一人一木回想録 過去 - 2


***


「消えろと言うたのはお前じゃろうに」

 気配を感じ取った根々が言った。
 背後に立った少女は、根々が一本の若木の前であぐらをかいて酒を呑んでいるのを訝しんでいる。森の奥深く、樹が生い茂って日当たりの悪い場所だ。根々の周りには空の徳利がいくつも転がっている。一体どこから調達してきたのだろう。

「儂に何の用じゃ」
「確かめたいことがある」

 二人が再び顔を合わせることになったのは三日後のことだった。領主の屋敷を飛び出した少女は一日中森の中を探し回り、ようやくあの鼻にこびりつくような甘い匂いを頼りに根々を見つけた。今頃屋敷では少女がいなくなったと大騒ぎになっているだろうが、そんなことはどうだって良い。

「答えて。アンタは一体何者なの? 本当に……マティじゃないの?」
「この間も言うたじゃろうが、そんなもんは知らん。儂は儂じゃ、それ以外の何者でもない」
「答えになってない」

 根々は徳利をあおった。目の前の若木ばかり見ていて少女に振り向こうとしない。

「ちょっと、聞いてるの? ねぇ、アンタ、ねぇってば」
「聞こえとるわ、やかましい娘じゃの」
「だったらこっち向きなさいよ、アタシが話してるのよ!」
「名乗りもせん奴とは話とうもないわ」

 根々が冷たく言い放つと、少女はむっとして根々と若木の間に割り込んだ。

「ベニアよ」

 ベニアは根々を見下ろした。腰から下げた剣の鞘が音を立てる。
 根々はほんの数秒ベニアと目を合わせたかと思うと、もう視線を若木に逸らしてしまった。体に巻いた布には三日前のウサギの血がべったり付いたまま茶色く変色していた。酒を調達しても服を調達する気はないらしい。

「『儂は儂じゃ』って全然答えになってないわよ、ちゃんと答えなさい」
「……」
「黙ってないで返事くらいしなさいよ、この礼儀知らず」
「他人の会話に割り込んでくる方が、よっぽど礼儀知らずだと思うがのう」
「一人のくせに何言ってるの」
「そこに立たれては邪魔じゃ、お座り」

 根々が地面を叩きながら言った。

「もうすぐ咲くと言っておる」

 ベニアは根々の視線の先を追った。振り返って見ると若木につぼみがついている。

「この辺りの土地には不思議な力が満ちておる。植物の命が濃くなるようじゃ」
「アンタまさかこの木と話してたなんて言うんじゃないでしょうね」
「声に出す会話とは違うが、まぁ、そんなとこじゃの」
「ハァ?」
「ほれ、咲くぞ」

 突然ざわめいた森に驚き、見上げたベニアの上に陽光が差した。眩しさにくらんで目をつむる。樹木が春風に大きく揺れたのだ。
 ベニアは手のひらで影を作ってゆっくりと目を開けた。目の前で若木が照らされて輝いている。頑なに閉じていたつぼみが膨らみ始め、ほころび始めた。
 ベニアは後ずさっていた。音もなく、注意深く観察していないとその変化に気付けないほどゆっくりと、けれども確実に花開いていくつぼみを目撃した。若木の正体は、つぼみがそのオレンジ色の花びらを晒し出す前から分かっていた。この鼻にこびりつくような甘い匂いを出せるのはたった一つ、いや、たった一人しかいない。

「これも根々、儂じゃ」

 根々はすっかり花びらを開き切った花に手を伸ばし、すくうように愛でている。ベニアは後ずさったまま、一人の根々と一本の根々を見比べていた。
 空は木々に閉じられて、辺りは元の薄暗さを取り戻している。開いたばかりの根々から匂ってくる濃厚な甘い匂いが、辺り一面を満たしていた。

「長く生きておるとな、忘れる一方だと思っていたんじゃが、そうでもないらしい」
「……どういう意味?」
「忘れた分だけ、思い出すことも増えるという事じゃ」

 根々は最後の酒を呑み干すと、空になった徳利をベニアの前で振ってみせた。徳利が左右に揺れる度に、根々の高慢ちきな表情が見え隠れしてベニアは片眉を上げる。

「意味分かんないんだけど」
「のうベニア」
「何よ」
「儂はヒトか? それとも木か?」
「ヒトに決まってるでしょ」
「何故」
「自由に動けるじゃない。好きな所に行けるし、好きなだけ酒も呑める」
「ハハ、短絡的じゃのう」

 根々は乾いた笑い声を上げて徳利を転がした。

「儂は一本の木に過ぎんよ。ヒトの成りをしておっても所詮は姿かたちだけ、この両足は進むために使うだけで逃げるんには使わん。身に覚えの無いことで射殺されそうになっても、それはそれで良い」
「射殺されそうって――」

 ベニアが息を飲む。

「アンタ、まさかあの時本気で死んでも良いって思ってたの?」
「本気じゃなかったら何なんじゃ」
「ふざけんな」
「何故怒る」
「命をなんだと思ってるの!」

 ベニアが怒鳴った。そんな彼女をからかい笑おうとした根々の顔から、笑みが消える。ベニアの左目が揺れていた。

「お前は死が終わることだと思っている。じゃがそれは間違いじゃ……命は絶えず巡るもの、死とは生の順番が過ぎ行くこと、ただそれだけの事なんじゃよ」
「悟ったようなこと言ってんじゃないわよ。死んだら終わり、終わりなのよ」
「終わるものか。死んだからといって無くなりもせんし新しく在りもせん。命の絶対数は変わらん。お前も儂もあのウサギも、一つの輪が永遠に廻っているように続いて行くだけ」
「アンタずれてんのよ」

 ベニアが声を掠れさせる。

「アタシはそういうことを言ってるんじゃない、“アンタ自身”が終わるっつってんの」
「……儂自身?」
「アタシはねぇ、この肉体が大事だって言ってんじゃないの。この体の真ん中に陣取って、アタシ自身を動かしてる“アタシ”が大事だって言ってるの。
 新しいことをやってみたり、ムカつく奴に逆らってみたり、息つく間もなく生きていたいの。アンタはそんな自分を無くしたくないって思わないの?」
「別に」
「最低、アンタってほんとに最低」
「最低だと? たかだか十数年しか生きたこともないお前が、何故最低だと否定できるんじゃ?
 どうして植物として生きられることを放棄する?」

 ぴんと空気が張り詰めた。ベニアの顔が強張っている。

「……アンタ……やっぱりマティの事知って――」
「己自身で伸ばした枝を折り、咲いたばかりの花を散らし、実も結ばずにつぼみごと腐らせて落とすような生き方は、儂“ら”のすることじゃない」
「アタシは植物じゃない」
「ヒトとも言い難いだろう」
「植物なんかにならない!!」

 鞘走り。根々がベニアの怒気をはらんだ深緑の瞳を認めるよりも早く、怒りに任せて振りかぶられた剣先が光った。オレンジ色の花がぱっと散る。

「アタシは人よ、どんなに苦しくったって辛くたって生き抜いてやる! 生きているのに戦わないなんて死んでることと同じよ、命があるなら戦ってみせなさいよ、どうにかしてみなさいよ、変えてみせなさいよ! そうしないアンタたちを私は」

 まくし立てていたベニアが肩で大きく息を吸う。

「私は、心底軽蔑する」
「……そうか」

 根々が立ち上がる。ブチブチと小気味悪い音を立てながら何かが切れていく。ベニアは根々の足の裏から伸びた根を見た。それが土の中を通り、今、真っ二つになった木に繋がっていたことを初めて知った。

「儂はお前が好かん、もう二度と会うまいよ」

 千切れた根を引きずる音が遠くなっていく。
 それ以来、ベニアは二度と根々に会うことはなかった。

Next→
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -