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よくドラマや小説で、あの人が笑ってさえいればそれでいい なんて台詞がこれでもかというぐらい多用されているけれどわたしは、わたしにとってのあの人には、笑っていなかったらそれでいい という思いでいっぱいなのである。
「本音見せろヨ」
「えーなに言うの急に」
「だんだんそのツラに嫌気が差してきたアル」
「やだなあそんなこと言われたの初めてなんだけど」
「きっとみんな、わたしと同じこと思ってるネ」
本当に幼かったあの頃は、兄もまだ表情に変化があって、わたしが良いことをすれば笑って褒めてくれたし悪いことをすれば怒って叱咤してくれたし辛いことがあれば悲しげに泣いてくれた。しかし、なぜか現在の兄の表情の固定度は半端でなくて、いつも笑顔でわたしは不安になるのだ。
わざと兄の服に食べ物をこぼしてみたり、わざとらしく足を踏んづけてみたり、兄が楽しみにしていたらしい格闘番組の録画を取り消してみたりしたが、全て兄はにこにこしてしかたないなあとしか言わなかった。
「兄ちゃん、怒ったりしないの?」
「なんで怒る必要があるの」
「だって、……」
「全部ちゃんと謝ってくれたじゃん、いいこだよ、神楽」
学校では番長だとか呼ばれているらしい兄が、家ではこんなだ。律儀に毎回謝罪したのが悪かったかもしれないが、もう兄に迷惑を掛けるのも疲れたので、兄の笑顔以外を発掘するのをわたしは諦めた。
学校の帰り、友達とバス停まで歩いていると車に乗った人に、声を掛けられ立ち止まる。〇〇駅ってどこですか、といったもので、その駅はここからじゃかなり遠いなあと説明しあぐねていたら、友達が車の人に近付いて細かく説明し始めたのでよくできた友達を持ててよかったと感慨に耽っていると、突然車の後部座席の扉が開いて友達が連れ込まれた。瞬間走り出す車、呆気にとられたわたしは一瞬立ち止まってしまったが、慌てて鞄を投げ捨て車を追い掛ける。
まさかいっぱしの女子高生が追い掛けてくるとは思いもしなかったのだろう、赤信号でのんびり止まっているその車に、そのお陰で運よく追い付けたわたしは躊躇いなくギャラリーが周りにいる中、友達を乗せた車の後ろの窓ガラスを出来る限り友達を避けて蹴破って、足を血塗れにしながら友達を引きずり出すことに成功する。そしてわたしたちの様子を不穏に思った誰かが通報したのか、わたしが車に入り込み残った男をがむしゃらに殴っている間にパトカーのサイレンが近付いてきた。
友達が警察に事情聴取されている間、わたしはバイクに乗ってやってきた兄にぱこんと頭をはたかれた。痛くはなかったが、反射的にあだっと声が出る。
「警察から連絡来たんだけど」
「兄ちゃんは慣れっこでしょ」
「俺はいーの」
兄はわたしの手足を見て血塗れじゃんと呟いた。
「もう傷は塞がったヨ」
「一応オンナノコなんだから」
「何でこんなときに女子扱いアルか」
「事実じゃん」
わたしはそういえば珍しく兄が笑っていないことに気付く。久しぶりに眉間に皺を寄せた兄を見た気がした。
「兄ちゃん怒ってる?」
「さすがにね、こんな無茶されると」
「やった」
「なにさ」
「やっと兄ちゃんの笑顔崩せたアル」
また頭をはたかれ、お前わざわざそのためにこんなことしたの、とやや低めの声で言われる。そういう訳じゃないけど、とわたしは少し怯えて兄を見上げた。
「だから、わたしはたんじゅんに兄ちゃんの本音が見たかっただけなのヨ」
兄はなにそれ、と気が抜けたような、困ったようなよくわからない感じに眉尻を下げて笑った。兄のこんな笑い方をわたしは知らなかった。
「作り物の笑顔は嫌いアル、けど」
「俺にとっては笑顔はデフォルトなんだけどなあ」
「でふぉると?」
「……家に帰ったら一緒に英語の勉強しようか」
兄ちゃんになんか教えてもらいたくないネ、とわたしが反抗的な態度をとっていると、警察がわたしたちの方にもやって来て事情聴取されることになりそうだったのだが、わたしが答えようとすると兄がわたしの腕を掴んで引っ張る。
「晩飯の時間なんで帰ります」
警察の人たちは驚いた顔をしてぽかんと兄を見た。わたしはそんな兄に従って、ノーヘルのままバイクに飛び乗る。兄は面倒ごとが嫌いなのだろうと思った。バイクは走り出す。
「にいちゃん!」
「なにー」
走るバイクのせいでごうごううるさい風の中、わたしは兄に話し掛けた。
「バス停のとこに、鞄、置いてきちゃったアルー!」
「りょーかーい」
遠回りになるが、わたしにとってはもう、気持ちは帰宅したも同然だった。兄がいる、そこが家な気がする。バス停に辿り着くと、兄が笑って鞄を回収するわたしを見つめていた。笑顔が嫌みを含んでいなくて嬉しくなる。わたしは、そこでようやくドラマや小説のあの台詞の意味を理解した。