molteplice | ナノ


私とアツヤの出会いが黄泉の国だと言ったら、どれだけの人が信じてくれるだろうか。
真っ白い空間の果てしなく遥かな天上まで伸びる柱の前で私達は出会った。様々な人の肌を寄せ集めて造られたような妙な暖かさの残る肌色の柱と、その前に連なる膨大な死者の霊。私達はそんな有象無象の中で偶然出会い、言葉を交わし、死ぬ前の記憶について語らったのだ。
否定されたならば、私はこれ以上言葉を紡ぐことをやめるだろう。私だってにわかには信じられない。だが、夢というにはあまりにも現実味がありすぎただけなのだ。

ある人生で私はどこかの森の草となり、アツヤは地を這う虫になった。草や虫の生涯を人生と言い表すのはなんだか不思議な気分だったが、大した脳みそが無くても魂が覚えていたので、私は人生と呼ぶことにする。この時のアツヤには虫だった記憶が無いらしい。私達は生まれ変わる度、記憶を失っていたり覚えていたり、時にはどちらも忘れていたりする。
アツヤは程なくして食物連鎖の輪に組み込まれてすぐに死んだ。私はそれから暫く雑草としての生涯を謳歌したけれど、人間ほど長生きも出来る筈が無く死んだ。脳みそが無いというのはありがたいことで、そのことになんの悲しみも抱きはしなかった。

ある人生ではお互いに鳥になった。南国のどこかに生息しているという色鮮やかでやかましい鳥になったことをアツヤは物凄く嫌がっていた。実際、私はアツヤの体の端っこにくっついた、派手な羽を見ると暫く笑いが治まらなかった。だが、私達は種としての本能に抗えないまま番になり、子どもまで儲けてあっけなく死んだ。私はそんな鳥としての生活を楽しんでいたけれど、アツヤはもう鳥になるのは嫌だと毎日ブツブツ文句を言っていた。

私達はその生物としての生を終えると、またあの人の皮膚で出来た柱の前に戻ってくる。あまりにも人が多いので地面は黒かったけれど、柱以外の風景は真っ白で、柱はどこまでも上へと伸びていた。誰も口を開いていないのに、そこはいつも人々の話し声でわいわいとやかましい。
「次は何になるんだろうな」
と、隣に居るアツヤがぼやく。所謂霊という存在になった私達は自分の思うままの姿かたちになれるので、アツヤは昔人間であった時の姿をしていた。私もまた人間の姿をとっていたけれど、それは女子高生だった時に好きだった女優の姿にした。アツヤはそんな私を呆れたような目で見るだけだった。
「草にも鳥にもなったしね、今度は魚かも」
「ゲ、俺は魚なんていやだ」
「嫌だって言っても、目が覚めたらなんかになってるんだもん、仕方ないじゃん」
ケラケラと私は女優の姿のまま笑う。アツヤはしかめっ面のままピンク色の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
視線を外すと、世界の果てまで人が横並びになっていて、その中心には人柱がある。ぞろぞろと歩き出した人の霊の群れは人柱にどんどん吸い込まれていく。あの柱の中に入ると、次の生が始まることを、私達は理解していた。だから既に恐れなどなかった。
だが、最初は物凄く恐ろしくて、どんどんと柱に流れ込んでいく膨大な人の群れを目の当たりにした私達はただただ震えていた。妙な仲間意識はそんな中で生まれている。
「今度こそ人間に戻りてえ!」
「えー! 私はヤダ。人の人生は長いしいろいろめんどくさいじゃん」
「まあ、そうだけどな……」
この白い空間に戻ってくると、アツヤは時折寂しそうな目をする。遠くを見るような目をしている時は、きっと人間の時に一緒だった兄を思い出しているのだろう。初めて出会った時のアツヤは自分の話よりも、気弱だったという兄の話ばかりしていたのだから。サッカーと兄。人間としての生涯はそれほど長くなかったというし、死因はまさかの事故死だったものだから、女子高生だった自分とは違う未練があるのだろう。
「人間になったらさあ、なんかしたいことあるの?」
ポツンと私は問うてみた。
遠くを見ていたアツヤがちらりと私に視線を寄越した。
「士郎……」
アツヤはそう呟くと、言葉を探すように視線を彷徨わせる。そして、くしゃっと顔を顰めて笑う。
「アイツ、今どんな風になってるんだろうな……」
目を細めたアツヤの瞳の中には兄がいるのだろう。アツヤが死んでから果たして幾許が過ぎたのか、私には分からなかった。何せ、私が死んだのはアツヤが死ぬ十年も前の事なのだ。この奇妙な白い世界に居ると、時の流れなんて大したものではなくなってしまう。
「ま、こうしてたらいつか会えるよ」
私は気休めにもならない言葉を吐いて、そしてぞろぞろと連なる人の群れに身を任せた。人の柱に飲み込まれる瞬間だけは、どの記憶を探っても思い出せなかった。

自我が芽生え始める頃合いに、私は"私"としての記憶を思い出し、そして溜息を吐いた。何故ならば、私は人間として生まれ変わってしまったからだ。以前人間であった時のことを思い出し、これからやってくるであろう人生の面倒くささに思いを馳せた。いっそ、今回は記憶が無いまっさらな状態で生まれ変わりたかったと心底そう思った。
アツヤの姿を見かけたのは小学校一年生。隣のクラスだった。前と変わらない薄い桃色の髪を揺らした少年は私の事を覚えていないらしく、落ち着かない様子で教室に座っている。桃色の髪以外の顔立ちもすっかり消えうせてしまった。
私は記憶のないアツヤを見て、やるせない気分になった。生まれ変わる前、アツヤが人間になりたいと言っていたのを知っているからだ。
神様はどうしようもない根性曲がりだと思う。そんなことはとうの昔に分かりきっている筈なのに、どうしてもそういわずにはいられなかった。
こうして私のアツヤを見守る人生は始まる。前世でもサッカー狂いだったと述べていたアツヤは例の如くサッカーに明け暮れる天才少年に成り果てていた。

この周回でアツヤと言葉を交わしたのは、小学六年生の時である。その時の世の中は控えめに言ってもトチ狂っていて、サッカーで選挙が行われている時代だったのだ。
アツヤは名門の中学のサッカー特待が狙える程度には有名なサッカー少年になっていて、あちこちで選抜テストのようなものを受けて回っていた。私はそんなアツヤを追いかけて、サッカーを始め、アツヤとテストが被る時もままあった。アツヤは前世の記憶が無いのに、一目で私と意気投合した。
「お前のパス、鋭くていいな! 名前は?」
「みょうじなまえ。小学校一緒だったの、覚えてないの?」
「ま、細かいことは気にするなよ」
前会った時よりもアツヤの性格が明るく感じるのは、今の家庭が明るいところだからだろうか……なんて私は想像を広げる。楽しそうに笑いながらボールを蹴るアツヤの笑顔を、私は複雑そうな目で見ていた。
あの白い世界に帰ったとき、アツヤはきっと怒るだろう。どうして私に記憶があって、アツヤには無かったのか。どうして思い出させてくれなかったのか。激怒というところまではいかないだろうけれど、拗ねてしまうのは簡単に想像できて、私は今から言い訳を考えなければならないような気がしていた。

だが、そんな私の心配も杞憂に終わり、サッカーという線で繋がったアツヤはシロウと再会した。お互いに存在を知らないまま。
私は一目見て、かの男がシロウであることを知った。何せ、面影がどことなくアツヤに似ている。目元や髪の雰囲気こそ似ていなかったが、遺伝子を感じたのだ。それに、彼は私とアツヤに直接吹雪士郎だと名乗ったのだ。
彼は自分がサッカー部の監督であることを告げ、ここへは偵察とスカウト目的で来たのだと言った。
「君たち、サッカー上手だね。名前は?」
「アツヤです」
何故か、この時のアツヤは自分の姓を名乗らなかった。
「アツヤ……」
そう呟いた彼の青い瞳が揺らめいたのを、私は見逃さなかった。彼の眼が一瞬だが慈しむようなそれに変わったことを。それが何故なのかを、私だけが知っていた。彼の顔立ちや背格好こそは変わってしまったけれど、それ以外の全てがかのアツヤであることを訴えていたからだ。私が一目見て彼をアツヤだと感じたように、士郎もまた彼がアツヤであることを悟ったのだ。
私はその二人の再会が悲しいものに映って仕方が無かった。劇的な再会に、己の自己紹介すら忘れてしまったほどだ。士郎も、目の前に現れたアツヤという存在に気をとられていて、最後まで私の方に目を向けようとはしなかった。
アツヤが帰り際に「変な人だったな」と言って笑うのを、私はじいっと見ていた。変だとアツヤは言ったけれど、好きか嫌いかを尋ねたら答えは前者であることは分かりきっている。アツヤは士郎を思い出して笑っていた。それだけで、私は泣きそうになった。

「俺、白恋中でサッカーするわ」
「吹雪さんが居るから?」
「あー、うん、まあ、そんな感じだな」
小学六年も後半に差し掛かった頃、アツヤは華麗なリフティングを披露しながら、私にそう告げた。
「吹雪さんには連絡したの?」
「おう、『君がそう言ってくれるなら、是非』だってよ!」
「良かったね」
アツヤの足を滑ったボールが緩やかな弧を描いて此方へと飛んでくる。私は飛んできたボールを足の裏側で優しく受け止めると、リズミカルにボールを蹴った。今までこれっぽっちもサッカーになんて興味が無かったのに、この人生ではずうっとボールばかり触っている気がする。全てはアツヤを追いかけるためだったけれど、このボール遊びが案外自分の肌に合うのだと気がついたのは最近のことだ。いつしか、私は小学生ながらそこそこのサッカー少女として名を馳せるようになっていた。スカウトだって全国から多数寄せられている。
「お前はどうするんだ?」
「んー、どうしようかな」
士郎とめぐり合うことの出来たアツヤを見守る必要は、もう無いような気がしている。それが私の本音だった。だが、どうしてかそれを告げることが寂しくてしょうがない。私はきっとアツヤの傍に居すぎたのだ。
「じゃあ、お前も来いよ。俺のシュートとお前の戦略なら、すぐレギュラーだ」
アツヤは相変わらず能天気に笑ってそんなことを言う。私は笑った。
そうして、私はあまりにも簡単に白恋中へ通うことを決めてしまった。

小学校の卒業式に吹雪さんが現れたのは、正直言って驚きが隠せなかった。彼がすぐにアツヤの魂を見抜いていたことは分かっていたけれど、正直ここまで入れ込むほどだとは思わなかったのだ。
だが、思い返してみれば彼とアツヤは雪崩という悲惨な事故で引き裂かれていたのだという。そんな彼がアツヤの卒業式を見たいと願うのは、不思議なことではないかもしれない。
「士郎さん!」
卒業証書を片手に吹雪さんへと駆け寄っていくアツヤの背中を見つめる。白恋中のスカウトを受けてから何度も吹雪さんと連絡を交わしたのだというアツヤは、いつの間にか吹雪さんを名前で呼んでいた。いつの間にかそんなアツヤに吹雪さんも満足そうな表情を浮かべている。
「おめでとう、アツヤ」
「ありがとうございます! 卒業式も終わったし、もうすぐ北海道行けますよ、俺!」
キャッキャとはしゃぐアツヤの姿を見て、私は遠巻きに笑みを浮かべた。すると、そんな私に気がついたのか、吹雪さんが私を視界に捉えて微笑んでくれる。
「なまえも、おめでとう」
「ありがとうございます」
穏やかな笑みで笑い返すと、吹雪さんはすぐにアツヤに視線を戻した。
アツヤは、
「士郎さん、俺んちで飯食って行きませんか? 俺んちになまえの家族も呼んで、寿司とろうって言ってるんですけど!」
なんて言って、吹雪さんの袖を引いていた。

卒業式の後の宴会の席でも、アツヤは吹雪さんにべったりと張り付いていた。私は両親から「吹雪さんにアツヤくんとられちゃったね」なんて茶化されながら、いつもよりちょっと高めのお寿司を頬張っていた。
アツヤは小学校でのサッカーの思い出をあれこれ吹雪さんに語って聞かせ、私はそんなアツヤの言葉に一々注釈を入れつつ話を促し、そして吹雪さんは私達の話に笑顔で頷いていた。吹雪さんは驚くくらいに自分の話をせず、ずっとずっとアツヤの話に耳を傾けていた。
吹雪さんがそんなアツヤの武勇伝地獄から開放されたのは、アツヤが遠方に住む祖父母に卒業報告の電話をするため席を離れたタイミングだった。お寿司に手もつけなかった吹雪さんは湯のみを片手にアツヤの家の縁側の方へと歩いていった。私は一人にすべきか一瞬悩んだが、なんとなく話し足りなくてその背中を追いかけた。まだ雪が少しだけ残るアツヤの家の庭にはいろんな樹木が植わっている。
吹雪さんは追いかけてきた私の気配に気がついて、緩やかに振り返った。先に口を開いたのは私の方だ。
「アツヤの相手、疲れませんでしたか?」
「そんなことないよ」
心の底からそんなこと思っていないと言わんばかりの穏やかな笑みを吹雪さんは浮かべている。私はそんな風に笑う吹雪さんの表情に、ぎこちなく笑みを返した。私とアツヤの出会いが聊か特殊であっただけに、勝手に彼らの過去を覗き込むような私の存在は、許されるものではない気がしていたからだ。しかも、何の因果かアツヤにはその記憶が一切無く、私だけが明かされた秘密を知っている。
流されるように始まった会話は勝手に白恋中に入ってからの私達についての話に切り替わる。
「なまえの戦術眼、僕に生かしきれるかな」
「吹雪さんなら、出来ますよ」
私はそわそわとしながらそんなあたりさわりのない返事を返した。
「あの……」
私はなんとなく、吹雪さんに白い世界でのアツヤとのやりとりを話そうと思った。そうして、重たい口を開く。私はアツヤともう一度こうして現世で出会い、吹雪さんを目の当たりにしてから、ずうっと其れを口にするべきかを悩み続けていたのだ。

――だが、私のすぐ後ろから現れたアツヤの声で、私の精一杯の勇気は砕かれてしまった。
「士郎さん、そっち寒くないですか?」
長年迷いに迷っていたことだけあって、一度口を噤んでしまうと再度口に出すのは憚られてしまう。私は勇気がしおしおと萎んでいくのを感じながら、私の背中をすり抜けて吹雪さんへと駆け寄っていくアツヤの背中を視線で追った。
「こっちで親父とビールでも飲んでくださいよ」
「あー、でも僕帰り車だから」
「嘘だ! 士郎さん免許持ってないくせに!」
じゃれつく子犬のように纏わりつくアツヤを吹雪さんは困ったような嬉しそうな表情で往なしながら、チラリと意味ありげな視線を寄越した。きっと、私が言いよどんだ言葉の続きを聞いてやろうという心持なのだろうと想像がつく。だが、こうしてアツヤが戻ってきてしまった手前、白い世界なんていう非現実的なことを口にする気はこれっぽっちも無かった。
アツヤは視界の真ん中で相変わらず何も知らない顔をして一生懸命吹雪さんに話しかけている。そう、アツヤは何にも知らないのだ。きっと、白い世界に帰ったら悔しがるだろう。
私はそう思うと、アツヤを押しのけて強引に吹雪さんの前に出た。青い瞳と視線がかち合う。私は何も伝えられないアツヤの代わりに、ささやかな笑みを浮かべた。
「アツヤは吹雪さんに会えるのをずっとずっと楽しみにしていたんですよ」
私が零したたった一言に込められた"ずっと"の意味を知らない吹雪さんは朗らかに笑った。アツヤは隣で余計な事を言うなとかなんとか言いながら、私を小突く。肌を弾く痛みに私は少しだけ苛立ったが、視界が捉えた吹雪さんの表情が一瞬だけ泣きそうな其れに変わったので、アツヤを嗜める筈の右手が空を切った。
「僕も楽しみだなあ」
青い瞳には薄い涙の膜が張っている。きっと、彼は目の前に居るアツヤとは似ていない風貌をした人間の魂がアツヤと同じものであることを魂で理解しているのだろう。
来世ではもしかしたらアツヤとシロウと私が一緒になるかもしれない。そんな未来を思い描いて、私は切ないような嬉しいような、一言で言えば胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
庭に生えている梅が綻んでいるのが見えた。アツヤと共に歩いた何度目かの春が訪れようとしている。