萎れた花が瓶に挿してある。蝶を追いかけていたら、誰かの終わりの場所に迷い込んだようだ。人か、はたまた犬か猫か鳥か。鹿乃は眠るものが何者かを考え、すぐに意味のないことに気付く。大きな木の根本に置かれたガラス瓶に白い脚が映り込む。裸足には土を踏む感覚が確かにある。
鹿乃はまだ生きている。その先のことなど、知るべきではない。
花のいのち 手に取った瓶には一滴の水も残っていなかった。もうすぐ花の終わりの場所にもなるだろう。色褪せた花弁の皺を見て、茶色く縮んだ葉に触れる。力加減を誤ったのか、ぽとりと葉が落ちた。乾いた葉の感覚が指に残る。
崩れた一輪はもう元に戻らない。終わらせたのは鹿乃になるのだろうか。それとも、瓶に挿したときか。手折ったときか。いずれにしろ、手の中にある終わりはあっけないものだ。
終わりはいつもそんなもので、鹿乃も理解している。それでも、蓋をしたはずの記憶はよみがえる。待っていたとばかりに、溢れかえる。
鍵のかかった部屋に、膝を抱え座る少女。じっと外の足音を聞いている。徐々に近付く堅い靴音は、扉の前で止まる。扉が開くと、微笑む男が花束を差し出す。受けとることも、返事をすることもない。しかし、男は満足そうに鹿乃の髪に手を伸ばす。男の手の感覚と花のにおいに体を蝕まれていく。繰り返される毎日が息苦しい。
天井に描かれた無数の蝶が、鹿乃を見下ろしている。鮮やかな蝶を見ていると、すべてが虚構の世界の出来事のように感じられた。悪い夢のなかにいる。覚めない夢のなかにいる。
この場所はあの部屋とは違う。木々の先に、限りない空が広がっている。
古い記憶を消し去るように、鹿乃は空を仰いだ。夜の空には灰色の雲が連なり、流れている。月はなく、小さな無数の点のような星が輝いている。強い風が白い髪を撫でる。鹿乃は深く息を吸う。鍵のかかった世界はここにはない。
今日追いかけていた蝶が、またひらひらと視界の端に揺れている。つい伸ばしそうになる腕を引っ込める。
鹿乃は蝶を追いかけてしまう。理由はわからない。本物の蝶を追いながら、あの日の蝶が頭の中をちらついている。目を閉じれば、複雑な羽の模様まではっきりと浮かんでくる。
「ねぇ、」
耳の拾った声は誰のものかわからない。誰のものでもないのかもしれない。ささやき声で昔の名前を呼ばれる。
いっそ干からびた花の言葉ならよいのにと、瓶に目をやった。全ての葉を失う前に、また誰かがこの場所を訪れるかもしれない。そして、新たな花を捧げる。死者への祈りはいつ終わるのだろう。
しかし、問いは夜の闇に紛れて消える。鹿乃の目は蝶の行く先、小道を捉えていた。
「ねぇ」
返事をせずに、進んでいく。
まだ消えることのない蝶をつれて、鹿乃は朝を迎える。
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