ふぅっと指先に息を吹きかけられくすぐったいと思ったら次は指で拭われる。削り後の白い粉は取り除かれ、綺麗に弓なりに整えられた爪が姿を現した。左手の中指が終わり、次は薬指へと移る。右手の親指から始まったこの爪やすりの作業はかれこれ1時間半かけてようやく終盤に差し掛かる所である。彼は昨日手に入ったという持ち手がストライプのチェコ製ガラス爪やすりを器用に、そして楽しそうに動かし私の爪を整えてゆく。私の正面に座る彼はこの時間だけ特別寡黙になる。普段は割とお喋りで、独特の落ち着いたトーンで淡々と語られる物語はどれも面白い。相槌も声に出してうんうんと聞いてくれる所謂話し上手・聞き上手な人である。食卓を囲むために置いた深い茶の木製のテーブルにかけられたベージュ色のテーブルクロスには先日こぼした醤油の染みが残っていた。 「ねぇ、やっぱりこれ買い換えようかな。」 「んー…?どれ?」 「これ、テーブルクロス」 空いた手の人差し指でとんとんとクロスを叩くと彼は興味無さげに「ええんちゃう?」と返事をしながら手を休めない。 「何色がいいかな」 「…せやなぁ。染みが目立たん色がええやろ。ネイビーとか。」 「うん。今度の休み見に行こ」 「ええで。ほな後で机のサイズ測っとかなあかんな」 「机…テーブルって言ってよ」 「机やん」 変な所で頑固な彼の発言が可笑しくてふっと笑う。そこで会話は区切りがつき、再び静寂が訪れる。外から聞こえてくるエンジンや、子どものはしゃぐ声が静かな部屋にじんわりと溶ける。ダイニングキッチンから見えるリビング、少しだけ開けた窓から入る風がカーテンをふんわりと揺らした。遮光ではないので日光が差し込み、敷いたカーペットを温める。ぼんやりと揺れるカーテンを眺めていると手を持ち上げられ、ふうと生暖かい息がかかり拭われる。そして最後の、小指へと取り掛かる。熱心に私の爪を整える目の前の彼、忍足侑士を、じいっと見つめた。幅の広い目と筋の通った鼻は綺麗な顔を象るパーツのひとつ。睫毛も多く長く、男には勿体無いぐらいだ。髪も、 「よし、終わりやで。」 「え」 「えっやのうて。おしまい。おおきにな、お疲れさん」 まじまじと観察していたが爪やすりの完了と共に強制終了となった。髪…、どう思ったんだっけ。そんな先程の思考そっちのけで仕上げてくれた爪を手の甲側から眺めた。侑士が磨いてくれた後の爪はいつも本当に綺麗だ。 「こちらこそ、いつもありがとう。」 「礼なんかいらんわ。俺がやりたいからやっとるねん」 「物好きだねぇ」 「せやろか。…あ、珈琲飲む?」 「飲む。」 「あー…終わったら何かせなあかんと思っててんけどなんやっけ」 「やることあるの?」 「さっきまで覚えててんけど。俺が言い出したのになぁ…」 「あ、テーブル測るやつ?」 「それそれ。メジャー持って来てや。お湯沸かす間に測ってまうわ」 「どこに閉まってあるっけ?」 「テレビの台の棚の、上から2番目やろ。確か。」 「あー」 そうだったそうだったと記憶を掘り返しながら腰を上げてリビングへ踏み込んだ。太陽の光が温めたカーペットは、やっぱりぬくくて、いい天気だなぁと独り言を零した。 |