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 なんとなく夢心地だった。タオルを体に巻き付けて、兄と対峙する。浴槽の中。熱くもない湯なのに、頭がぼやーっとしている。


 初心に帰るって、こういうこと?

 そうアル。わたしたちが幼かった頃のことを、ひとつずつ復習していくのヨ

 それでどうするの

 べつに。ただ、神威にごめんって言わせたいだけ

 よくわからないなあ

 今はそれでいいネ



 ちゃぷちゃぷと湯が音を立てた。からんから垂れる水滴がぽたり、ぽたりと床に落ちる。兄は穏やかな顔をしている。


 神威は、覚えてる? むかしを

 そうだねえ

 わたし、実のところ、覚えてないアル

 あり?

 だからむかし、ふたりでお風呂に入った記憶もないし、さっきみたいに一緒にごはん作ったことも、覚えてないの


 兄は心底不思議そうな顔をした。


 だったらなんでこんなことするのさ

 なんだっていいのヨ

 なんだっていいの?


 兄はわたしの瞳を見た。死んだ色をした瞳。


 なんにもないなら、わたし、新しく何か作り直せばいいと思ったネ


 わたしがそう答えると、兄の瞳にほんのすこし、やわらかな光が差した。そうして、海原を駆け抜ける風のような、静かな声で、ごめんね、と言った。


 俺は、むかしを覚えてるよ


 わたしはどうして兄が謝ったのか理解できなかった。


 覚えてるから、新しく思い出を作ることはできないし、俺は前に進めない。お前との思い出は、俺にとって大切なものだよ

 思い出だけが大切アルか。いまのわたしはいらないの?

「だって俺たちはもうとうに、はなればなれじゃないか。」


 瞬きする。頭の中で、兄が言わなかった、言ってほしかった言葉を兄の声で求めているのにうまくいかなくて、かなしいところばかりぐるぐるする。記憶の中の会話。それが二度とあたらしくなることはない。浴槽に一人、わたしは口元まで湯に浸かって、ぶくぶくと泡を立てた。兄はもういない。
(どうして)
 兄がいない。ぼやけた頭の中で、兄が揺らめいて消えてゆく未来を思う。どうして。どうしてわたしを求めてくれなかったの。手を差し出してくれたならわたしもきっと、その手を握ってやったかもしれないのに。救ってあげたかったのに。
(かぐら)
 あたたかくてやさしかった。時間が経てばそんな兄の声も忘れるのだろう。二度とみたくないあの貼りつけたみたいな笑顔を思い出そうとしたそのとき、目前の湯気のように儚い映像しか浮かばなかったので、初めてわたしは、兄のために泣いた。



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