慣れ親しんだ夜の帳は僕の本能をするりと引き出してしまう。上手く隠してきたつもりの嘆きが空の星のようにぽろぽろと溢れて、たまらなく切ない海が水面に映し出したのは僕の大事な仲間だった。最近ルドガーがよく眠れていないことを僕は知ってしまっている。理由はもちろん、分史世界の破壊からくるストレスだろう。どうにかしてあげたいのにこればかりは僕がいくら手を尽くしたって意味がなくて、傍にいるだけで何もできない自分にひどく腹が立つ。1年前に僕がそうであったときにはローエンやみんなが励ましてくれたっていうのに今の僕はあまりに無力で、こんなもので医学者だなんて笑い話にもならなかった。傷だらけの手のひらを見つめながら、ルドガーにちらりと視線を投げる。ルドガーは隣のベッドの背もたれに上体を預け、Tシャツ姿でお酒を呷っていた。着替えもせずベッドの縁に腰かけている僕は、さっきからただじっと思想に耽っている。ルドガーがお酒を呑んでいる姿はこの旅の中でもちょうど3回ぐらいしか見たことがないという程度には珍しい光景だった。それ故に僕は彼にうまく視線を向けられない。どうしてお酒を呑んでいるのかも、なんだか訊けずにいる。彼の沈黙がいつもより深いことだとか、秒針の音が煩わしいことだとか、そういうものが僕の不甲斐ない有様をよりいっそう際立てていた。グラスの中で揺れる氷の音がからからと響く。耐えられなくなって、僕はつと口を開いた。

「なんでルドガーなのかな」

言った瞬間、ああ、だめだと思った。違う、僕はこんなことを言いたいんじゃなくて。言いたかったけれど、これは言っていいことではなくて。僕はただ彼を安堵させたかっただけのはずじゃないか。ルドガーは僕の言葉を受けてグラスを口に運ぶ手を止め、不思議そうにこっちを見やっている。それだけならまだよかったのに、どうしたんだ、とかけられた言葉を聞けば、また陳腐な台詞ばかりが頭を占め始めた。僕は彼にこんなことを言いたいわけじゃない。ないのに、聞いてほしいなあとどうしても思ってしまう。彼にこんなことを言ったって、悲しくなるのは彼のほうだ。そう自分に言い聞かせても、溢れかえる言葉をせき止めることはなぜかできなかった。

「骸殻も分史世界も、それを背負うのはルドガーじゃなくてもいいのに、なんでルドガーなんだろう。ルドガーはいろんなものを背負いすぎてるよ、こっちが辛くなるくらいに」

口に出してみると、思っていたよりも自分らしくない言葉だと感じる。わかっている、これはクルスニクの家系に生まれたルドガーじゃなくちゃできないことだ。それに、背負っているものは確かにとても大きいけれど、それでもルドガーの隣にはちゃんとエルがいる。…僕の隣にミラがいるように。だからこれは僕が口を出すようなことじゃないし、ましてや僕が嘆いたってお門違いにも程があるという話だ。ああやっぱり口に出さなければよかった。僕ももうある程度責任を負っている立場にいるんだから、自制の利かせ方くらい覚えていなくちゃならないのに。はあ、と失態にため息をついていると、隣からはははという快活に笑う声が広がり始めた。慌ててルドガーのほうを向くと、彼はなんだかとても穏やかな顔をして、ゆるゆると笑っていた。そんなこと考えてたのかとルドガーは心底面白そうに言いながらグラスを口元に持っていき、ぐいと傾ける。なんで笑うのと困惑を込めてちいさく抗議するけれど、久々に見るその自然な笑顔にさっきまでの重苦しさはみるみるうちに溶けていってしまった。薄暗い部屋ははなやかな光の色に塗り替えられていく。ルドガーはひとしきり笑ったあと、グラスを揺らしながらその中の微々たる水分を見やる。そうして、ぽつりと言葉を零した。それが僕にとって、おそらくいちばんいけなかった。

「ジュードはかわいいな」

これなのだ。これがほんとうにだめだった。僕は僕の中の何かとてつもなく大きなものを引きずり出されたような、そんな錯覚を起こした。男にかわいいというのはどうなのか、とか、そんな複雑な感情も吹き飛ばさなくてはならないくらいに心の間に合わせがきかない。心臓の鐘がとにかくうるさくなって困った。よくよく考えてみればルドガーは20歳で、自分とは4歳しか違いがないとはいえやっぱり年上だったのだった。失礼な話だけれど、近頃の僕はそれを忘れがちになっていたらしい。けれどいま心の底からそれを実感してしまった。僕はまだ子供だ。そして僕はたったいま彼に恋をしてしまった。ああ、どうしよう。ほんとうに困り果てるばかりだ。せめてお酒の力がうんとはたらいて彼がこの夜のことを忘れてくれたらいいなと、グラスの中の溶けゆく氷たちにそっと願った。あふれる感傷は胸の内できらきらと輝く。


どぼん、とどこかで大きな音がする。目が霞んで、とにかく息が苦しかった。死ぬんだなと本能で感じ取る。ぼやりと浮かぶあの人影は状況から言えば裏切り者のそれで、僕は、医学者の僕はあれを許してはならなかった。死んじゃだめだ、生きなくちゃ。僕はまだ何も成し遂げていない。けれど、けれどどうしてこんなに体が重いのだろう。意志も力も今の僕には抜け落ちすぎている。役立たずな思考の海に溺れ、そうしてすぐに気がついた。そうだ、ミラがいない。僕の手を握る彼女がもうどこにもいないのだ。ああ、…死があまりにも近い場所にある。ミラがいなくちゃ生きられないわけではないけれど、もう僕の目に地上は映りはしなかった。ここは水の中なんだ、うん、わかってたよ。ほんとうはずっとどこかでわかっていたのかもしれない。薄らと浮かぶ人影がだんだんとその形を崩していく。おそらくもうじき医学者でなくなってしまう僕は、消えてしまう彼の面影を霞む視界の先で必死に辿った。ただのひととしての僕はどうしても、どうしても願いたかった。もう何もないから、ただ祈るしかないのだ。僕は想う、ひとの脆さについて。見て見ぬふりをし続けてきた彼に住む子供を。ルドガーは大人である前に人間だった。いちばん最初にわかっていたのに、忘れてしまっていた事実だった。ルドガー、と彼の名前を呼ぶ。声に出ているかはわからないけれど、出ていないなら、そのほうがいい。ルドガー、もっと速く、遠いところに逃げて。つかまらないで。ちゃんと生きぬいて。ねえ、ルドガー。

「死なないで」

波紋が広がるように世界は閉じていく。ルドガーはもう遠くへいってくれただろうか。そうだといい、ユリウスさんと果てへ果てへと逃げて、そこで生きていてくれたら、世界だなんて捨ててくれたなら。これの他にいま願うことは、どうか彼が僕の最後の言葉を聞かないでくれているといいなあ、ということくらいだ。ルドガーはいつも、僕に応えてくれないひとだったから。
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