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 すうと息を吸い込むと鼻腔にひろがる土蔵のにおい。埃っぽい、薄暗い、さみしいにおい。目の前で、手の力が入らないから休むわと言った、アイリスフィールが穏やかな顔をして眠っている。そこらに漂う、たばこのにおい。さっきまで切嗣がここに来ていたのだろう。切嗣のにおい。
(……あの男は)
 未だ会話の交わしたことがないという事実。彼がわたしの声を聞かない。彼がわたしの目を見ない。唯一においだけが、わたしに語りかける。お前はいらない。そんなこと、とうに知っている。蹲る。
(あ)
 穏やかな太陽の光が窓から差し込む。あたたかさに馴染んでゆくにおい。土蔵の、さみしいにおいにかき消されて彼がいなくなる。なんとなくかなしい予感がして、それは嫌だと思った。どうして嫌だと思ったのだろう。彼は嫌いだ。だが生き様は尊いと思う。それだけだ。それだけなのに。



 蔵を出ると、雑草まみれの庭に切嗣がたばこを吸いながら、立っていた。
「……マスター」
 思っていたより掠れた声が出たので、なんだか恥ずかしくなる。彼はまっくろな瞳で黙ったままわたしを見ていた。射抜くような視線に足がすくみ、動けなくなる。にらみ合うようにお互い動かずにいたが、耐えきれなくてわたしはうまく動かない唇を動かした。
「なにか、答えてください……」
 彼はしばらく人形のように立ち尽くしていたが、ようやく吸っていたたばこをふっと吐き出し踵で火を消した。そしてざく、ざくと静かに土を鳴らしながらこちらへやってくると、蔵の前に立つわたしの至近距離に立ち、せめて退けとでも言うのかと思ったら、その痩せた指をわたしの頬に伸ばす。氷のように冷たい手。こんな寒い日に、わたしが蔵を出るまで、外で待っていたのだろうか。
「……マスター」
 アイリスフィールとの会瀬にわたしが邪魔だと思うのなら黙ってわたしを蔵から出すことも、彼なら容易かっただろうに。しかしあんまりにも彼の指先が壊れ物を扱うような繊細さをはらんでいたのでわたしはそれ以上なにも言えず、目を伏せる。すると彼の手が離れたので思わず顔をあげたら、彼は泣き出しそうな、痛みを堪えるような表情を、ほんの一瞬だけわたしに晒した。しかしすぐさまいつもの仮面をかぶったみたいな顔をして、わたしから離れると、何事もなかったかのように蔵の中へ入ってゆく。がちゃり扉の閉まる音。それから薄い膜のようにわたしにはりつく、彼の残したつよいつよいたばこのにおい。めまい。彼のにおいに抱きしめられている気分になった。たばこの、きもちわるい、だけどどこかやさしいにおいに、唇を噛みしめる。視界に映るたばこの死骸。閉ざされた扉に寄りかかる。切嗣。彼に喚ばれなければよかった。



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