一人一木回想録 過去 - 1
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春――。四年ぶりに土から這い出してきたその日はとても天気が良かったので、根々はぶらりと散歩に出ることにした。
目的も意図もない。ただ気の赴くままに裸足で森の中へと分け入った。四年ぶりの風、四年ぶりの空気、四年ぶりの木陰、そして四年ぶりの太陽――全てが愛おしい。根々は上機嫌だった。
足裏に腐葉土の湿っぽくふかふかとした感触が柔く優しい。ここで育つ草木は良く伸びるだろう。土を踏む感触だけでその土の良し悪しが分かるくらいには長く生きている。
根々は飽きることなく森の中を歩いていた。木々の間に鮮やかな朱色を見付けて、それに向かって歩いた。初めは花だと思っていた。近付くにつれてそれはヒトの頭の形になった。長い朱色の髪が風に揺れている。木々を抜けた先の日当たりの良い野原で少女が立っていた。片手には弓を持っている。
朱色の髪の少女の目の前には一羽のウサギが横たわっていた。矢が前足と腹に刺さっている。ウサギはもがく度に毛を血で染め弱っていくが、まだ生きていた。少女は小刻みに震えながらそれを傍観している。
獲物が死ぬのを待っているのだ。
「おい」
根々が背中に声を掛けると、びくりと少女が振り返った。右目に眼帯を付けている。年は十を過ぎたくらいだろうか。顔からはすっかり血の気が失せていたが、見開かれた左目はくっと釣り上がっていて気が強そうな顔つきだった。
「だれ」
少女は手で右目を庇いながら睨んでくる。
「根々じゃ」
名乗ったところで少女が警戒を解くはずもない。何せ自分は、ヒトから見れば全身に根を這わせた不気味な植物女だ。頭には葉を茂らせ、大きなオレンジ色の花まで咲かせ、全身に巻いた布は土に汚れていてみっともない。これでも本当は裸で土にまみれていたいのを譲歩してやっているのだが、そんなことを少女が知るはずもない。
「お前は?」と根々が訊いた。
「知るか、クソ女」
「口も悪ければ礼儀もない奴じゃの、名乗るくらいせんか」
少女は右目を庇うことをやめて弓に矢をつがえた。
「アタシを追って来たのか」
少女は根々に矢を向けた。根々は意味が分からずに突っ立っている。
「何を言っておる」
「アタシは植物になんてならない。あんな所に連れ戻されるくらいなら、アンタを殺してでも生き延びてやる」
「連れ戻す? 何を勘違いしておるんじゃ」
「アンタがマティだってことは分かってるんだ」
少女がキリキリと弓を引く。
「マティ? よう分からんが、儂はお前の敵ではないぞ」
「ウソをつくな」
「嘘をつくも何も、お前とは初対面なんじゃがのう」
「とぼけんな!」
少女が吠えた。力いっぱいに引き伸ばされた弦が今にも弾け飛びそうだった。少女はたぶん何かに怯えていた。必死に威嚇することが逆に自分の弱さを露呈していることにさえ気付かないほど幼い。
「儂は何も知らん」
「殺してやる」
根々はだんだん面倒になってきた。どれだけ弁明しても少女は聞く耳を持たないようだった。
「……信じてもらえんのなら仕方ない」
「どうする気」
「殺したければ殺せばいいさ」
根々は突っ立ったまま言った。少女は穿ったように根々を睨んでいる。根々は身動き一つせずに立っていた。
ほんの数秒が何時間にも感じられる。
少女は矢を向けたまま、根々の頭の上で咲いている花を盗み見た。心が乱れていたせいで気に留める余裕もなかったが、辺りには甘い匂いが漂っていた。意識を向けまいとすればするほど、その匂いが鼻につく。
気になる。どこかで嗅いだ事があっただろうか。
「――どうした、殺さんのか?」
少女がゆっくりと矢を下げるのを見て根々が言った。
「丸腰の女を殺すのは気が引ける」
「儂は女でも男でもないぞ」
少女は弓矢をしまってウサギに振り返った。ウサギはいつの間にか死んでいた。瞬間、少女の強張りが解けたのを根々は見逃さなかった。
「安堵したんじゃろ」
根々は笑いながら言った。
「殺すのは気が引けるだと? よう言うわ、ウサギ一羽も殺せんのに儂を殺すことなどできるわけ無かろう」
「うるさい」
「ほれ、はようせんと食えたもんではなくなるぞ」
「黙れ」
「最も仕留め損ねた時点で、食えたもんではなかったがな」
「黙れぇっ!!」
少女はウサギを引っ掴んだ。投げ付けられたウサギは根々に当たって縫いぐるみのように落ちる。
少女は今にも噛みつきそうな呼吸をしながら、根々を睨んでいた。
「消えろ、二度とアタシの前に現れんな!」
「可愛げのない奴じゃの」
根々はその場を去った。
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