることはない。狛枝から逃げる。魔の手に絡め取られる前に、メデューサに石にされる前に。駆け出していく先の俺を待望するものはなんなのか、それは未だ見えていないけれど。この足を突き動かす情動に身を任せるのは最早義務だから俺はただ走るのだ。狛枝に背を向けて。それでもどうしたって、あいつから遠のいた気は一ミリも感じられやしない。むしろこの先にまた狛枝がいるような気さえしてきて、って、はは。まるで病気だ。いるわけがないのに、ないものにびくびく怯えているだなんて。いくら狛枝と言ったって分身できるわけじゃあるまいし、この先なんかで待ち構えていられるはず「やあ!」…今のは幻聴だよな?


「…七海、なあ、七海。聞いてくれよ。狛枝が俺を逃がしてくれないんだ。逃げても逃げても道の先に狛枝がいるんだよ。あの薄気味悪い笑顔を浮かべて、そんなに息を切らしてどうしたの、なんて平気な顔をして尋ねてくる。なあ、あいつ、あいつは、この世にたった一人しかいないはずだよな?どうして一本道を逃げているはずの俺が、何度も何度もあいつに会うんだよ。おかしいだろ?あいつはいったい誰なんだよ。本当の狛枝はどこにいるんだよ。…俺は、もうどうやってあいつから逃げればいいかわからない。疲れたよ」

俺の話を相槌さえ打たずただじいっと大人しく聞いていた七海は、いつもより長めの間を二人の中にたっぷりと含ませる。しばらくして、えっとね、という切り出しを用いた七海は、真っ直ぐな瞳をこちらに向けたまま怖いくらいにシンプルな一言を俺にぶつけた。

「その道って、本当に一本道なのかな?」

その一言を聞いた瞬間、その薄桃色に奥底を見据えられた瞬間、自分の本能や本性の原型を見せられたような気になって、背筋に冷たいものが走った。心臓をぬるま湯に浸されたような気持ちの悪さが俺の精神に纏わりつく。本当はもうわかっているんでしょうと、そう言われたかのように七海の物言いや視線は確信めいた予知を孕んでいた、風に思えた。やめてくれよ七海、なあ、いつもみたいに優しい言葉をかけてくれ。俺を安心させてくれよ。俺は狛枝から俺自身の意思で逃げられるって、嘘でもいいからそう口にして微笑んでくれ。狛枝なんかに縛られるこの恐怖もいつか終わるのだと誰か、ああ、頼むからみんな!そんな目で俺を見ないでくれ!


足がひどく重い。その原因は、両の足首にきっちりとはまった銀の輪だ。輪から伸びる鎖は銀色の球体である重りへと繋がっていて、それのせいで俺はここから一歩も動けなくなってしまっている。おかげでもう今はここから動くという思いもすっかりなくなってしまって、俺はただ地面に膝をついて無気力に体を丸めていた。それを正面から見下ろしているのは、俺にこんな足枷をつけた張本人である男。いつも饒舌を駆使して俺の思考を掻き回すそいつは、さっきかららしくもなく沈黙を貫き通している。それさえも俺は怖かった。ぺらぺらと狂気をまき散らされるよりも、きっとずっと。

「もう、解放してくれよ」
「ん?」
「俺を逃がしてくれ」

今回も道の先にいた何百人めかの狛枝に呟く。どうして逃げられないのかがわからない。もう何も考えられなくなってしまった。そうすると、俺はただうわごとのようにこいつに悲願するしかないのだ。もう道はここしかない。お前に苦しめられる俺は、お前にしか救ってもらえないんだ。

「うーん、その言い方はちょっとおかしいよね」

あはは、と耳障りな笑みを響かせる狛枝は、地に放り出された俺の左手を靴の先で少しだけ小突く。まるでこっちを見ろと示唆しているかのようなそれに応じて恐る恐る顔を上げてみると、そこにはやはり俺が恐怖する狛枝のあの顔があった。屈託のない、しかし気味の悪いあの笑顔だ。逃げなければならない、俺はここから逃げなければならない!頭にそんな言葉とけたたましい警報音が鳴り響くが、足をぴくりと動かせば大袈裟なくらいの鎖の音が鼓膜へ押し入ってくる。その瞬間襲い来る逃げられないという絶望感。どうしてこんな奴に、俺は囚われているのだろう。狛枝なんかに、ああいや、狛枝だからこそ、なのか?

「ねえ日向クン、ヒントを教えてあげるよ。まず一つめは、ボクはここから一度だって動いたことはないし、それどころか何のアクションも起こしたことがないってこと」
「2つめは、ボクという狛枝凪斗はもちろんただ一人しかいないってこと。キミも本当はわかってるよね?」

目を細めてにこにこと微笑みながら狛枝は人差し指を立てて、そういうヒントなんてものを一方的に俺に与えた。青白い肌の底でさっぱりとした脅威が蠢く気配を感じる。再度奴の唇が開いたところで、耳を塞がなければならないと胸中の本能が騒いだ。しかし、左手に当たる靴先の感触で、それさえも不可能であることに気づく。この手が動いた瞬間に、目前のこいつは俺の抵抗を踏みつぶす、ような気がした。やっぱりどう足掻いても逃がしてはくれないのだ。(…本当に?)ああ、うるさい!

「3つめは、その足枷のことだけどね。それは日向クンが自分でつけたものだよ」

ボクはさっき言ったとおりなんのアクションも起こしてないよ、だってさ。そんなはずないじゃないか、なんてバカらしい!そんなの、まるで俺が自分からこいつに囚われているみたいじゃないか!そうみたいじゃないか、…そうみたいじゃないか?俺はこいつから逃げているんだよな?でも逃げられないんだよな、なあそうだよな。そうだったよな?いや、今さら何も疑うことなんてないじゃないか。疑心なんて狛枝ひとりに向けるだけでもういっぱいいっぱいなのに。自分を信じなくてどうするって言うんだよ。そうだ、そうさ。俺はこうやって否定することをやめちゃいけないんだ。って、あれ、否定?否定ってなんだよ。俺は狛枝から逃げるために走ってでも逃げられなくてそれは俺のせいじゃなくてあいつがたくさん存在しているからでそれは何も間違いじゃなくて、じゃあ俺が否定したいものって、そんなの、ああ、もうやめてくれ!早く俺を逃がしてくれよ狛枝!

「さて、これらを踏まえたうえで、日向クンの走ってきた道は本当に一本道だったのか考えてみてよ」
「キミは本当に始めから果てのない一本道を走り続け無数のボクに出会ったのか、それとも、キミはただひとつの道をぐるぐると回り続けていただけなのか!さあ、正解はどっちなんだろうね!」

それじゃあ解答編へ移ろうか、と両手を広げた狛枝は、もう一度俺の左手を靴先で軽快に小突いた。そのリズムによって俺は自分の決死の否定が死んでいく音を拾う。俺はずっと逃避からの逃避とそれの否定をやめてはいけなかった。だって俺はずっと、せめてギリギリまで、気づきたくはなかったのだ。こんな最果てなんかに。膜のむこうでにこりと笑み続けているこの何百人めかの狛枝は一人めの狛枝とはまったく違っていて、でも何も変わってはいなかった。だから俺は、だからこそ俺はきっと、…ああ、もういっそ殺してくれ。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -