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 『歩』

 湯飲みを側に、メモ用紙に書いた文字を掲げて彼女はじっと俺を見る。ハルナとセラは十分ほど前に晩飯の食材を買いに家を出ていった。少し前は当たり前だったこの状況が、今はとても懐かしい。どうしたと返事をすると彼女はさらさらとまたペンをメモ用紙に走らせる。そして静かだ、と書かれたのを差し出してきた。そういえばテレビが点いていない。

 「ごめんな、テレビだな」
 『違う』
 「そうなのか?」

 メモ用紙に書かれた文字は、音で会話するのと同じ早さで返される。

 『たいくつ』
 「そうか。じゃあちょっとした質問に答えてくれないか」
 『どうぞ』
 「ユーはさ、何で日本語を知っているのかなって思ってたんだよ」
 『どうして』
 「だってさ、冥界の言葉は日本語じゃないだろ?」

 彼女は頷く。俺は仮定を述べてみた。

 「もしかしたらユーはイギリスのコンビニの前にいたかもしれないよな」
 『イギリスにコンビニはあるの?』
 「……や、わかんないが」

 笑い混じりに言うと彼女は首を傾げた。そしてとんとんと机の上のメモ用紙を軽くペン先で叩く。

 『言われてみればわたしも不思議』
 『イギリスにいたならイギリスの文字を書いていたかもしれない』
 『でも現にわたしがいるのは日本だし、』
 『そんなことはどうだっていいでしょう』
 「……ま、そーだよな」

 彼女のメモ用紙を読みながら頷いてみせる。そして読み終えたメモ用紙を机に置くと、また新たなメモ用紙が追加されていた。視線をそこに移す。

 『でも歩や皆に会えたから、わたしのいるところが日本で良かったと思う』

 俺は無表情に側の湯飲みに手を伸ばす彼女を見た。この表情の彼女では、この文字は一体どんな気持ちでもって書かれたものなのかわからない。もしハルナなら、セラなら、笑うなり泣くなり怒ったりして何よりもわかりやすくきっと、

 (……ちょっと、寂しいよなあ)

 生まれてから彼女は感情の赴くまま一度でも笑ったことはあったのだろうか。泣き顔はあの一度だけで十分だが、次こそは、彼女には絶対に言えたことではないが一度だけでいいから俺の妄想の中でなく、心から笑いかけて欲しいと思うのだ。俺だけはずっと彼女の側にいられるのだから、これから何年も経っていつか世界が破滅して、本当に二人きりになったその時にでも、笑いかけて欲しいと思う。



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