どこからが幸せで、どこからが不幸せなのか。その境界線を引くことはとても難しい。けれども確かなことがひとつだけある。それは、幸せに埋れることなんて出来ないということ。それに限りなく近い場所で生きていくことは出来るのだけれど、ずっと溢れていることなんてないのだ。上手くいっている、と思っていたら、急に上手くいかなくなった。上手くいかない、と思っていたら、急に上手くいく。波が寄せ引きで海を作るように、僕たちもまた幸せと不幸せで自分を創り上げていく。 「なまえさん、朝ですよ」 「……」 「起きてください」 もう一度なまえさん、とゆっくりした発音で囁いてみる。丸めた身を薄い毛布に寄せて、猫のように微睡んでいた彼女は僕の声に誘われるままのそりと起き上がった。あちらこちらに矢印を向けている毛先。少しはだけた寝間着。制服を規則通りに着こなし、髪を丁寧に整えている普段の姿からは想像出来ない……なまえさんの本来の姿。うつらうつらとしながら目を擦る、そんな少し幼さの残る仕草に僕は思わずクスリと笑ってしまう。そして僕はこちらに向けている柔らかな毛先をなぞって、寝癖をひとつだけ消してあげた。おはようございます、そのまま頭を撫でて、首もとまで手を流してからそっと離れれば、少しだけ覚醒した瞳がそこに。窓を滑る雨音を聞きながら、なまえさんは微睡みを半分にしたままおはようと言って微笑んだ。 「ロイくん…本当に早起きさんだね、また起こしてもらっちゃった」 「ふふ、僕が遅かったらなまえさんはお昼まで寝てしまうでしょう?」 「あー、うん、そう。多分寝ちゃう。起こしてくれてありがとう」 「いえ、そんな。貴女が起きてくれないと、僕は朝ご飯が食べられませんから」 あぁ、そっか。私が作るものね、うん、じゃあ、朝ご飯を作ろうかな。小動物のようにうんと伸びをしたなまえさんは、包まっていた毛布からすり抜けて小さく笑う。素足でキッチンへと向かう彼女に、スリッパを忘れていますよと言いながら後ろを追いかけた。 「なまえさん、飲み物は?」 「紅茶が欲しいな」 「はい、わかりました。……あれ?マグカップが見当たりませんけど」 「あー、ごめん。昨日片付けるの忘れて……」 こっちにあるよ、とキッチンでフライパンを片手に動いていた彼女が自分のマグカップを指差す。沸かしたてのお湯がたっぷり入っているケトルをテーブルに置いて、僕はキッチンへとマグカップを取りに行った。火にかけられたフライパンの中ではジュージューと美味しそうな音がしている。目玉焼きがふたつ。キョロりとこちらを見つめる黄色い瞳はとても鮮やかで美味しそうだ。彼女からマグカップを受け取ると、僕は美味しそうな朝ごはんの香りを確かめる。すんすんと鼻を動かしていると、エプロン姿の彼女はお腹を空かせた子犬みたいねと言って小さく笑っていた。 食卓に出来上がった料理が運ばれてくる。彼女が作った朝ごはん。カリカリに焼いたベーコンに、黄色い瞳をした目玉焼き。塩茹でした鮮やかな野菜、焼きたての食パンは彼女御用達のベーカリーで昨夜買ってきたもの。それから僕が入れた紅茶。シルバーのナイフとフォーク、ティースプーンも準備万端。 「いただきます」 「はい、召し上がれ」 両手のひらをあわせて、小さくお辞儀。僕が日本に来て初めて彼女から教えてもらった作法だ。 なまえさんの作る料理はどれも美味しい。ここに来るまで母国の料理しか口にしたことの無かった僕にとって、毎日様々な味を堪能することが出来るのは彼女のお陰だ。そういえば、日本には「胃袋を掴む」という男性を虜にする術があると本で読んだことがある。恐らく僕は、彼女に胃袋を掴まれているのだろう。 「ねぇ、ロイくん」 「はい、何ですか」 「昨日の話、しようか」 「昨日の話、ですか?」 「そう、昨日の話」 発色の綺麗なベーコンを口に含みながら彼女に視線を向ける。彼女は瞳を伏せて、湯気の霞む紅茶に口を付けていた。静かに離れた唇が、言葉を紡ぐ。これからの話、とは。 「シンくん達がね、一日でロストしたんだって」 「……そうですか」 「今回はロストが流石に早すぎたから、周りの人達が不審に思ってるってコウタくんから報告もあったの」 「……」 「それでね、東郷総理から次に補充する生徒の指名が下されたよ。誰だと思う?」 僕は、手にしていたナイフとフォークをお皿の淵に添えて置いた。もしかして、なまえさんが行くことになったのですか。そう問いかければ、彼女は静かに首を横に振った。その報告に、ホッと胸を落ち着かせる僕がいる。 「私じゃなかったの。次に神威島へ行くのはアカネちゃんと……ロイくん、貴方よ」 自分の名前が上がったことに、驚くことはなかった。ただ、あぁ、この時が来てしまったんだな。そう思った。 子供である僕たちが、こうして互いに生活しているのには理由があった。ここは都内の外れにある小さなアパートメント。いくつもの部屋があるそこで子供達が共同生活をしている。その子供達とは、東郷総理大臣がパラサイトキーを持つ東郷リクヤさんの護衛にと揃えたLBXプレイヤー達のことだ。 要するに、ここはいずれ東郷リクヤさんの部下として刃となり盾となるために……ジェノック第3小隊に配属されることを前提に揃えられた子供達の"待機場所"なのだ。 「今回ばかりは、私かなーって思ったんだけどなぁ。また見送る側になっちゃった」 ここで待機をする人物は様々だった。長い間指名を受けない人もいれば、ここへ来てすぐに指名が入って島への向かう人もいる。そして目の前の彼女は、前者だ。僕がここへやってくるもっと前からここで待機をしていて、何人もの友人を見送ってきている。そして共に過ごした友人が、退学していくことも同時に報告を受けながら。何度も、何度も。 「もしロイくん達がロストしたら、私と入れ違いになるね」 「……」 「寂しい、な。会えなくなるの」 ここに居る子供達には、守らなければならない掟が設けられていた。それは、「学園でロストをした後は如何なる理由であっても互いに連絡をとってはいけない」というもの。もちろん、このアパートメントに戻ってくることも訪ねてくることも許されない。 何故なら僕たちは、パラサイトキーを守るためだけに揃えられた一つの駒にすぎないのだから。 「今日で一緒にいるのは、本当に最後になるかもしれない」 「……」 「だからね、これからの話をしようと思って」 「これからの話…ですか?」 「そう、これからの話」 冷えてしまった目玉焼きが、こちらをじっと見ている。彼女がフォークでつつくと、つぷりと音を立てて膜が弾けた。僕は彼女が紡ごうとしているこれからの話を待った。しばらく彼女は目玉焼きをつつくだけだったが、やがてフォークを側に置くと、伏せていた瞳を僕へとうつす。 「私はね、ロイくんには幸せになってほしい」 「……」 「私には想像もできないような世界でたくさん苦しい思いをしてきた貴方だから。これからは幸せになってほしい」 幸せ。とは。どこからどこまでなのだろう。お金持ちになること?夢を叶えること?好きな人と結ばれること?長く生きること?考えれば考えるほど分からないし、出てくる幸せの想像はとても陳腐に思えた。 僕は怯えることも震えることもなく、銃声も泣き声も聞こえない。この平和な島国で静かな朝を迎え、貴方の作った美味しい朝ご飯を食べられる……母国では叶わなかったこの世界に満足しているというのに。 「はい、これからの話はこれでおしまい!さぁ、朝ご飯の続きを食べよう?」 パンッと小さく手を叩いて、彼女は一方的に「これからの話」に終止符をうった。彼女はずるい。そうやって自分の言いたい気持ちを囁いてくるのに、こちらの気持ちを伝える前に身を引くんだ。 僕の手が大分前から止まっていたからか、残っている料理はすっかり冷めてしまっていた。彼女はつついた目玉焼きの表面にお醤油を垂らしながら何事もなかったように笑う。僕は置いていたナイフとフォークを手にとって、食事を再開した。冷めても美味しいなぁなんて思いながら、自分にとっての幸せの意味を静かに辿る。 幸せ、とは。 あぁ、僕も彼女に「これからの話」をしなくてはいけない。 「あの…わがままを、言ってもいいでしょうか?」 「うん、何?」 「夕ご飯なのですが…僕の好きな料理を作って欲しいです」 「うん、いいよ。そのつもりだったし」 「ありがとうございます。それだけで、僕は幸せです」 心のままに気持ちを伝えれば、目の前の彼女はキョトンとした表情で僕を見た。それからふわりと優しく、それでいておかしそうにクスリと微笑む。 「ふふ、大袈裟だなー」 「本当ですよ。作ってくれるのも、一緒に食べるのも、側で笑うのも、全て貴方だから意味があるんです。だから……」 僕たちは暖かな幸せと手をつなぐかわりに、もう一方の手では冷ややかな不幸せとつないでいる。 けれども、こうして幸せと手を強く握れば握るほど……不幸せと手を繋ぐ感覚が緩んでいくのを、僕は知っている。 「なまえさん、今日、僕と幸せになってください」 そして今日は隣にいて、明日には離れないといけない貴女も、僕の知らない所で静かに幸せと仲良く手を繋いでいてほしいと心から願った。 幸せとは、不幸せを受け入れる事なのかもしれない。自問自答に納得をしてから、目の前にいる彼女の手を取って瞳を閉じた。そんな些細な幸せと不幸せに囲まれた朝の話。 |