箱庭の空
5


いつからか、死んだ親父に嫌悪感を抱くようになっていた。それまでまじめに向き合っていた検事の仕事も途端に馬鹿らしくなり、何の為に自分はこの制服に身を包んでいるのか分からなくなった。
正義を貫いた先に待っているものがあんなに滑稽な最期なら、思う存分呆れてやろうと思った。街中の誰もがあんたを賞賛し畏敬の念を抱き続ける。なら俺は笑ってやるよ。あんたと同じ制服を着て、あんたの墓に花をたむけながら。
手を汚すのは簡単だった。誰にも気づかれぬまま周囲の人間を欺き続け、俺はあんたの信念を踏みにじっている感覚を覚えた。それは僅かな快感となり、俺の中で積み重なっていく。
ランスキーから情報を買い仕事での地位を築いていく行為は、よほどあんたへの侮辱になったことだろう。それを思うと愉快で心が晴れた。
死んだあんたには手も足も出せない。そこから指を咥えて見ていればいい。あんたが貫いてきた大切なものを、俺は一番近くで台無しにし続けてやるから。
俺は一人だった。親父に置いていかれ母親に扉を閉ざされ、一人で生きていくことを強要させられたのだ。だから何かを捻じ曲げて生活を送ることに夢中になった。そうしていれば、孤独にやられなくて済む。
…今になって思えば、あまりに滑稽で笑ってしまうような姿だ。

親父の隣に母親がいる。並んだ二人の墓を見つめ、なんだかやけにそれが自然な光景に見えたものだから俺は不思議に思った。
母親が病院で飛び降り自殺を図り死んだ後、葬儀のため事務的な手続きをしなければならなかったが、俺は淡々と書類にサインを書くことができたし葬儀屋の説明もしっかり聞くことができていた。心が乱れることもなく、ただ静かに母親の死を一人受け止める。
葬儀に参列した職場の上司が俺の肩を抱いて泣いた。心を強く持てと、俺やみんながついているからと。父親に続き母親も失った俺は、側から見ればよほど気の毒で哀れなのだろう。
俺は、けれど落ち着いていた。孤独よりも安堵の気持ちの方が大きかったのだ。母親はあの病室よりも親父の隣にいる方が似合っている。今まで感じていた捻れや歪みのようなものが、やっと正されたような気がした。
母親が俺に宛てて書いた手紙を思い出す。…あなたは、俺を恨みながら飛び降りたのだと思っていた。愛している、だなんてあなたに言われたのはきっと初めてだと思う。
あなたが手紙の返事を待たなかったことに、俺は少しほっとしてる。俺は「俺も愛しているよ」とは、書けそうになかったから。
母親を愛しているかと聞かれたら、俺はうまく頷くことができない。弱くて脆いあなたの姿を見ていると心が曇り、いつだって俺を憂鬱にさせていたように思うのだ。けれど憎しみや怒りは、もう今はない。どうか穏やかに眠ってほしいと思う。心からそれを願える自分が今ここにいることに、俺はほっとしているのだ。
合わせていた手を下ろし、二人の墓の前から立ち去る。おやすみ、親父。母さん。次は揃いの花をたむけに来るよ。

ランスキーとはあれから会うこともなくなったので、今どこで何をしているか知らない。「兄ちゃんが悪いことをしたら捕まえて」と言われていたのに、今じゃもう奴の居場所を突き止める気さえ起きないのだ。
俺は本当に、きみの願いを無下にしてばかりだな。…ベンジャミン。



あの日、母親の死を知ったばかりだった俺は少なからず気が滅入っていた。自分がこの手にかけたのも同然だと感じていたし、労りの欠片さえなかった自分の発言を思い出して後悔もした。なにより、葬儀当日まで母親の体を家に安置しておくことが苦痛で仕方なかった。上手く眠れない夜が続いたし、時折見る夢は胸糞の悪い内容ばかりだったのだ。母親からの手紙を開いてしまったら、そこにもしも呪詛のようなものが書かれていたら、いよいよ俺は呪い殺されるのではないかとさえ感じていた。
ベンジャミンに会いたいと思った。彼に会えばこの沈みきった心が軽くなる気がした。
もう行く理由のない病院へ車を出して、彼に会う為だけに入口の扉を開ける。ロビーを抜けた先、中庭へ続く扉の前に彼が立っているのを見て、自分でも驚くほど俺の心は安らいだ。
二人きりになりたいと言った俺に、ベンジャミンはいつものように裸の瞳で応えた。急に抱き締めたくなり、その衝動を抑え込むのが少し大変だったことを覚えている。
ベンジャミンを乗せ車を走らせている間、なんだかまるで誘拐しているようだなと思って一人おかしくなった。きっと、どこか知らない場所へ俺が連れて行こうとしても彼は喜んでついてくるだろう。運転する俺の隣で、俺を見つめる眼差しを隠そうともしない。終始注がれる彼の視線は相変わらず正直で、俺は窓の外を確認する振りをしながら隠れて苦笑した。
母親の体を安置させている自分の家にはどうしても戻りたくなくて、彼の家に行くことを提案した。彼は少し…いや、かなり頷くのを躊躇ったが、最後には了承してくれた。

ベンジャミンの家に着き、彼とともに母親の手紙を開いた。予想していた内容とはまるで違う文に驚きながら、けれど俺は同時に息を吐いた。あの時何かから解放されたような気持ちになったのだ。その正体が何なのかはうまく説明できない。けれどずっと長い間、狭い箱庭のような場所に繋がれていたような気がする。母さん、俺はそれに気づかないままあなたを蔑み続けてきたように思う。
ベンジャミンに頭をそっと抱き寄せられ、どうしてこの少年はいつも、俺を子供のようにあやすのかと思った。こんな風に抱き寄せられたことなど一度だってない。か細くて頼りない彼の腕は、けれど温かくて心地良い。目を瞑り身を委ねればそのまま深い眠りにつける気さえした。
「僕はいるよ」と、彼が言った。
「デューイさんのそばにいるよ。デューイさんのことちゃんと見てるよ」
ああそうか俺は、誰にもそばにいてもらえなかったのだ。誰にも見ていてもらえなかったのだ。ベンジャミンの言葉でようやく気づき、そして同時に思った。いてくれるのがきみならそれは、とても幸福な未来なんじゃないかと。

ベンジャミン、きみはあの時思い違いをきっとした。俺がきみに近づいたのはランスキーの情報を得る為だと思ったんだろう。
けれど真実は違う。もっと下衆な理由で俺はきみの手を取ったのだ。きみ達兄弟のことを俺は捨て札のように思っていた。
あの時もしも全てを告げていたらきみは泣いただろうか。悪事に手を染めていたのはきみの兄弟ではなく、眼前にいる俺の方なのだと。
…怖くて言えなかったのだ、笑ってしまう。俺はきみといると滑稽な男になる。情けなくて目もあてられない。

ベンジャミンが言った。「僕を攫って」と。
死に場所を選べるうちに早くと、きみは俺に縋り付いた。端的に言えばそれは「僕を殺して」という願いだったのだろう。俺なら殺してくれるときみは思ったのだ。
「わかった」と頷くしかなかった。そうしなければきみは、ほかに自分を殺してくれる誰かを探しに行っただろう。でなければきっと、自分で自分を殺めていたかもしれない。

車で向かった先はひと気のない海岸沿いだ。ここなら何時間停めておいても誰かに不審がられることはない。波の音を聞きながらベンジャミンと夜の街を眺めた。夜空の星を綺麗だと言ってはしゃいだ彼は眼前に広がる夜景に感嘆の声をあげた。その瞳に映る街の光を盗み見ながら、どうしてかふと、ランスキーと初めて接触した日のことを思い出した。あの日麻薬の取引をしていた男の弟と、こうして夜の街を見ている。あの時の俺には想像もつかないだろう。俺が今どんな思いでタバコに火をつけたのか。
ベンジャミンは喜び、幸せだと言って笑った。心が握りつぶされるような感覚がした。
後部座席に押し倒して唇を繋げた。舌を絡ませて彼の口内を味わう。暗闇の中で見えるものは何もなく、世界に二人だけのような感覚がした。何度も名前を呼ばれ、その度に心臓が締め付けられた。その声をもっと聞きたくなり、服の中に手を滑り込ませて体を触った。車内に響く彼の喘ぎは小刻みに紡がれ、俺をひどく興奮させた。触れずにはいられなかった。激しい衝動にかられた。
もういっそ全て投げ打って、きみと二人でいられたら。その「時」に期限などなかったら。
一瞬夢を見て、次の瞬間我にかえった。もしもの話に思いを馳せるなど俺らしくない。なんの意味も持たないのに。

手錠で手首を拘束し、ガムテープで足を巻きその口元を塞いだ。これなら充分に彼を被害者に仕立てあげてやれる。塞がれた口からはくぐもった声がして、俺の胸を軋ませた。
これが最後だと思う。きみは俺に初めての感情を沢山よこした。思い返せばきみと出会ってこの数ヶ月、予測もしていなかった感情の変化が何度もあった。巧みに俺を見破るくせに、きみは誰より嘘をせがんだ。けれど上手くはいかないものだな、真っ直ぐな瞳と言葉は俺を何度も射抜き、嘘をつけなくさせるのだ。
こんなことは初めてだった。きみのような人は他にはいない。なあベンジャミン、俺はきみのことがどうしてこんなに。
「さよならベンジャミン」
思いがこぼれてしまう前に別れを告げて、彼に最後のキスをした。テープ越しの唇は、暖かいのか冷たいのかさえ分からなかった。



大体の段取りは既に考えてあった。俺は携帯電話を取り出してある番号に電話をかける。それは奴が所持している携帯電話で、いつも呼び出す時に使っている番号だった。仕事の間は肌身離さず持っている筈だ、着信にはすぐに気付くだろう。
ほどなくしてコール音が途切れ、受話器の向こうで奴の声がする。
『…なんですか』
「やあランスキー。欲しい資料があってな。急で悪いんだが」
ランスキーは素直に応じた。今週中に行われる取引の詳細を知りたいと希望すると、二つ返事でそれを承諾した。
「じゃあ、××街の路地裏で。この前会った所だよ。わかるか?」
『わかる。今から行きます』
電話はそこですぐに切れた。ランスキーは恐らく資料の用意が終わればすぐにでも指定した場所に直行する筈だ。俺もタクシーを拾いその場所に向かった。

「協力感謝するよランスキー」
あまり俺を待たせることもなく彼はそこに現れた。来るなり俺に資料を差し出す彼から、本当は特に必要もないそれを俺は受け取る。
「しかし、くれぐれもマフィアと警察、両方を手玉に取ろうとは考えないことだ」
ことさら嫌な顔で笑ってやると、ランスキーはそれに苛立ちを見せることもなく静かに頷いた。
「わかってます。俺はあくまでも小間使いでしかない」
健気な男だ。本当は俺の胸ぐらを掴むくらいしてやりたいだろうに。
「…わかってるならいいがね」
資料を眺めながら次に言うセリフを頭の中で再生する。彼を揺さぶり、動揺させてやらなければいけない。
「確か病気の弟さんがいるんだったな。手術はもうすぐだったか?」
ちらとランスキーの様子を伺うと、彼はいつもの冷静さを欠き、驚いた顔をした。
「弟は関係ない!」
取り乱す彼に俺は笑みを送ってやった。
…そうだよ。それでいいんだランスキー。
「手術が成功するといいな。それもお前次第だろうが」
俺の言葉にランスキーは舌打ちをした。
「……今のは…脅しのつもりか」
ランスキーが拳を握りしめて俺に問う。
「そうだな…いや、信頼の証を見せてほしくてさ。この前言ってた「あることに目処が立った」というのは、弟さんの手術代のことだろう?」
ランスキーは今にも食いかかるような鋭い目で俺を睨んでいる。
「…それの、何が…」
「俺はお前にとって用無しになったんじゃないか?今までさぞ俺のことが気に食わなかったことだろう、最後の腹いせにお前が俺を売るんじゃないかと思ってね」
「そんなことは、しない」
「まあ、お前が本当にそう思ってるかどうかはどちらでもいいんだ。…俺も随分お前には助けられてきたよ。今までありがとうな」
「…なんだ、何が言いたい」
ランスキーはもったいぶった俺の言い方に苛立ちながら、けれど慎重に尋ねた。
「今日で終わりにしようランスキー。お前が俺の寝首をかきにきたりしないように、弟さんをちょっとな、預かってるんだ」
ランスキーはいよいよ目の色を変え俺への怒りを露わにした。力強く握った拳は両方とも震えている。
「…っ、俺が、一度でもテメェに……」
「…ああ、裏切るような真似をされた覚えはないよ。お前の問題じゃない。俺が疑り深いんだ、ごめんな」
俺はうまく笑えた。今までそうしてきたように嘘は易々とこの口から流れ落ちていく。…ほらやっぱり、きみ以外になら嘘がつけるのだ、こんなにも容易く。
「信頼してるよランスキー。お前のスパイ行為は一味の誰かになすりつけておいてくれ。そしたら俺も今後お前と連絡をとったりはしないし、付け狙ったりもしない」
「………」
「それから、まず何より弟さんの居場所が知りたいだろう?今ここで言ったらその途端お前に撃ち殺されてしまうかもしれないから、別れてから電話で伝えることにするよ。焦らすようですまないが」
ランスキーは震える拳を持ち上げ思い切り俺の胸倉を掴んだ。怒りに満ち溢れたその顔を間近で見つめながら、顔はつくづく似ていないものだなと、俺は余所事を考えていた。
「………地獄に落ちろ」
地の底を這うような声でランスキーは言う。俺は笑って「別れの挨拶にしちゃ物騒だな」と返した。なあランスキー、俺はお前のことが割と好きだったんだ。信頼してるよ本当に。俺が何を言おうと、信じてもらえはしないだろうけど。

それから別れて数分後、互いの姿が見えなくなってから電話越しにベンジャミンの居場所を伝えた。少し遠くで車のエンジンがかかる音がする。ランスキーが早速車を走らせたのだろう。
俺は彼からもらった資料を手からぶら下げ、ひと気のない路地を歩いた。恐らく1時間も後になれば、あの海岸沿いにはがらんどうの俺の車だけが残されている筈だ。ランスキーはきっとうまいこと騙されてくれるだろう。そして帰りの車中、もしくは家に帰り着いてから、きみに俺とのことを打ち明ける。
ベンジャミン、きみが俺に失望してくれることを願う。最後まで利用されてしまったと、都合のいい手札にされてしまったと、笑って、呆れて、見損なってくれればいい。

きみ達兄弟に会うことはもうない。
きみが手術を受けるか受けないか、俺には分からない。きみがこの後何を選択するのか。それを見届けるのは俺じゃなくランスキーだ。俺にはできない。
…ベンジャミン。言ったらきみは笑うだろうか。俺はきみの最後を直視することが怖くて仕方なかったのだ。引き金を引いてやることも、寄り添ってやることもできなかった。あの時、手術を受けてほしいと、ランスキーとまるで同じセリフが何度も口をついて出そうになったのを、きっときみは知らない。
さよならベンジャミン。願いを叶えてやれなくて、きみを逃がしてやれなくてすまない。






それから幾月。俺は特に変わらない毎日を送っている。ランスキーとの関係が切れたためデスクの上の山は一向に片付かなくなったが、それを上司に咎められることはなかった。無理はするなよと、気を遣われる毎日だった。
仕事には相変わらず大した意義を感じはしないが、忙しいことは俺の助けになった。時間に追われている間は目の前のことに没頭できた。
月に二度ほど両親の墓参りに行っている。前回供えた揃いの花はしなびていた。また花を持ってこよう。目を瞑り手を合わせるが、これと言って伝えたい言葉が思い浮かばなくて俺は毎回困るのだ。十秒も経たないうちに目を開け立ち上がる。二人の墓に背を向けて歩き出したところで、毎回墓参りの時間が短すぎると苦笑する母親とその後ろでため息を吐く親父の姿が脳裏に浮かんだ。
…そう。俺は特に変わらない毎日を送っている。きみが今どこでどうしているかは、知らない。

ある日、郵便受けに差出人不明の手紙が届いた。宛名は俺になっているが、思い返してみても特に手紙を受け取る予定などなかったはずだ。差出人と内容に見当もつかないまま、俺はリビングでその封を開けた。
中には便箋が二枚。真ん中で折られたそれを開き一行目を目にした瞬間、俺は息を呑んだ。
…どうして。一番最初に俺の名を呼ぶところから始まる手紙のせいで、俺はきみの声を鮮明に思い出す。

「デューイさん、お元気ですか。
あなたがこの手紙を読んでいる頃、僕は多分病院のベッドの上で眠っていると思います。もしそうなったら僕に代わって投函してほしいと、病院の受付のミランダに頼んでおきました。
僕は兄ちゃんと話し合って、手術を受けることにしました。もしも失敗した時は管を抜いてほしいと何度もお願いしたけれど、やっぱり兄ちゃんは頷いてくれませんでした。
デューイさん、あの時僕のお願いを聞いてくれなかったでしょう。だからもう一度言います。今度は聞いてください。どうか僕に会いに来てください。あの時破った約束をまだ覚えているなら、今度こそ叶えに来てください。ベッドの上で待っています。ずっと。
ベンジャミン」

手紙を持つ両手が微かに震えていることに気づき便箋と封筒を慌ててテーブルの上に置く。どうしてだベンジャミン。あのまま俺を見限ってくれたんじゃないのか。どうして。どうして。
病院のベッドで眠るきみを脳裏に描く。医療機器に繋がれ静かに眠るきみは少しだって動きはしない。呼吸と脈を繰り返すだけのきみは、もうその瞳を開くことはない。笑うことも怒ることも、俺の言葉に耳を傾けることも。
それは恐怖以外の何者でもなかった。ああ俺は、だから耐えられなくてきみの手を離したのに。きみの願いは今も変わらない。あの時逃げ出した俺を許していないからこそ、きみは俺にその役目をあてがい続ける。なあ、だけどベンジャミン。繋がれた管を抜くことは俺にはできない。できるわけないんだ。

手紙を受け取ってから数日、俺は身動きが取れないままでいた。どれだけ謝ろうと、想いを告げようと、だってきみの瞳は開かない。きみの耳には届かない。俺は手紙を読んだその日からずっと、まるで取り憑かれたかのようにきみのことばかり考えた。母親の時の比ではない。何度も頭を抱え、俺は一人うずくまった。
思い描くきみが、絶え絶えの息の中で俺の名を呼ぶ。「デューイさん」と何度も呼んで、懇願しながら手を伸ばす。目を開けていても瞑っていても、きみの姿と声が俺の中から消えることはなかった。
ずいぶんと思い悩み、葛藤した。このまま手紙が来たことなど忘れてしまおうかと思ったのだ。けれど何度振り払おうと、きみの姿が浮かんでくる。その度に想像の中のきみは冷たくなり、肌が血の気を失っていく。耐えられなかった。これはきみからの最後の贈り物なのだ。きみが撃ち放った報復と言う名の弾は俺を上手に撃ち抜いた。おかしいだろ。俺はきみに一度だって敵わないんだ。
きみの願いを叶えようと思う。…会いに行くよ。

数ヶ月ぶりに訪れたこの場所はまるであの頃と同じだった。奥に見えるガラス張りの中庭は、今もなお変わらずにそこにある。何度あの箱庭できみと言葉を交わしただろう。ずいぶん遠い昔のことに思えた。
受付に向かうと、見覚えのある看護師がいた。手紙の中で「ミランダ」と呼ばれていたのが彼女だろう。以前俺に、ベンジャミンからの手紙を渡してくれたのもそういえば彼女だったと思い出す。
彼女は俺に気付くなり目を伏せ、しきりに親指の爪で下唇をなぞっていた。
「…ベンジャミンの、いる部屋は」
俺が尋ねると彼女は一度だけ俺を見上げ、また俯いた。
「◯◯号室よ、◯病棟の。エレベーターを上がったら右の渡り廊下を行った先」
言いながら尚も下唇を爪でなぞっている。彼女の癖なのだろうか。
俺は軽く会釈をし、彼女から教えてもらった病室へ向かった。この先に待つもののことを思うと、体ごと暗闇に落ちていくようだった。

数分後、彼が眠る病室の前にたどり着いた。俺の手はなかなか動かなかった。この扉の向こうにベンジャミンがいる。管に繋がれ眠っているきみがいる。俺はその光景を見て一体どうなるのだろう。恐怖が体を這った。
深く息を吸って、取っ手に手を掛ける。きみの願いを叶えることはどうしていつも、こんなにも困難なのだろう。
ドアを開ける。中央にベッドが一つある。真っ白な空間の中、ベッドの上にきみはいた。
「…」
いよいよ幻を見るまでに俺の心は追い詰められてしまったのかと思った。あの母親と同じように俺も、空想の世界に捕まって出てこれなくなったのだと。
だって、あり得ないだろう。きみがベッドの上で上体を起こし、穏やかに本を読んでいる。
「………」
しばらくそのまま見つめていると、俺が見ている幻のきみはこちらに気づいて俺をジトリと睨んだ。
「嘘つきが来た」
けれどそう言った後、彼は悪戯に笑ってから「久しぶりだね」と続けた。
「………ベンジャミン」
「遅いよもう。手紙出したのだいぶ前だよ」
「………」
「住所、書き間違えたかと思って心配した」
「………」
彼は読みかけの本をサイドテーブルに置いて上半身をこちらに向けた。これが俺の作り出した空想の世界なのだとしたら、この彼のセリフはどこから手繰り寄せられたものなのだろう。
…だって、そんな事があるわけない。ベンジャミンが本当に今、俺に向かって話しているなど。
「…デューイさん、もっとこっちに来て。まだ傷口が痛くて上手く動けないんだ」
彼に呼ばれ、俺は感覚があまりない足を動かす。ベッドそばまで行くと、ベンジャミンは手を伸ばし俺の手の甲にそっと触れた。
「…デューイさん、顔が見えないよ」
彼の温もりを片手で感じながら、俺はもう片方の手で自分の顔を覆う。塞がれ暗くなった視界の向こうから、ベンジャミンの声が聞こえる。
「…ごめんなさい、悪戯が過ぎたかな…。怒ってる?」
これが幻だなんてあり得るのかと思う。俺には到底思えない。きみが今本当に俺の手に触れ、俺に話しかけているようにしか。
「デューイさん、あの、えっと」
「…どうして」
病室に入ってから初めて発した俺の声に、ベンジャミンは優しく「うん?」と相槌を打った。
「管を抜いてほしいって…だって、書いてあったじゃないか」
「…えっと、そう書いておいたらデューイさん、僕に会った時ビックリするかなと思って。だって、あの時は僕まんまと騙されちゃったから。ちょっとくらい仕返ししてもいいかなって思って…」
ベンジャミンはしどろもどろにそう語る。指は俺の手の甲に触れたまま、何度か撫でるように優しく動いた。
「…きみは」
「うん?」
「いま本当にそこにいるのか?」
顔を覆ったまま尋ねると、彼が「あはは」と笑った。その声は屈託がない。楽しそうに、嬉しそうに、そして幸せそうに彼は笑った。
「いるよ。驚かしてごめんなさい。デューイさん、顔見せて」
そっと手を外すと、すぐそばで俺を見上げる彼の姿がある。未だ信じられないまま、俺は手の甲を撫でる彼の指先を握り返した。
「手術ね、成功したんだ。嘘みたいでしょう!なんかね、難しいって言われてたところがうまいこと良い位置に移動してたんだって。「開いた瞬間にこれは大丈夫だと思った」って、後から先生に言われて」
「…ああ」
「兄ちゃん、三日三晩泣き続けてさ。僕、人があんなに泣いてるとこ見たの初めて」
「…ああ」
「ねえ、ミランダどうだった?ちゃんと深刻な雰囲気出してた?デューイさんが僕の姿を見るまでバラしちゃためだよって言っておいたんだけど」
「…ああ」
「そうだ!ねえ、兄ちゃんから聞いたよ!デューイさん、兄ちゃんにスパイさせてたんだって?それでお金渡してたんでしょう。あいつは本当に最悪な奴だって、兄ちゃんずっと言ってたよ」
「…ああ」
「それから、えっと…」
視界の向こうで揺れる彼が途端に静かになる。俺の顔を覗き込んだかと思うと、ベンジャミンは少し辛そうに、それでもなんとか腕を伸ばして俺の頬に触れた。
「…デューイさんが泣いてるとこ初めて見た」
「……」
「…へへ。泣いても大丈夫だよ」
彼に優しく頬を撫でられ、俺はその肩に頭を埋めた。細くて頼りないその体は、けれど誰よりも俺を優しく受け止める。最後に涙が出たのはいつだろう。親父の葬式が終わった後、心を失くしたように呆然とする母親を放って一人ベッドに潜り息を殺したあの夜だっただろうか。
彼がまた、俺の頭を撫でる。暖かさに押されるようにして、涙は次から次へときみの肩を濡らした。
「デューイさん、会いたかった」
「……」
「会いたかったよ」
きみの声が鼓膜をそっと揺らす。俺も会いたかったと、すぐに言葉で返せなくてもどかしい。本当に涙が止まらないのだ。ベンジャミン。俺もきみに会いたかった。ずっと会いたくてたまらなかった。

…どれくらいそのままでいただろうか。やっと涙を止めることができた俺はきみの肩から顔をあげ、改めてその顔を近くで見つめた。
「…ところで」
鼻をすすって仕切り直すようにそう言うと、そんな俺の様子がおかしかったのかベンジャミンはクスクスと笑いながら「はい」と返事をした。
「住所はどうやって知ったんだ」
俺の問いに、彼はさも当然のように答える。
「助手席で免許証を見せてもらったでしょ。あの時に言ったじゃない、手紙を出したくなるかもしれないって」
言われてから思い出し、あの一瞬で暗記したのかと少し感心した。それにしてもその悪戯な笑顔はたちが悪い。偶然に合った辻褄に我ながら得意になっているのだろう。あの時は「世界情勢とか」なんて言っていたくせに。
「ねえ、退院したらまたどこかに連れてって。僕デューイさんの運転してるところがまた見たいな」
なんでもない約束を交わすようにしてきみは笑う。今日ここに来るまでの俺が一体どんな気持ちでいたか、きみは十分の一も分かっていないのだろう。
ああ、謝らなければいけないことが山ほどあるのに。伝えなければいけない言葉も、聞きたいことも。けれど不思議だ、その顔を見ていると今閃いたばかりの言葉たちが、順序など無視して口から出てしまう。思うより先に言葉になってしまうのだ、やっぱりきみ相手に嘘がつける筈がない。

「……こんな事になるなら、あの本を借りておけば良かったな」
「ん?」
「相手を上手にオトす方法、だったか。デートとベッドに誘う方法が書いてあるんだろ?」
俺が笑いながら言うと、その目を見開いて顔を真っ赤に染めるものだから。
きみを抱き締めて、腕の中に閉じ込めた。





end.





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