molteplice | ナノ


玄界の読み物には不思議な物語がたくさんあります。不思議な文章がたくさんあります。不思議な妄想がたくさんあります。月夜に帰ってゆく罪人の物語。子供達を攫ってしまう笛吹きの物語。恩返しに来た死人と旅をする物語。
それから、それから……


「一人の少女の、おかしな世界が少しずつ壊れはじめる物語」
「へぇ、そんなおっかない話もあるの?」
「はい、起こった事柄は全て少女の夢だった。という終わり方です」
「玄界の読み物は想像力豊かだわ。それにミラ、貴女はとても博識ね」
「恐縮です」

玄界から持ち帰ったらしい、こんがりとキツネ色に焼かれた茶菓子がお皿の中を滑る。カップには同じく玄界から持ち帰った べに茶色の液体が湯気を醸しながら注がれていた。くるくるとカップを丸く揺らすミラは、玄界から持ち帰った多くの情報と、彼女の収集しているらしい書物の知識を合わせてテーブルを挟んでいた。
ミラは時々、玄界の書物を持って私の所に訪ねて来る。身近な隊員が男性ばかりだからか、こういった趣味の話は私にしかしない。彼女はとても深く物事を考える性格で、この話にはこういった理由や意味があるのだと他者に説明をするが好きだった。私はどちらかというと武闘派で、力技で隊長格へと昇ったタイプだからお頭はそこまでよろしくない。特に玄界の文字を解読するのは苦手だった。それ故に、彼女が持ってくる書物を実際に読むことは出来なかったのだけれど…。
けれども、ミラの話を聞いているだけでも楽しかったし、何よりも表情の豊かとはいえないミラの……少しだけ緩んだ口元が見れるのはとても喜ばしいことだった。

「最初は意味がよくわかりませんでしたが、何度も読み返す内に世界が崩れはじめているのに気付きました」
「あらあら、随分と夢中になったのね。そんなにそのお話が気に入ったの?」
「はい。平和な日常で巡る平凡と、過激な非日常で回る夢の中。片方がなくなって、漸く正反対の世界が手に入る…そんな所が」
「ミラは色んな世界が見るのが好きなのね」
「いいえ」

あら、解釈を間違えてしまったかしら。ごめんなさいね。と謝ると、ミラはふるふると首を左右に振った。暫く沈黙が続く。少しだけ気まずさを覚えた私は、彼女が持ち帰った土産の数々へとゆっくりと手を伸ばした。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。嚥下。サクサクと音を立てて広がる甘味を堪能してから、カップに入ったべに茶色の液体を流し込んで潤す。

「なまえ隊長」
「なあに」
「私、あの物語を読んで思ったことがあります」
「あら、なにかしら?」

暫しの沈黙を崩したミラが、先程の話を続けようとしていた。今度ばかりは彼女の解釈を見逃さないようにしなければ。耳に意識を集中させながら、ゆっくりとカップに口をつけ、まつ毛を伏せる。


「知らず知らずのうちに、自分の世界が壊れていく。なんて、素敵な最後だと思いませんか?」


がしゃん。
私の指先にひっかかっていたはずのカップが、簡単にすり抜けて床へと身を砕いた。眩みだした目の前にようやく自分の異変に気付いた私は、この場から逃げ出すために立ち上がろうとした。が、力の使い方がまったくわからない。ずるりと、重たくなった体が椅子から滑り落ちた。

「あぁ、素敵。隊長の素敵な最後が、私によって演出されるなんて」

ぐわんぐわんと回りはじめた視界。呼吸の仕方すら忘れてしまって、言葉にならない苦しみにただただ意識を霞ませる。香り高いべに茶色の飲み物は床にちらばり、まるで私の血が飛び散ったような光景だった。
横たわる私を薄ら笑みで見下してくるミラは、静かに膝を折って息もままならない私のこうべをそっと抱き上げて、まるで壊れ物を離さず大切にするように胸へと包み込んだ。柔らかな抱擁も殺意にしか思えない私は、自由のきかない腕を震えながらあげた。私に向けたこの殺意としか呼べない行為と、それとは逆にうっとりと微笑み向けてくる慈しむような瞳。まったく正反対のそれに、わけがわからず理解の追いつかない私。ただそこに、狂気が滲む。

「尊い方の世界を壊して、二度と出てくることの出来ない…私の描く夢の中に閉じ込めてしまえる。なんて、これ以上の喜びが…あると思いますか?」

何を仕組んだのとも。何を盛ったのとも聞かない。聞けない。言葉が出せない。トリガーを発動する余裕も気力もない。霞む景色の中で、本能的にミラの行動を敵意と受け取った奥底の私。そんな過激な私が、無意識のうちに彼女の頬へと爪をたて、強く引いた。白く美しい彼女の柔肌に、赤い線がじわりと走り抜ける。

私の爪に滲んだ赤を見たミラは、愛おしそうに見つめ直した後、不気味なほど妖艶に笑う。
私の終わるわけにはいかない世界を蝕み、知らない世界へ引きずり込んでいく。


「おやすみなさい、なまえ隊長」


覚める事を許さない、誰かの世界が、やってくる。


「そしてようこそ、わたしのアリス」


私の世界が、音を立てて崩れ始めた。