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 わたしは遠浅の海をざばざば音を立てながら歩いていた。海水を吸って重たくなったドレスの裾を意に介さず、あてもなくひたすらざばざば歩いていた。敵が来るから海は嫌いなんだけどなあと思った。何度やって来る軍を見たか! 思い出すと嫌になった。でも心地よく冷たい水の感触と目に染みるきらきらとした光、ああ嫌いじゃない、嫌いじゃないのかもしれない。わたしは向こう側からやって来る、平和を乱すものが嫌いなのだ。だから海は好きなのかな、どうかな、わからないなあ!
 ふと兄の、わたしをかわいそうと言った目を思い出した。澄んだ瞳をこちらに向けて、ああアルトリア、あなたはかわいそうだと言って頬を撫でたのだ。訳がわからず、わたし自身もかわいそうだなんて言われるような謂れもないと信じていたので、訳のわからないことを言わないでくださいと兄の頬を軽く、ぱちんと打ってやった。兄は驚いた顔をしてから笑うと、失礼しましたと言ってわたしから手を離したのだった。

 なぜわたしは海にいるのだろうと思った。聖杯戦争をしていたはずだった。そしてこんなときに兄を思い出したのが不思議だった。何ともなしにドレスの裾を持ち上げると、赤い水が垂れた。ドレスが血にべったり染められていたことに、初めて気がついた。これはなんの血液だろう。アルトリアのぶん? セイバーのぶん? どうしてわたしは元気に呼吸をしているのだろう。そうか、わたしはどこからも逃げ出したかったのだ。逃げ出した先がここだったのだ。
(……あれ)
 いつの間にか目の前に人が立っていた。波と一緒にゆらゆらしている。なんとなく影がかかっていて、誰なのかよくわからない。その人が、兄のように、かわいそうなセイバー、と、言う。男の人の声。その声に聞き覚えがあった。その人が近寄ってきたので、わたしは立ち尽くして彼の声を思い出そうとする。顔は影になっていてやはり見えないが、彼は黒い髪であることに気付いた。彼がわたしの頬を両手で包む。既視感。彼はなおも続けた。かわいそう、もう頑張らなくていいのだ、一緒に行こう、セイバー。……この声。誠実な声。誰なの、知りたい! 頬が何かでぬめる。目の前の人の声が泣いている。なぜ?



「アルトリア」
 目を開く。頬をぺちぺちと叩かれていた。視線の先には兄がいる。朝ですよ、と言われのっそり身を起こすと、見慣れた城の中の自室にわたしはいて、あれ、と思った。わたしは寝台に座り込んだまま、夢心地で兄に話しかける。
「……奇妙な夢を見ました」
「夢?」
「あの、わたしをアーサーともアルトリアとも呼ばず、当たり前のように別の名を呼ぶ人がいたのです」
「それは奇妙ですね」
「しかし見知らぬ人であるはずなのに、わたしはその人を知っていた」
「……」
「その人の顔は見えませんでした。……が、声を知っていたのです。どこで彼に出会ったのかも、わたしは」
「アルトリア」
 わたしが話すのを遮るように兄はわたしの名を呼んだ。
「それ以上そんなくだらない夢のことを思い出している場合ですか。さあ、着替えて顔を洗ったら、朝食を食べなさい。こちらへ運ばせますので」
 兄がさっきと打って変わった冷たい声で言うので、わたしは曖昧に頷くとアーサーとして一日を始めようとする。兄の変わりようが夢よりも奇妙に思えて、わたしは夢のことを忘れることにした。しかしわたしが寝台から降りたその瞬間、足元が水に浸る感覚がする。刹那目前の兄が振り向いて、いけません! と叫んだ。わたしは寝台から滑るように水の中へ落ちる感覚に包まれて、びくりと体を痙攣させ気が付くと、和室の天井が頭上にあって、セイバー、と呼ぶ声があることに気付く。優しい女性の声。ああ、アイリスフィール、眠ってしまってごめんなさいとわたしは彼女に言った。水に溺れていたような浮遊感が体に残っている。
「すごい汗ね。大丈夫?」
「お気遣い痛み入ります。……ただ、奇妙な夢を見たのです」




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