一人一木回想録 現在 - 1


 澄んだ弦音が響き、矢はウサギの横首を捉えた。
 弓を下ろし駆け寄れば、ウサギは横倒れて前足をばたつかせている。片手で弓を背にしまいながら後足を掴み上げれば、びくんと全身を跳ねさせた。水から上げられたばかりの魚のように暴れる。
 ドッ、ドッ、ドッと、ウサギの脈を打つ感触が手のひらを押し返して来る。
 ベニアはウサギの首を折った。
 葉擦れの音がさざめく森の中で淡々と血抜きと解体を進める。艶々とした黄緑色の草若葉の上に鮮血が落ちて血だまりを作っていく。

(どうしてそんなひどいことができるの)

 シュクルが泣きながら非難する映像が浮かんで舌打ちした。動物も植物も等しく命を持っているのに、食肉と自分が好んで食べる小麦の菓子は全くの別物だと思っている。血を流せる生き物だけが“可哀想”だなんていう考えがベニアは嫌いだった。

「うおっ! もう獲ったんすか?!」

 草を踏み分けてくる音がしたかと思うと、遅れてやってきたアシャが息を弾ませ木の間から顔を出した。

「ってか捌(さば)いてるし」
「早く捌かないと味が悪くなるの、肉好きのアンタなら知ってるでしょ? っていうか」

 ベニアはアシャを睨め付ける。

「付いてくんな、しつこいわね」
「冷たいこと言わないで下さいよぉ、おいらだって薬草探しっていう重要なミッションがあるんですって!」
「そんなことしなくても食べてけるクセに」
「そりゃそうなんスけどー、なんていうかただ食べてけるってだけじゃ生きてる感じしなくないですか?」
「いっぺん死にかけてみれば? 有難みが分かるわよ」
「アハハ、姐さんが言うとシャレにならないっすよ」

 アシャは笑い飛ばした。笑えない事ほど笑い飛ばした方が楽になるものだと思っている。
 ベニアは過去に一度、本当に死にかけたことがあった。故郷の集落を命からがら逃げ出し、瀕死の状態で倒れていたところを通りかかった領主に助けられたそうだ。
 アシャは直接ベニアからその話を聞いたことはないが、ジャンが言うには、ベニアの一族マティには眼窩に種を埋め込んで自身の植物化を促す風習があり、彼女は植物になってしまうのが嫌で逃げ出してきたということだった。彼女の右目には未だに種が埋まったままで、それを陽光から保護する眼帯を決して外そうとはしない。

「なに人の顔ジロジロ見てんのよ、さっさと薬草探しに行きなさいよ」
「えー、おいら一人で?」
「当たり前でしょ」
「こんな寂しい所を一人で探検するなんて耐えられないっすよ。一緒にいましょうよ、ね? 一人よりも二人の方が楽しいですって」
「ピクニックしたいなら別のコと行けば? 狩りにアンタの気配が邪魔なのよ」
「これでも消してるつもりなんだけどなー」
「ヘタクソ」

 ベニアはすっかりウサギの解体を終えてしまうと、取り出した臓物を一つ残らず革袋に詰めた。捨て置いていてもすぐにキツネやオオカミがやって来て食べてしまうことを知っていたがそうした。

「あっ、待ってくださいよぉ!」

 アシャを置き去りにして、ベニアは血に塗れた手で肉と革袋をつかんだまま森の奥へ分け入っていく。久しぶりに来た狩り場は植物の生存競争が激しいせいで随分様変わりしていたが、泉の湧いている場所は感覚が覚えている。
 週に一度ジャンが催す食事会で、ベニアは肉の調達を買って出ることが多い。今日のようにウサギを狩ることもあれば、キジやシカを獲ることもある。いつもは一人で来るのだが、今回は成り行きでアシャに付いて来られてしまったのだった。

「ねぇ、待ってってば〜」

 後ろからアシャが声を張り上げるのを聞いて、ベニアはさらに歩みを速める。

(途中で振り切って別の狩り場に行くべきだったわね)

 アシャが真面目に薬草探しなどするはずもなかったのだ。それなのに彼の言葉を信じて、親切に薬草の豊富なこの森へと案内したのが間違いだった。
 雑然した広葉樹林の間をベニアは不機嫌な顔で歩いて行く。見上げれば若葉の芽ぐんだ枝葉越しに青空が見えた。枝葉の隙間から降り注いでくる陽光に眩んで目を細める。ふと甘い香りが匂って来ていることに気が付いた。

『匂いをたどるわ』

 耳の奥で聞こえた幼い声にベニアは瞠目して立ち止まった。

『忘れる一方だと思っていたんじゃが、そうでもないらしい』
『覚えておいて、アタシの名前は――』
『忘れた分だけ、思い出すことも増えるという事じゃ』

 ああ、――ああ。そうだったんだ。
 今ようやく、全てを思い出した。ばらばらだった過去が一つの物語だったことを知る。溢れだした記憶を取りこぼしそうになりながら、ベニアは走り出していた。
 開けた場所に出る。泉のほとりに鎮座していたのは、オレンジ色の大輪を咲かせた木だった。ベニアは一歩手前で立ち止まる。
 花は蓮にも似ているが花びらの大きさは不揃で、色も純粋なオレンジ色ではなくいくつかの色が混ざっているように見える。金木犀にも似た甘い匂いは胸やけを起こしそうな程に濃い。

「……久しぶり」

 掠れてしまった声に自分が興奮していることを自覚した。
 遅れてやってきたアシャがベニアの横に立つ。アシャが見たところ、木の高さはベニアよりも少し低いくらいだった。開いた花は一つだけで、他に膨らみ始めたつぼみが三つ四つ控えている。もっと小さいのを含めれば十ほどあった。きっとこれはまだ若い木なのだろう。
 アシャがそんなことに考えを巡らせる余裕があるほど、ベニアは黙っていた。アシャ自身は見たことがない花だったが、ベニアはそうではないらしい。

「『久しぶり』ってどういうことっすか?」
「……最後に見たのが随分前だから」
「何ていう花?」
「根々」
「ネネ?」

 ベニアはくるりと踵を返すと、近くに生えていた大きなクワズイモの葉を手折った。その上に肉と革袋を置いて、泉の水で手を洗い始める。
 アシャは指で根々を突いている。花びらは木蓮のように肉厚で、ちょっとやそっとの事では散りそうになかった。混色のきついオレンジ色も相まって強かな印象を受ける。アシャはベニアの後ろ髪を見た。明るい朱色の髪、そして目の前のオレンジ色の花――。

「ヒトの言葉が分かる不思木か何かですか?」
「さあね」

 ベニアが洗った手を拭きながら言った。立ち上がりながらベルトに下げていた水筒を外して中の葡萄酒をあおる。

「根々の正体なんてどうでも良いわ」
「正体……ってことはただの植物じゃないってことですよね? でもこれ、どう見たって」
「植物でもあるしヒトでもあるのよ、たぶんね」
「……マティってこと?」

 アシャの頬をベニアがつねった。

「いてててて」
「腫れモノに触るような言い方やめてくれる? 根々はマティじゃないわ。ただ――」

 ベニアはアシャの頬を解放する。

「今は、昔の知り合いに再会できた気分なの」

 ベニアはまた葡萄酒をあおった。酒豪の彼女は水を飲むように酒を呑む。

「詳しく聴きたいなぁ、再会できた喜びを分けてくださいよぉ」
「喜び? 冗談じゃないわ」

 ベニアは荒っぽく口元を拭いながらアシャに振り返った。

「アタシは根々が大嫌いだった」

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