夕暮れの光に白い梯子はよく映える。白に一番映える色は黒だ。黒いワンピースを纏った彼女はそれをよくわかっている。
不意に、雲の隙間から降り注ぐ光を天使の梯子に喩えた表現を思い出した。あれはあながち、ただの比喩ではなかったのかもしれない。デセオは首の反る限り少女が辿る白い道筋を仰いだ。どうやら、あれはやがて昇る月に向かってかけられたものらしい。雲を突き抜け、その先もずっと上まで続いている。
「猫はまあるいものが大好きだからな」
野良猫を自負する青年はにんまりとした。頭上に猫の三角耳を持った少女に、一方的な親近感を抱いているらしい。ネグラと名乗ったその子は、ちょうど自分の腹の高さに顔のあるデセオを見下ろす。真っ白のラダー越しに向き合う両者の距離は近い。その気になれば、反対側からデセオが上りネグラを追い越してしまえそうなくらい。少し背伸びして腕を持ち上げれば、少女の頭に触れられそうなくらい。
しかし、そうはしなかった。溜息をつきながら足元に一羽、ネグラの肩に一羽、それと頭上を旋回する最後の一羽を見る。赤青黄。三羽三様の眼はいずれも二人のやり取りに無関心なれど、デセオには鳥達を無視できない理由があった。
「鳥なんてのは、猫が弄んでうっかり殺してしまうためにいるようなもんだ。そうだろう、お嬢さん。そうなのだ。しかし、可愛い鳥の首をきゅっと捻る男なんて、女の子はきっと好きになんかならない」
少女は、そこで初めて好奇心旺盛な双眸を細めた。世の中の女の子はそんな単純じゃないと言いたげな微笑に気づけば、青年はむうと胸を張る。
「裏を返せばだ。いたいけな動物を手にかけるような奴と付き合っちゃならんという教訓なのだ。吾輩の言いたい事がわかるかね?」
「ううん、ちっとも」
「――それはいい! 君には君の考えがあるという事だな!」
そこで遂にネグラは片手でお腹を抱え笑い出した。ころころと鈴を鳴らすような声を立てて。まるで真っ暗な夜なんか来ないと信じ切っている子供の声で朗らかに笑っている。
「ちょっとくらい危なくたって大丈夫。わたし、あなたが思ってるよりずっと危ない橋を渡ってきてるんだから」
「それは頼もしい、実に頼もしい。その梯子も、危ない橋のひとつかな?」
「こんなのは、危ない内に入んないもの」
軽業師よろしく片手を片足を離しても平気な顔、落ちる気配がまったくない。しなやかな手足を再び月へ向かうラダーにかけると、ネグラは藍色に染まりつつある空を見る。
「そろそろ行かなきゃ。お月さまは薄情だから、わたしの事なんてさっさと置いて行っちゃうんだ」
「吾輩なら君のこと、軽々背負って月まで行ってやれるのになあ」
「でも、それってきっと退屈よ。おじさま?」
「お兄様呼びを心から強要したいが、それなりにときめいたので許そう! 特別に許す! 君くらいの歳の子は無茶をしがちだからな。気をつけて行きたまえ」
ネグラは答えなかった。最後に、とびきり美味しいものを頬張った時のように笑顔を見せて、するすると空を目指していった。
彼女の姿が指先に乗せられるくらい小さくなって、やがて見えなくなるまでデセオは見守っていた。気づけばあの鳥達もいない。残光が最後の一条を放って地平線へ消えゆくところ、濃くなりゆく影の中で野良猫は呟いた。白い牙を零さんばかりに大きな笑顔を浮かべて。
「冒険好きな女の子の良い所は」
くるりと回れ右をすると靴の底で家路を捉えながら、鼻歌交じりに言葉を括る。
「自分が失敗するかもしれないなんて臆病をまったく考えない所だな」
翌日、あちこちの街で号外が出た。
昨晩の月に、ウサギでも美女の横顔でもなく、地球儀を持った女の子と三羽の鳥がシルエットとして見えたのだという。
人混みに紛れて一報を掠め取ったデセオは訳知り顔で、やっぱりにんまりと笑ったのだった。
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