molteplice | ナノ


その女は有体に言ってしまえば、酷く掴み所の無い女だった。一言で言えば霞のような。自分がいつもは嫌がる抽象的な表現を選ばなければ、みょうじなまえという女の事は言い表すことができない。
アラタ達と同じタイミングでハーネスの中に紛れ込んできた女は、小隊の補充要員としてでも新しい小隊の隊員枠としてでもなく、たった一人で不自然に景色へと溶け込んでいた。その不自然さにその場に居た者は気がついていたけれど、のらりくらりとしたなまえの雰囲気に中てられているかの如く、何も尋ねようとはしない。あの風陣カイトですら、別のクラスにやってきた奇妙な転校生に訝しげに眉を顰めるだけでなまえの存在を流していた。そうやって不自然さもそのままに風景に溶け込むことが、なまえという女の一番の特徴なのかもしれない。
神威大門というハイレベルなプレイヤーの多くが所属している学校の中で、特に際立って技術がある訳でもないなまえから周りの関心が無くなっていくのは必然だったと言えよう。

そんななまえという女は面白い程に瀬名アラタという男には好かれているもので、初日に何があったのかは知らないがアラタはなまえにベッタリだった。なまえはハルキのように目くじらを立てることも無ければ、ヒカルのように話を否定することもない。サクヤと似ている部分もあったが、それ以上になまえはアラタの起こす全ての行動を笑顔で許した。その笑顔はまさしくアルカイックスマイルというもので、その作り物染みた完璧な微笑を見た俺は何か底の知れない気味の悪さを感じずには居られなかった。そのたった一瞬でなまえという存在に嫌悪したのだ。
なまえはアラタの疑問や苛立ちというものを一つ一つ丁寧に聞き届け、一切の否定もせず、そしてまたあの薄気味の悪い笑みを浮かべてこう言うのだ、
人にはいろんな事情があるものだよ――と。
俺はそのなまえの言葉に吐き気のような嫌悪感が湧き上がるのを感じた。何故なら、なまえは"俺達"の事情も心理も何もかも知らないというのに、全てを見透かしたような目でそんなことをほざくのだから。
もし、これがなまえ以外の別の人間から発せられた言葉なら、俺だって素直に頷いたかもしれない。俺達には俺達の行動理念がある。誰にも理解されなくてもいいから、やりとげなければならない。俺の心の根底にあるものは、確かにそういった他人への拒絶から出来ている。その事に変わりは無い。
だが、俺はなまえのような人間にだけは分かったような口を聞いて欲しくはなかった。まるで世の中にある理不尽さや不条理さえも全て運命の一言で片付けられてしまうような、そんな雑さに俺の中の何かが耐え切れそうになかった。
そうして、俺がなまえの言葉に思い立って人知れず食堂を離れようと立ち上がった。紛うことのない苛立ちを持て余した俺は、ついなまえの方へと視線を遣ってしまったのだ。振り返った先に座るなまえは、まだあの気持ちの悪い笑みを浮かべてアラタを見ていた。そして、含みのある俺の視線に気がついたかと思うと、一層その笑みを意味有り気に深めて首を傾げた。そのおぞましさが俺の心を深く抉った。

「人にはいろいろあるものだよ」
――喧騒の中を切り裂くような一言が、見えない刃となって心に突き刺さった瞬間を、よく覚えている。





そんな風に俺の心を抉っていった#name2#の言葉は、不思議と瀬名アラタを落ち着ける鎮静剤の役割を果たしていた。リクヤとアラタの間の軋轢が増えていく毎に、なまえという存在の不自然な干渉が目立つようになり始める。仲間がロストする度に、なまえは宛らリクヤを庇うかのようにアラタという針の筵の前に立ちはだかるのだ。
「人にはいろんな事情があるんだよ」
「それでも、リクヤの態度は仲間に向けるもんじゃねえだろ!」
「アラタ、人が物事をどんな風に捉えているかは姿かたちだけで量れるものじゃないでしょ?
アラタだって、考えていることの全てを言葉や態度に乗せている訳じゃないはずだよ」
「それはっ、そうだけどっ……」
「――リクヤくんが何も感じてない筈が無いじゃない」
二人の会話に聞き耳を立てていたリクヤの肩が微かに震えるのを、傍目で見ていた俺だけが見ていた。なまえの一言はリクヤにとって危険な言葉であることも、この世界で俺しか知らない秘密だ。リクヤは人を突き放すことで自分が傷つかないように必死だったのだ。誰かと気持ちが同調してしまうことは、リクヤが一番恐れていたことなのだ。必死で作り上げた心の要塞が一瞬で砂糖の城の如く甘く溶かされてしまうような感覚は、神経を張り続けているリクヤにとって感情の奔流を産みかねない危険な感情だった。同調されるくらいなら、敵意の方が何万倍もマシな拷問に思える。ここが地獄であることには変わりはないのだけれども。
「――でも、それはリクヤくんの友達ではないアラタが知っていい範疇じゃないだけだよ」
「でもっ……!」
必死に食い下がるアラタをなまえは"あの"笑みで平伏せると、ゆったりとした仕草でアラタの頭を撫ぜた。一瞬でアラタが言葉を飲み込む。
「アラタは優しくて、アラタは正しい。でも、正しいからといってそれが全てではない。本当は全てであって欲しいけど、人間ってそんなに素直じゃないの。リクヤくんはリクヤくんの正しいことがある。それが知りたいなら、アラタはもっとリクヤくんを理解しなければいけないよ」
きょとんとしたアラタの表情は、なまえの言葉を少しも理解していないという事実を反映させたものだった。反対に表情を強張らせたのは俺とリクヤの二人だ。誰にも知られたくない心の奥底を覗かれているような気味の悪い感覚が、恐れとして襲い掛かってくる。俺はそんな感情に苛立ちを覚えていたが、目の前に座るリクヤはまた違った表情を浮かべていた。
――見るな。
俺は咄嗟に立ち上がり、リクヤとなまえの間に壁を作った。座ったままのリクヤは、突然己の顔に影が差した事に驚いたのか、俺の方を呆然と見上げる。眼鏡越しの瞳は明らかな感情の揺れを表していたが、俺はそっと首を横に振る事でリクヤの中でうねる感情を押さえつけた。
「アイツは何も知らないし、何も分かっちゃいない」
その一言はまるで自分に言い聞かせている暗示のようなものにも聞こえるから、更に腹立たしい。
リクヤは俺の言葉を聞くと、顔を強張らせて頷いた。"いつも通り"に戻ったことに人知れず安堵すると、改めてなまえの方向を振り返る。案の定なまえは意味ありげな視線を此方に向けていて、俺はそんななまえに警告の意味を込めて厳しい視線を向ける。
――これ以上、事態を引っ掻き回すな。
――これ以上、此方に踏み込んでくるな。
――これ以上、リクヤを傷つけるな。
なまえという存在はリクヤの心をどうしようもなく抉るのだ。それが敵意や拒絶ならばリクヤだって諦めて前を向けるというのに、なまえがリクヤに向ける感情は余りにも甘美すぎる。だって、俺達は救いを求めている訳ではない。茨の道だとしても進まなければいけないという覚悟があるのだ。
なまえはそれを踏みにじっている。表面的には聖母のような表情をしているが、その実俺達のことなんかこれっぽっちも分かっちゃいない。分かっている筈がない。ただ、分かっているようなフリをしているだけだ。そんな人間に心を開けば、痛い目を見るのは結局こちら側になる。それは、俺がわざわざ言わなくてもリクヤが一番分かっている筈だ。何故なら、この二年間のそういったやりとりで一番心を痛めているのは紛れもなくリクヤ自身であり、全て踏まえてあらゆることから距離を置く覚悟を決めたのもリクヤの意志であるはずなのだから。
俺はこれ以上リクヤが傷つくようなことにはなって欲しくはなかった。任務におけるただのサポート役として派遣されてきただけのメカニックだとしても、重荷や責任に押しつぶされかかりながらも懸命に傷つきまいと立ち続けるリクヤにこれ以上の苦しみが必要無いことはよく分かる。
これ以上リクヤを傷つけて、何がしたいと言うのだ。ただ、放っておいてくれればいいだけなのに、何故そうまでして皆がリクヤを吊るし上げたがる?
「……行くぞ」
俺は食事が半分以上残っているトレイを持ち上げると、リクヤが先にその場から立ち去ろうとする。その背中を追いかけながら、ねっとりと張り付くような視線を背中に浴びた。もう振り返りはしなかった。どうせ、なまえはそこで気味の悪い笑みを浮かべているだけだと分かっていたからだ。

食堂でのギスギスしたやり取りに中てられたのか、食後だというのに娯楽室には人の気配が無い。誰かが置き忘れて行ったLテクを拾い上げた俺は、誰も居ないことを良いことにソファに寝転がった。娯楽室に来たのは、部屋に居るとなまえのことを思い出して心の底から苛々するからなのだが、誰も居ない娯楽室とて静かなことには変わりない。
全く頭に入ってこない雑誌の情報を頭の中で転がしていると、唐突に階段が軋む音がした。だが、視線は動かさない。誰が来たとて、俺と会話を交わすようなヤツはほぼ居ないのだから。
だが、娯楽室へと足を踏み入れた奴はその場を通り過ぎることもなく、徐に俺の向かいにあるソファへと座る。雑誌の隙間から見えた脚は女のものであろう、筋肉のない細くて白い棒のような脚だった。
ペラリとページを捲ったと同時に、ソファに座った人物がすうっと息を吸う音が静かな部屋に響く。
「リクヤくん、あのまんまでいいの?」
「なに?」
雑誌から顔を上げると、そこには膝に頬杖をついたなまえが居て、訝しげな表情でこちらを見ていた。喉が引き攣る。こいつの顔を忘れたくてここに来たというのに、本人が目の前に現れるとは、運が無いとしか言いようが無い。
掛けられた言葉の意味が理解できず、なまえを睨み据える。思わせぶりな言葉ばかりを吐く女に、苛立ちを隠す努力はしない。
「どういう意味だ?」
「どういうってそのまんまの意味。あの様子だと、壊れちゃいそう」
ピクリと眉が不自然に動くのを自分の肌が感じた。壊れる。そうさせているのは、目の前に居るなまえ自身である。俺は思わず口を開きかけて、そしてかろうじて思いとどまった。
目の前に居る女はさも"分かったような"口を利く。俺達に纏わるあらゆる事、感情の全てさえも分かっているかのように振舞うのだ。それがこの上なく俺を苛つかせる。
「お前には関係ない」
そう吐き捨てて、持っていたLテクをテーブルへと放り投げる。バサリと音を立てて雑誌が机の上に広がる。だが、なまえは相変わらずソファに座って頬杖をついているだけだ。
「そうは言っても、あんな張り詰めた表情じゃあ心配にもなるでしょ」
まるでアラタに言い聞かせるような口調でなまえがそう言ったので、俺は眦を吊り上げる。
「そうさせているのは、お前だ」
「そうかな。私はコウタくんの所為だと思うよ」
ぎり、と歯軋りする音が響く。白々しい声に苛立ちが更に加速しはじめる。だが、そうして苛立てば苛立つほど、俺の中に奇妙な敗北感が生まれて膨れ上がっていく。まるでなまえという女は毒のような女だと思った。何も知らないくせにと、子どものようなことを言い出させようとする。自分の一番嫌なところを引きずり出そうとする。
俺は怒りで熱くなった瞼を右手の人差し指の背で押さえると、熱い吐息を吐き出してなまえを見据える。そうして無理矢理頭を冷静な状態へと引き戻すと、ソファから起き上がり、なまえに向き直った。
「お前は一体何者なんだ」
零した声は一気に色味を消した冷たい質感を孕む。最初からバンデッドとは思っては居ない。だが、ただの生徒とするにはその姿は違和感に満ちすぎている。どんな回答が帰ってこようとも、リクヤに害を成す者ならば消してしまおうという意思は決まっていた。果たして、なまえとは何者なのか。
「…………」
俺の問いになまえの一番最初の反応は目を見開くことだった。そして、視線を泳がせ、暫くした後に作り物の笑みを浮かべる。何かを思案するという仕草ではない、その不自然な動き一つ一つを俺はじいっと見定めた。嘘を吐かせまいとする俺の心がそうさせた。
やがて、なまえは静かに口を開く。
「まさか、総理がリクヤくんとコウタくんの報告だけで計画を進めているなんて、思ってないでしょう?」
総理。その単語がなまえの口から零れた瞬間、俺は驚きを隠し切ることができなくなった。一瞬だけだが呆けた表情をした俺に、なまえはアルカイックスマイルを浮かべる。
「隠してるつもりはなかったけど、バラしても意味なんてないから放置してただけ」
「お、まえは…………」
情報の整理をする為に、少しばかりの沈黙が広がった。目の前で笑う女を見つめる。普段は信用に値する人間だと思っていなかっただけに、言葉を鵜呑みにすることを俺の脳が拒絶した。だが、バンデッドではないことは、今までのやりとりの中で結論がついている。分かったような言葉の数々も、本当に事情を分かっていた上で発せられているとしたら、おおよその辻褄が合う。合ってしまう。
「っていっても、私はソッチ方面の調査員でも無いし、護衛でもない……まあ、所謂私兵のようなものだから」
へらりと困ったように笑ったなまえの表情に、俺は驚愕の表情を崩さないまま手を組んだ。リクヤのサポートとしてこの学園に進入した身ではあったが、俺に調査員や護衛の指揮を執る権限は与えられていない。だから、どのような工作員がこの学園に侵入しているのかを全て把握している訳ではない。
調査員でも護衛でもないというこの女は、俺とリクヤの監視のためにこの学園に居るのだろうか。ならば、今までのリクヤの感情の全ては総理に筒抜けになっているといっても過言ではない。そう思うと、俺はリクヤが不憫でならなくなった。リクヤの父に対する敬意は他人の肉親に向ける其れとは比にはならない。必要以上に気丈で居ようとするその精一杯の強がりでさえ、目の前の女は見抜いて、そうして有りのままを伝えてしまっているのだろう。
俺が黙りこくった姿に、なまえはニコニコとした笑顔を浮かべたまま、乱雑に置かれたLテクを丁寧に並べなおす。その仕草が終わる頃、俺はやっとのことで口を開こうとした。だが、その声はなまえによって遮られる。
「ボスはリクヤくんがもうちょっと上手にやってると思ってたんだって」
その言葉に、俺は再び頭に血が上った。思わず立ち上がり、なまえの胸倉を掴む。すると、なまえが途端に慌てだし、きょどきょどと俺の顔を見た。服の襟を握りこんだ拳が白く変色していく。服の隙間から下着や肌がむき出しになったが、俺は怒りでそれどころではなかった。
苦しみながら任務を進めるリクヤに対して"上手にやる"なんて、喩え総理だとしてもそんな事を言う権利は無い。俺はそう考えていたからである。現にパラサイトキーは守っている。これ以上に周りの人間はなにをリクヤに求めるというのだ。
息を荒くした俺に、なまえは落ち着けと何度か言った後に諦めたのか、俺の腕にぶら下がるような体勢のまま言葉を続けた。
「コウタくんは総理を酷い親だと思ってるでしょう」
ドクリ。荒くなった鼓動が変な音を立てるような感覚が体を突き刺す。
「な、にを……」
「いや、事情を知ってたら誰だってそう思うから。だって、普通あんな辛い任務を自分の子どもに課す?
現に彼はクラスではコウタくん以外の人間とは殆ど会話も交わさないまま、誰にも言えない秘密を抱えて、牢獄のようなこの場所で終わらない戦いを強いられている。酷い話じゃない?
きっと彼じゃない人間……それこそ大人だってこの任務を達成できるかは定かではないのに」
スッとなまえの目が細められる。俺はなまえから発せられた言葉の数々に、何も言う事が出来なかった。
俺達は娯楽室という誰かに盗聴されていても過言ではない公の場所でそんな問答を交わしていた。お互いにそれとなく会話の内容をぼかしてはいるが、熱くなった頭が此処から離れるという考えを取り去っている。
「コウタくん」
「…………」
「あなたは分かっている筈だよ。リクヤくんという人間のペルソナを脱いだ人となりを。あの子は"こんなこと"に向いてない」
なまえの感情が篭った表情というものを、この時俺は初めて目の当たりにした。
「私やコウタくんは"こんなこと"だろうがなんだろうが、するよね。だってそれが任務だもん。それがお金貰ってやってるお仕事だから。割り切れもするよ。でも、彼は違う」
「わかってる」
「傷つかないようにがんばって気丈で居ようとしてる。本当は誰より素直で真っ直ぐな人なのに。純粋で穢れなんてどこにもない人なのに」
「わかってる」
「わかってないよ」
きっぱりと言い切ったなまえに、俺は怒りのような悔しさのような感情がどっと心の中に溢れてくるのを知った。なまえという女に言われなくても、リクヤという人間を理解しているつもりだったからだ。リクヤが素直で純粋だなんて、俺が一番分かっている。
捻くれた合理主義の塊のような俺でさえ、リクヤの真っ直ぐさには敵わない。そう思ったからこそ、たかが任務だと思っていたパラサイトキーの護衛なんかを真面目にやっているのだ。
それは任務だからとか報酬が高いからとか、そういうものではない。最初はそう思っていたかも知れないが、今はもう違う。俺はそうやってリクヤの精一杯の矜持を守るためにこうして何人もの人間を使い捨てにしてきたのだ。過ぎ去っていく人間の後姿を見たリクヤが傷つくとわかっていながら。
――それのどこが、分かってないというのだ。
「私はね」
俺の思考を切り裂くようになまえが言葉を発する。
「ボスに有りのままを話すよ。もうリクヤくんだけが抱える問題ではないって報告する。分かってるでしょう?
もう君達でどうこう出来る範疇を超えてるのは……まあ、それはこの任務自体そもそもそうなんだけど。とにかく、多分ボスも検討して対策を打ってくれると思う」
なまえの襟を掴んだ手に、更に力が篭る。感情が競りあがってきて、俺の体を押し上げるかの如く体を前のめりにさせる。なまえの目を覗き込めば、いつもの薄気味悪い笑みの中に隠された瞳が此方を見ていた。
「リクヤの気持ちはどうなる」
言葉を搾り出す。
「アイツのプライドはどうなる?
ふざけんなよ。なあ、分かってるだろ、お前なら。これからお前がやろうとしていることを、リクヤがどんな風に感じるかを。アイツの気持ちを考えてるとかほざくなら、どうしてそんな考えが湧くんだよ」
頭に血が上っている所為で、目頭が熱くなる。これは決して涙ではない。感情の流れだ。
ここで俺が一回でも頷けば、リクヤの二年は全て無駄になる。この地獄のような二年はただただリクヤという真っ直ぐな人間の心を無残に拉げただけの拷問だったという結果で終わってしまうのだ。つまり全てが無意味だということに――――それをどうして受け入れられるだろうか。
頭ではもう総理に全て打ち明けて、別のプランを立ててもらうのが一番いいとは理解していた。そんな事を冷静に理解してしまう利口な頭を、今日ほど呪ったことは無い。事態は既にリクヤの手に追える範疇から逸脱し、学園と政府全てで対応しなければならないものとなっている。パラサイトキーというシステムを守るために、新たなプランを、と俺の頭の中は随分と前からそんなことを考えていた。だが、それをリクヤに打ち明けることは、俺にはできなかった。むしろ、誰がそんな残酷な仕打ちをリクヤに出来るのだろうか――そうして、俺はなまえを見る。
「このまま鍵を奪われた時、リクヤくんは死んじゃうよ」
「……鍵は奪われない。俺とリクヤが守る」
「コウタくんはそんなことを本気で言う人じゃないでしょ」
「お前になにが分かるってんだよ」
震える拳を己の視界が捉えた。体と心がバラバラになったような感覚が俺の体に走っており、力を入れている筈の拳の感覚は既に無い。
なまえはその間もじいっと俺の瞳を見ていた。そして、一瞬だけ目を伏せると、溜息を吐く。
「言い方を代えるね。リクヤくんには世界を守る力は無い。この星の人間全ての未来を守るために、ちっぽけなプライドは殺してあげて」
ぐうっと言葉が喉で蟠る。プライドを殺す。その言葉の残酷さに、俺は頭が痛くなりそうだった。確かに、もうリクヤは全ての苦しみから解放されてもいいと俺自身考えてはいる。だが、リクヤの父に対する感情を踏みにじることは、どうしても出来なかったのだ。しかし、目の前の女はそれがリクヤを救う一番賢い方法だと簡単に言ってのける。俺もそれは一番正しい方法だと理解はしている。
「お前は、正しいことは全てじゃないとアラタに言っていたな」
「うん」
「なら、俺は正しいことは出来ない。俺の任務はパラサイトキーを守ることであり、リクヤをサポートすることだ。今までもこれからも、それに変わりは無いだろ」
「そっか」
なまえは俺の返事を聞くと、襟元に置かれた拳に指を添えて、俺の握りこぶしを開く。すると、くしゃくしゃになった襟がすとんとなまえの体に沿うように落ちた。そして、なまえはその襟をゆっくりと正す。
「憎んでくれたって、いいよ。楽になるから」
そうして背中を向けたなまえに、俺は何もいう事が出来ないままその場に立ち尽くした。なまえの零した言葉には心当たりがある。
――憎んでもらった方がずっと楽だ。
初めにリクヤにそう零したのは紛れも無い俺だったからだ。任務開始から間もなくロストした小隊のメンバーに、一々声を掛けるのをやめろとリクヤに諫言したのは俺だ。その時怒ったリクヤに俺はそう零した。その一言からリクヤは徐々に自分の明るいところを押し込めていき、最終的には小隊のメンバーとも碌に会話すらしなくなった。
リクヤのためを思って言った言葉である。任務で使い捨てにされていく人間一人一人に心を打ち明ければ、いつか壊れてしまうだろうと恐れた俺が完全な親切心から零した言葉だ。その言葉が無ければ、もっとずっと早くリクヤの心は壊れていただろう――――勿論、それは推測にしかすぎない。
総理がリクヤになにを求めていたのか、分からなくなった。なまえの言っていた"上手なやり方"というのは、果たしてどのような未来の姿だったのだろうか。

そうして処刑の日はやってくる。俺はリクヤに何も伝えることが出来ないまま、新しい隊員の到着を待つ。事前に渡された資料にはロイ・チェンと篠目アカネという名前が並んでいた。俺はやはりリクヤに何も言えないまま、その二人の姿を眺めるのだろう。みょうじなまえという人間を憎むことも受け入れることもできないままで。