molteplice | ナノ


緩やかな初夏の中に、目覚ましいほどの鮮やかな色をした新緑の映える季節だったと思う。淡い夏の熱との狭間に微かに揺れる柔らかな春の陽射しのなか、唐突に吹き荒れる、花びらの約束を強引にほどく、意外にも穏やかな温度をもった突風。そのような、優しくてあたたかな香りを持った、けれども残酷で屈強な風にさらわれてあの人はいなくなった。わたしの世界から、彼の世界から。青々と人の目を引く新しい緑の色に、人の心にまで芽生えを植え付ける、凛としてそこにいた人。その姿は消えようと、美しさにそもそも形はない。目を焼いてつくる影絵のように、彼の存在はしっかりと胸に刻まれて、いるはずの場所に彼の姿が見えないのは、少し経った今でもなんだか不思議なことのように思えた。

わたしと同じ陸上部の宮坂くんはといえば、まるで対照的な様相だった。風丸先輩、ひとつ上の2年生の先輩だ。それが突然彼の幼馴染がキャプテンを務めるサッカー部の手助けにかかりきりになり、陸上部には顔を出さなくなって、二週間ほどで彼は陸上部へと退部届けを出しにきた。ごめんな、頑張れよ。そんな簡単な別れの言葉ではあったが、そこにあったのが簡単な思いではなかったのがわたしにはなんとなくわかった。風丸先輩はいつでも優しい、理由もなくわたしたちを置いていったりしない人なのだと、関わった一年という短いか長いかも判別できないような期間で判断がついた。目をかけた後輩に謝罪を送るのだ、自分のしていることが自分勝手であると彼は思っていたのだろう。それはきっと違う。追いすがりたいのはやまやまではあったが、それが彼のためにならないのだということもなんとなくわかった。纏わりつく風に揺れて星のように瞬くその瞳が、充実感に煌めいているのをみつけたのだ。きっと、わたしにとってわたしがわたしであれる場所がレーン上であったように、彼が彼であれる場所はサッカーフィールドだった。彼はようやっとそのことを見つけた。それだけのことだった。
対して宮坂くんはというと、それがわからないようだった。口を開けば風丸先輩への恨み言をつらつらと述べるようになった。それが悪いこととはいわない。それだけ風丸先輩への思い入れが強く、四の五の言ってられないほどに、先輩の存在が彼にとっては必要なものであるのだろう。彼を見ていると、風丸先輩へのわたしの感情が思いのほか薄情であったように思えて、妙に申し訳ないような気持ちにさえなった。しかし、板挟みになってあれこれ聞かされているうちに気付いたことがある。彼は風丸先輩が戻ってきてくれれば、と口にすることはあれどそれが現実になることになど端から期待していないようだった。現実を知れど感情だけがただただ置いていかれて、身動きが取れず言葉にしていないと自分を形成しているあまりに薄い膜が張り詰めて弾けてしまいそうなその姿は、大人になりきれなかった子供の悲しさによく似ていた。彼はきっと変わることを望んでいないのだろう。もちろん人よりも感情の動きが多く、他者の行動にすら一喜一憂するような人間だ。変化というのはそういった刹那的なものではない。人が、ひとつ、ひとつと歳をとるたびに姿やそれを形成する形の見えない素材達がざわめき形を変えていくこと。先を見据えて、生きるために必要なものを選別したり、自分の内にある理想と社会をマッチングさせるために諦めをつけたり、そういった変化を恐れているのだと思う。そういった変容は日々を減るごとに無意識的にも起こっているもので、彼も例外ではないというのに、彼はそのことを理解していないのだ。


「なまえはどうして何も言わないの?」


幼さの残る少女のような声で、そう問われると妙に胸を締められるような心地になる。それは誰しもが抱いていたはずのものだ。指先で潰した虫の命の終わり、生まれ落ちて知識もないまま立ち尽くす大地は途方もなくて、このままひとり取り残されてしまったならどうなってしまうのだろうなんて、現実にはなるはずもない、巡らせるだけの想像。わたしだってあんなに怖がっていたはずのものを、いまや仕方ないと切り捨てることができる。責め立ててくるのは重ねた年数をほどいた後の、わたしだ。


「風丸先輩はわたしじゃないもの」


踏み荒らされた心の中に浮かんだ振り払うような言葉は我ながら薄情だった。もちろん、自分の人生に微々たる影響しかもたらさない人間のひとつの挙動にさえ踊らされてしまったなら、そこにあるのは自分ではない、といった言葉そのままの意味もある。けれど、人は変われない。人の及ぼす言葉では決して変われない。ここにいる彼だって、わたしがあれやこれやといままで述べてきた言葉達を野放しに与えられたとて、それが将来の自分になることになんて想像が動かない。信じがたい、と耳を塞ぐだろう。誰かがいなくなって、ぽっかりと穴が空いてしまっても、わたしたちは呼吸を止めることはできないのだ。だが、その裏をこの一言で悟ってもらおうだなんておこがましいことは思っていない。なじられることだって、覚悟した言葉だった。それが、返ってくるはずのものはそこにはなくて、音のない時間が少しばかり訪れただけだった。長い睫毛が覆う、少し彩度を落とした緑の瞳が微かに漂った。静けさはわたしが先ほど落とした言葉だけを濃く映しだして、その陰影がさらさらと甘いグレーの砂を落とす。胸に満ちると、息もし難いほどの重みになる。次の言葉を待つ間の少しばかりの沈黙の間、わたしの呼吸は恐れで浅かった。なにを考えているのだろう。知っているのは、口内に転がした言の葉が零れ落ちた先の未来だけだ。


「僕らはひとつにはなれないんだね」


ぴたり、と泳がせた視線がわたしの瞳で止まって、それは熱のないくちづけになってわたしの呼吸を留めた。幼さから落ちた言葉は酷く濃厚な白をしている。誰にも穢されない、夢の中で有り続ける人たちの色。踵が、胸が、射抜かれたように動かなくなったわたしの腕を細くてやや筋肉質な腕がお構いなしに掴まえる。浅い呼吸は正せないままに、硬い胸板に押し付けられた。身体は少しずつ彼を男性にしようとしている。それでも、この抱擁は赤子が外界の異物を確かめるかのように口に入れる行為のように、儀式的なものなのだろう。変わらぬ鼓動を聞きながら、わたしは理想を崩し去るための残酷な引き金を弾くために目を閉じる。いつか知らなければいけないもの。いつかわからなければ、この人は世界に取り残されてしまう。暗闇に響く心臓の音はあまりにあたたかくて自分を追いやったというのに躊躇してしまいそうになる。それでも柔らかなこの心をいつか傷付けなければならないのなら、わたしがいい。そう、思ったのだ。


「人は、いつでも一人なの」


わたしたちの先はどこにあるのだろう。冷たく固い引き金がもたらす結果は、それに比例して冷ややかなのかもしれない。しばしの静寂に、安穏をみつけるわたしはこの言葉を告げるには弱すぎた。
このままでいい、このままがいい。遠くで呂律の回らない子供が、そう、叫んでいる。