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(航海)
 底冷えのする三月の終わりに、まだまだ春はやってこない。薄手の服なんかで外に出れば震え上がる。花も固くつぼんだまま、冬の名残がある景色の中で、わたしは母の歌っていた子守唄を思い出していた。甘い母の声が好きだった。そのとき なにやってんの と、ひとりで佇んでいるわたしに声をかけた兄の汚れた服が視界に入ったその日から、幾度も太陽は沈んだのだ。悔いても悔やまなくともあの三月は二度と来ないのに、またやり直しの聞かない新たな三月が、もう終わろうとしていた。あと一週間 そう声に出して呟くと はあ ため息が漏れる。七日を見送れば、三月が去る。
「神楽、俺と二人だけでいられる?」
 あの時の問いの意味を今更知ったのだ。兄はおもちゃのダイヤモンドをちらつかせてそう言った。わたしはそれに釣られそうになったが、父が一人になるのも嫌で三人でいようと言ったのだった。あのときのわたしは、まだ幼かった。





(公開)
 兄との二度目の対峙。あれから幾年か経って、兄の手の中には未だにおもちゃのダイヤモンドがある。まだ、誤魔化すつもり?
「さあね」
 口の中が乾く。言葉を発するのが億劫になる。父がこの光景を目にしたら発狂するだろう。たとえ偽物でも、兄妹で永遠を誓うなんてばかみたいだ。兄が嫌いというわけではない、でもわたしが首を横に振っただけで、おもちゃのダイヤモンドはなかったことになった。このことは誰も知らない。





(後悔)
 ふと友達から聞いた運命の赤い糸の話を思い出す。わたしはとうに結婚の出来る年を超えていて、それでも一人きりだった。わたしより年を重ねていた周囲の人々は、それなりに各々誰かと結ばれて、幸せそうに笑っていることが増えている。わたしはと言えばまだ乙女と呼べるような齢ではあるが処女であり、その上これといった恋人もおらず、先日万事屋に客として来た若い男に食事に誘われて、赤い糸の話を思い出したこの瞬間に、どの服を来て出掛けようか思案していた。そしてなんとなく気の乗らないまま、なんとなく決めた服で外に出ると兄が立っていた。
「待ってた」
 兄は笑っていた。手を引かれ、左手の薬指に、わっかが通される。
「わたし、今日は誕生日じゃないアル」
「わかってるくせに」
「どういうことヨ」
「今度は逃がさないから」
 無意識にわたしも笑っていた。諦めていた。兄なら、きっとわたしをどこまでも追ってくる。昔から意地悪な兄なら、喜んで嫌がるわたしを捕まえるのだろう。
「わたし、ご飯に誘われてるアル」
「ふうん、じゃあ殺っちゃうしかないね」
「なんで」
「俺の邪魔するんだもん」
 俺たちの、と言わないあたり、いまわたしにしていることが無理矢理だと自覚はあるようだった。
「殺っちゃうのは駄目ヨ」
「えー」
「ついていってあげるから」
 口をついて出た。あ、しまった、と思う間もなく兄は破顔して、わたしの腕を引くと走り出した。こんなにことが早く動くとは思わなかったので戸惑いもあるが、兄が笑っている。存外に嫌じゃない。
「こうかいしない?」
 どことなく灰色がかった路地裏で、兄の曖昧な発音が響いた。それがどのこうかいなのか、わたしにはわからなかったけれど、もうどれでもいいやと思う。兄がわたしの後頭部に手を添えた。終わる。わたしの視界には兄しかいない。



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