箱庭の空
2


人間は1日に200回嘘をつく生き物らしい。兄ちゃんが買ってきた心理学の本の中に、そう記されていた。
「悪い奴に騙されるんじゃないぞ」
本にこんなことが書いてあったよと伝えると、兄ちゃんは開口一番そう言った。ガシガシ頭を撫でられて、僕はもちろん「うん」としか言えなかったのだ。

「行ってくる。外に出る時はくれぐれも走ったりするなよ」
兄ちゃんが年季の入った革靴の紐を結び直して言った。
ハットを被り、ドアノブに手をかける兄ちゃんの後ろ姿を僕は見つめる。僕は兄ちゃんがこれからどこへ行って何をするのかを、知らない。
「わかってるよ。ねえ、いつ帰ってくる?」
「明日の朝には帰れると思う」
「わかった。気をつけてね」
「ああ。本屋に寄れたらまたなにか一冊買って帰る」
「うん、ありがとう」
そうして扉は閉められ、僕はいつものようにこの家の中、一人ぼっちになった。
水道の蛇口をひねって水を一杯飲んでから、次のご飯の時間までに読む本を選別した。
どこもかしこも雑然としたこの家に、僕たち兄弟は二人で暮らしている。僕もランスキー兄ちゃんも片付けは得意な方じゃないから、部屋にはいつも脱ぎ散らかした靴下だとかあとは捨てるだけの郵便物が散らばっている。
見慣れた光景に何を思うこともなく、僕はベッドに腰掛けて本を開いた。
少し前のことだ。兄ちゃんが腕に包帯をグルグル巻きにして帰ってきたことがあった。適当に巻かれた包帯には血が滲んでいて、僕はギョッとしながら「どうしたの?」と尋ねた。兄ちゃんは間髪入れずに「転んだ」とだけ答えた。それがあんまりにもヘタクソな嘘だったから「そっか」と、僕は言いながら少し目を伏せてしまったんだ。ダイニングテーブルに座って包帯を巻き直す兄ちゃんの横顔を、今も覚えてる。
この人がどこで何をしているのか僕は知らない。怖くて、遠くて、何も言えなくなる。

僕は生まれつき体が弱いので、幼い頃から薬を服用している。僕が飲んでいる薬は全部で四種類。この中の、白い錠剤がとにかく高額で、服用し続けるにはとてもお金がかかるのだ。
兄ちゃんは「気にするな」と言う。この白い粒の正確な金額も、これを飲まなかったらどうなるのかも、僕は何も知らないまま毎日飲み続けている。
兄ちゃんがどうやってお金を工面してくれているのかは知らない。2、3回尋ねたことはあったけど、兄ちゃんは何一つ教えてくれなかった。聞けば毎回兄ちゃんは目を逸らして口をつぐむ。僕はそんな兄ちゃんの様子を見て、知りたいという気持ちより「兄ちゃんにこんな顔させたくないな」という気持ちの方が強くなってしまった。だから、それからはもう何も聞かないことにした。僕は分かってる。僕がなんにも気にしてないフリをしてれば、兄ちゃんも病院の人たちもみんなみんな、一番気が楽なんだ。

週に一度、薬を処方してもらうため病院に足を運ぶ。
病院までの道のりはバスを使うのが一番便利だけど、僕は誰にも内緒で往復の道を徒歩で移動することにしている。もしも兄ちゃんやナースのミランダにこれが知れたら、きっと少し怒られてしまうだろう。ひと気のないところで発作が起きたらどうするんだと。
片道30分くらいかかる距離、一人で黙々と歩くのが僕は好きだった。通りで井戸端会議をするおばさん達の会話や、どこかから聞こえる猫の喧嘩声、車のクラクション、踏切の音。たくさんの音が混じり合って、人はきっとこれを喧騒と呼ぶ。そしてこの喧騒の中を歩いていると、僕もみんなと同じように日常の仲間入りをしているような気になって、ちよっと嬉しくなるのだ。

病院に着いたらまず受付にいるミランダに声をかける。彼女は一度口を開いたらなかなか噤まない。僕の顔を見るといつも決まって「あらベンジャミンじゃない。ってことは今日はもう金曜日なのね、一週間って本当に早い」と言ってから(僕が病院を訪れる曜日は決まっているので)、取り留めもない小さな出来事や噂話を一週間分たっぷり聞かせてくれる。
「◯◯さんったらこの前退院したくせにまぁた転んで腰やっちゃって。数日で戻ってきたのよ、まったく」
「あはは、ミランダ嬉しそう」
「嬉しいわけないでしょ、あの偏屈じいさんが退院してせいせいしてたって言うのに」
「嘘つき、ミランダの話を最後まで聞いてくれる貴重な話し相手のくせに」
僕の言葉に、ミランダは「なぁによそれ」と言って笑い飛ばした。彼女の笑い声はいつも軽やかで、僕はこの声を聞くのが好きだった。
「ねえベンジャミン、ちゃんと食べてる?」
ミランダが僕の顔を見ながらそっと尋ねるので、僕は「うん」と頷いた。
「ちゃんと食べてるよ。…どうして?食べてないように見える?」
僕が尋ね返すとミランダは親指の爪で下唇を一度なぞってから「そんなこと」と否定した。
「…好き嫌いしてちゃ背が伸びないわよって。忠告よ」
「好き嫌いなんてしてないし、背だって伸びてる」
「あらそ。ふふ、ならいいのよチビちゃん」
ミランダは不敵に笑って受付のカウンターに頬杖をついた。
「ベンジャミン今日はラッキーね。ルイス先生の診察は今、待ち時間ゼロよ」
「そうなの?残念。もっとミランダと話していたかったのに」
「あはは、口説いてるの?モテる女は大変だわ」
ミランダは受け付けのカウンターから身を乗り出し、上機嫌で僕の頭を撫でた。口説いたつもりはなくて本当に本心からそう言ったんだけど、まあいいや。彼女が嬉しそうにしてくれているなら、それだけで。
「いってらっしゃい、ルイス先生が待ってるわよ」
「うん」
ミランダに送り出され、先生が待つ診察室へ向かう。扉を二回ノックすると中から「はいはい」と、いつもと変わらない先生の声がした。
「一週間ぶり。何か変わったことはなかった?」
ルイス先生は僕が部屋に入ると書きかけのカルテから目線を上げ、優しく語りかけるように言った。先生の声はいつも優しい。心地の良いその声は木製の古時計のようだといつも思う。
丸椅子に座り、先生に「うん」と答えると、やっぱり優しい顔で彼は笑った。

「うん、それじゃまずは聴診から」
先生の手は皺だらけだ。髪の毛と口髭は真っ白。少しくたびれた白衣は細身の体を包んでいる。ルイス先生の白衣からする匂い、あれは防虫剤の匂いなのだとミランダがコソコソ話で教えてくれたことがある。僕はこの匂いも含めて、ルイス先生のことが好きだ。
「…うん、はい。いいよ、服を直してね」
「はい」
「この頃は調子良さそうだね、最後に発作が起きたのはいつ?」
「えっと、覚えてない」
「そうか、うん。いいですね。じゃあ今回も同じ量出しておきましょうか」
先生は机の上の紙にサラサラと字を書き込んでいく。僕はペンが握られた先生の手の動きを見つめながら尋ねた。
「薬、減らないですか?」
先生は顔を上げ「うん?」と小首を傾げた。
「あの、白い錠剤の。減らしたらダメ?」
ルイス先生は手を止め僕の顔を見つめる。それから口髭を親指で撫でながら、少し困ったように「うーん」と唸った。
「…あの薬はね、きみが元気に過ごすために必要ですからねぇ」
「飲まなかったらどうなるの?死んじゃう?」
僕の問いに、ルイス先生は「ふは」と、少し独特な笑い声を先頭につけて言った。
「まさか、そんなことはないですよ」
「…そう」
僕はそれ以上は何も聞かないことにした。先生の皺だらけの手が頭の上にそっと置かれ、そのまま緩く撫でられる。
「何か変わったことがあったらいつでもおいで。今日はこれでおしまいです」
先生に頭を下げ、僕は診察室を後にした。
やっぱり聞かない方がいい。誰かの困った顔を見るのは胸が苦しくなるから。先生の「ふは」という笑い声を頭の中で何回かなぞってから、僕は待合室へ移動した。

お気に入りの場所がある。待合室の長椅子は全部で6列あって、その場所は一番前の、一番左側。どうしてかというと、ここからだと中庭の様子がとても良く見えるからだ。
ガラス張りの中庭は透明な箱庭みたいだ。なんだか、綺麗な水槽を外から眺めているような気分になって、僕は薬が処方されるのを待つ間は毎回この場所から中庭を見つめていた。
ふと、喫煙所に一人の男の人が入るのが見えた。中庭の端に設置された喫煙所も四方ガラス張りになっているから、中の様子がここからでもよく見える。
彼は警察官だろうか。街のお巡りさんと同じ制服に身を包んでいる。僕は「お巡りさんもタバコを吸うんだな」と少し驚きながらその様子を見ていた。男の人はこちらに半分背を向けて、気だるそうに煙を吐き出している。
「……」
かっこいいな、と思った。中指と人差し指がすらっと長くて、タバコを持つ姿はとても絵になっていた。少し虚ろな瞳はどこを見ながら何を考えているのか、見当もつかない。
どうしてこんな場所にいるんだろう。誰かのお見舞いに来ていて、その帰りなんだろうか。それとももしかしたら、この病院に事件の容疑者なんかがいたりして、取り調べをしにやってきているのかもしれない。病院の景色の中に彼の制服姿はなんだか似つかわしくなくて、僕は目が離せなくなってしまった。
タバコを吸い終わり喫煙室から出て行く時、彼が身をかがめた。そうしないとドア枠の上面に頭をぶつけてしまうんだろう。身長は一体どのくらいあるのかな。きっと兄ちゃんより高いだろうと思う。
そのまま中庭から院内へ戻ってきた彼は、通りかかったナースの一人と軽く会話を交わして、それから何の思い入れもなさそうな足取りで病院を後にした。
「……」
僕は驚いた。ナースの一人と話していた彼の、あまりの人当たりの良さに面食らったのだ。
喫煙所にいた時とはまるで別人だ。それは例えるなら、笑った顔のお面を着脱したかのような変貌ぶりだった。
憂鬱に空を見上げていた飴色の瞳を思い出しながら「もしかして二重人格?」なんて、この前読んだミステリー小説の影響だろう、突拍子もないことを考えたりもした。

人は1日に200回嘘をつく。そして僕たちは嘘をついていないと、どうやら上手に生きられない生き物らしい。
兄ちゃんも、ミランダも、ルイス先生も。みんな嘘をつかなきゃいけない時がある。ぶっきらぼうな兄ちゃんが急くように短く答える時、ミランダが下唇をなぞる時、先生が言葉の先頭に笑い声をつける時。みんながついた嘘に気づかないフリをすることも嘘になるのだとしたら、やっぱりみんな…僕も含めて、嘘なしでは日常を生きられないのだろう。
タバコの彼は、一日の内にどんな嘘をどれだけついているのだろうと思った。隅から隅まで塗り固めたような姿が印象的で、何故か脳裏に焼きつく。彼がいなくなってしまった後もずっと、僕は名前を呼ばれるまでそのことを考えていた。

次の週もまた彼の姿を見つけた。中庭に向かう途中で、若いナース二人に声をかけられ挨拶しているところを目撃する。彼は先週と同じように人の良さそうな顔で笑っていた。
会話が終わったあと彼はそのまま中庭へ、二人のナースは待合室を横切りながらナースセンターへと別れた。僕のすぐそばを通りがかった二人のナースの会話がちらりと耳に入る。
「デューイさんって素敵ですよね」
「ほんと。いっそ入院してくれたらいいのに」
楽しそうに話す二人の後ろ姿をぼんやり見送りながら僕は、そうか彼の名前はデューイと言うのか、と思った。デューイさん。うん、覚えた。
デューイさんはその後、前と同じように虚ろな表情でタバコを吸っていた。けれどその姿は、何かからやっと解放された安堵の表情にも見える。
定期的にここへ足を運んでるということはやっぱり誰かのお見舞いに来ているということだろうか。もしそうならあの憂鬱さは、見舞った相手のことを思って? もしかしたら恋人かもしれない。いやそれとも奥さんかも。そんな風にして彼に見舞われる相手のことを一人で勝手に想像し、何故だか僕は面白くない気持ちになったのだった。
その日は自分の名前を呼ばれるのが早くて、彼が一本吸い終わる前に僕は椅子から立ち上がらなければならなかった。薬の受け取りと会計が終わった頃にはもう彼の姿はなくて、少し名残惜しい気持ちになったのを覚えてる。

それからしばらく経ったある日、兄ちゃんがいつもより多めの食材と、それから本を三冊も買ってきてくれたことがあった。突然の大盤振る舞いに、僕は喜びながら理由を尋ねた。
「どうしたの?いいことあったの?」
「ちょっとな。…臨時収入があったんだ」
「へえ!良かったね兄ちゃん!今日はご馳走だね!」
「ああ、早速用意する。お前は座って待ってろ」
上着をクローゼットにしまってから食事の支度を始める兄ちゃんを横目に、僕は三冊の本のページをパラパラとめくっていた。
兄ちゃんが買ってくる本の内容はいつもてんでバラバラだ。雑学だったりエッセイだったり物語だったり。多分立ち寄った本屋の、一番取りやすい場所に並んでいる本を無作為に選んでいるんだろう。それは、どんな本が我が家の本棚に並ぶのか見当がついてしまうより、よっぽど面白いと僕は思う。
今回は小説が二冊(SFと自伝だ)と、もう一冊が「相手を上手にオトす方法」と銘打たれた雑学の本だった。それを見て僕が思わず吹き出したものだから、キッチンでパンを切っていた兄ちゃんは不思議そうにこちらを振り向いた。
「なんだ?」
「あはは!だってほら、おかしいんだもん」
本の表紙を兄ちゃんに向けて言うと、兄ちゃんも僕につられて小さく笑った。
「お前もそのうち必要になるかもしれない」
「僕より兄ちゃんが読んだ方がいいんじゃない?ほら、デートの誘い方が載ってる」
「俺がデート?はは、冗談きついな」
僕はまだおかしい気持ちが消えなくて、くすくすと笑いながら目次を眺めた。異性へのアプローチの仕方からディナーの誘い方まで、いろんなハウツー項目がそこには記されていた。
最後の章の「ベッドの上手な誘い方」というページを試しに開いてみる。「この章を読んでいる貴方はもう勝者」という出だしから始まって「目は口ほどに物を言う。瞳で口説きなさい」と続いている。なんだかいまいち具体的ではない手引きに僕は思わず「なにそれ」と、活字に向かって笑いながらつっこんでしまった。兄ちゃん、これをお会計に持っていった時に変な顔されてなかったら良いのだけど。
その後食卓に並んだ料理はいつもよりずっと豪華だった。もちろん出来合いのものばかりだけど、それでも普段の二倍はある品数に僕の目は輝いたのだった。

それから数週間ほど経った頃だろうか。いつものようにベッドに腰掛け活字を追いかけていたら、やけに真剣な声で兄ちゃんに名を呼ばれた。
「ベンジャミン、話がある」
僕は読んでいた本から顔を上げた。
「…うん。なに?」
食卓の椅子に座っていた兄ちゃんは、空いている方の椅子を後ろに引いて僕を促す。無言の指示に従って、僕はその椅子に腰掛ける。
目が合うなり、兄ちゃんは言った。
「…手術しよう」
それは単刀直入の四文字だった。けれど僕はなんとなくわかっていた。名前を呼ばれた瞬間から、そう言われる気がしていたんだ。
だから特に驚くこともなく、ただ兄ちゃんの鉄の棒みたいな物言いがおかしくて、小さく笑った。
「…はい」
静かに頷いて笑う。落とした目線はテーブルの上のガラスコップに止まった。中に入った水は何日前に注がれたものだろう。僕も兄ちゃんもズボラな方だから、こういう事はままある。
どうして、とか、なんでとか、そんな言葉が返ってくると思っていたのだろう、兄ちゃんは少し驚いたように眉を持ち上げた。
「…最近のお前は体調がいい。手術に耐えられる元気がある」
「うん」
「決断が早ければ早いほど成功率が高いと医者に言われてる」
「うん」
「手術代も目処が立ちそうなんだ、だから」
「うん」
その次に続く一言を兄ちゃんに言わせるのはなんだか嫌で、だから代わりに、遮って自分の口を動かした。
「頑張るよ」
何も聞かない。兄ちゃんが答えづらい質問は、もう一つだってしない。兄ちゃんは嘘がヘタクソだから、きっと困って、それでも精一杯取り繕ってみせるだろう。そんなことはわざわざさせない。聞きたいことを全て飲み込んで頷くことだって、僕が頑張れることのうちの一つなんだと僕は知っている。
このまま手術しないとどうなる?成功率はどのくらい?手術代はいくら?失敗したら僕は死ぬ?
一度目を瞑って、全てを喉の奥に押しやってから僕は笑った。兄ちゃんはいつもの仏頂面に少しの悲愴を滲ませて、それを誤魔化すため僕の頭を撫でた。

手術は2ヶ月後に決まった。
ひとりぼっちの世界に落ちていくような日々が、その日から始まったのだ。

金曜日、いつものように病院へ向かった。ルイス先生には相変わらず同じことしか聞かれなかったので、僕も今までと同じ応答だけをした。
薬を待つ間いつもの席に座って中庭を見る。そういえばここ数週間ほどはデューイさんを見かけていないなと思い返す。姿を見たいなと願いながら喫煙所へ目を向けると、偶然にも彼の姿がそこにあった。
ああ、会えた。久しぶりに見れた。僕は自分でも驚くほど嬉しくなってしまって、それがどうしてなのか分からなくて少し慌てた。この嬉しさはなんだろう。一体どこから湧いてくるんだろう。
その姿に釘付けになっていたら彼がタバコの火を消して喫煙所を後にしたので、僕は考えるよりも先に立ち上がり急いで中庭へ向かった。
彼に認識されたいと思った。記憶に残りたいと思った。突き動かされるような衝動が胸の中で巻き起こって、この後一体なにをどうするつもりなのか自分でも分からないまま、僕は中庭に続く扉に手をかけた。
ちょうど同じタイミングで彼が扉に手をかけたから、僕は扉に引っ張られ体勢を崩してしまった。いけない、転んでしまう。けれど受け身を取らなくちゃと考えるより先に、彼が僕の腕を掴んで体を支えてくれた。
「すまない。なんともないか?」
ああどうしよう、彼が僕に向かって話しかけている。僕を見ている。その飴玉みたいな瞳に捕まってしまって、僕は何も言えずただ頷くことしかできなかった。
「良かった。この通り図体ばかりデカくてね。たまにこういう事があるんだ」
優しく微笑んだ彼を見て思う。ああこの人になら騙されたい。きっと疑う余地もなく僕を上手に騙してくれる。上手く説明ができない、でもそれは直感だった。この人は完璧な嘘をつける人だ。嘘をつく前に滲んでしまうぎこちなさや不自然さなど一切纏わせない。
きっとこの微笑みは嘘なのだろうと漠然と感じる。でも完璧だ。スマートで美しくて、何故だか僕はひどく惹かれてしまった。
「…ううん。支えてくれてありがとう」
彼の目に少しでも良く写りたくて笑って答える。すると彼も同じように笑い返してくれたので、心臓がドクリと、一度大きく揺れた。
そのまま、中庭に用があったのだというフリをして奥へ歩き進むと、彼は特に気に留める様子もなく扉の向こうへ行ってしまったけれど、素っ気ないその後ろ姿にさえ見惚れた。
奥のベンチに腰掛けて、たった今起こった一瞬の出来事を僕は反芻する。
心臓がドキドキしているのが自分でわかる。ああ発作なんかじゃない、これは高鳴りだ。僕は左胸を右手でそっと抑えながら、デューイさんの微笑みを頭の中で何度も再生した。

僕は恋に落ちたんだとわかった。
生まれて初めての感情に戸惑う。どうすれば心臓が静まるかなんて知る由もない。
そのあと、名前が呼ばれてもカウンターにやって来ない僕をミランダが探しにきてくれたけど「熱があるの?」と彼女に尋ねられるまで、僕は自分の顔が赤いだなんて全く気付かなかったのだ。

それからはずっとデューイさんのことを考えていた。顔と名前しか知らない彼のことをもっと知りたくて、何かいい方法はないかといつも考えていた。けれど僕には一つも術がない。次に会えるのはいつだろう。それまで彼は僕のことを忘れずにいてくれるだろうか。もし覚えてくれていたら、その時には自分の名を名乗るくらいはできるだろうか。

「ベンジャミン。こぼしてる」
二人で食卓を囲んでいる最中、新聞を読んでいる兄ちゃんに指摘された。兄ちゃんの視線の先は僕の胸元に向かっていて、そこを見てみると本当だ、僕は洋服にソースをこぼしていた。
「うわ、やっちゃった」
「待ってろ、拭くもの取ってくる」
僕が席を立つより早く兄ちゃんは立ち上がりキッチンへ向かった。台拭きを持ってきてくれるのだろう。恥ずかしいところを見せてしまったなと思いながら、兄ちゃんが食卓に広げた新聞を何となく見つめた。
それはただの偶然だったのだろうか。僕は初めての恋に気持ちが舞い上がっていたのかもしれない。けれど、どうしても運命めいたものを感じて僕の心臓はまた大きく脈を打った。
だって開かれた紙面の隅に、デューイさんが載っていたのだ。

『街のヒーロー デューイ検事
彼こそ正義の味方であろう。「驚異の検挙率」と語るのは彼の上司にあたるカルロ検事長。「デューイくんはデスクの上や法廷の中だけではなく、街の中でこそ正義を貫く。誰よりも早く悪の芽を摘み取る姿は実にストイックであり、まさにヒーローという名がぴったりであろう」。今日も街を守るデューイ検事の勇姿は眩しい。』

そうか、彼は検事さんだったのだ。お巡りさんは捜査や街の巡回が主だけれど、検事さんは取り調べや訴訟なんかが主な仕事内容だったっけ。デューイさんが取り調べ室で相手と会話している光景を想像し、どうしてかやけにドキドキしてしまった。
記事前半がそこまで続いた後「近影・デューイ検事」という一文と共に彼の写真が掲載されていた。画像は小さかったけれど確かに彼だとわかる。制服に身を包み、少し照れくさそうに敬礼してみせる彼はやっぱり釘付けになるほど格好よかった。
「どうした?何か気になることでも?」
ちょうどその時、兄ちゃんの声が頭上から降りてきた。見上げると、台拭きを手に持った兄ちゃんが不思議そうに僕を見下ろしている。
「…ううん、面白い記事ないかなと思って見てただけ」
「そうか。ほら、これで拭け」
そうして僕に台拭きを渡してから兄ちゃんは再び新聞を読み始めてしまったので、僕はデューイさんの記事の後半を読むことができず、気がかりなまま食事を続ける羽目になった。

夜、兄ちゃんがいつものように仕事へ出かけた後、捨てられた新聞をゴミ箱から取り出して例の記事をもう一度眺めた。さっきは読めなかった続きを見たくて顔を近づける。
記事の後半にはこう書かれていた。

『彼は、かの有名な××検事長の息子である。職務中に命を絶たれた××検事長の正義を受け継ぎ、彼は父と肩を並べられるほど勇敢な青年へと成長した。「親父は夢半ばで旅立ってしまったから…悔しい思いをしているかもしれません。親父の雪辱を果たすためにも、更に頑張っていきたいですね」とデューイ検事は語る。今後も彼の輝かしい姿に注目するとしよう。』

全文読み終え、ああそうだったのかと僕はひとりごちた。××検事長のことは僕も少しだけ知っている。何年か前に本も数冊出していたように思うが、確かその年のベストセラーに選ばれていた気がする。××検事長、彼は圧倒的な検挙率と頭の良さ故に、ちょっとした有名人だったのだ。当時、彼の訃報は大きな話題となり、新聞や雑誌の見出しをいくつも飾っていた。
その頃本屋で見かけた、本の表紙に写った××検事長の顔を思い出してみる。言われてみれば確かに、デューイさんはどことなく似ているような気がした。まさかデューイさんが××検事長の息子だったなんて。ちょっと…いや、かなりビックリだ。
この記事に書いてあることが本当ならば、デューイさんはお父さんの背中を追って今の仕事に就いたということになる。だとしたらまるで勧善懲悪な物語に出てくる正義のヒーローのようだ。けれどそれだけではないような気が、僕はする。どこかに嘘が潜んでいて、何かを隠しているように思えてしまうのだ、あの虚ろな顔でタバコを吸うデューイさんの姿を思い出すと。僕の仮説が正しいとしたら、彼はどんな理由で嘘をつき、どんな意図があって人を騙すのか。きっと、兄ちゃんやミランダ、ルイス先生が僕を思って吐くような嘘とは根本から異なるのだろう。理由は何もないのかもしれないし、もしかしたら恐ろしいほど捻じ曲がった何かが根を張っているのかもしれない。どちらにせよ僕には、ドキドキするほど美しく思えてしまう。
僕はデューイさんの虜だった。どうしてだろう、やっぱり騙されたいと思っている。あの瞳で見つめられ、耳触りのいい言葉で嘘を並べられ、彼の手の上で踊らされても良いとさえ思う。
僕はデューイさんが正義の味方でもそうじゃなくても構わない。僕にとってそれはちっとも重要なことじゃない。ただ、僕をどんな風に騙してくれるのかそれが知りたい。僕を思いやる優しくて不恰好な嘘なんかじゃなくて、何を聞いても平気でしらを切るような、かっこいい彼の姿を真近で見たい。
飴色の美しい嘘を吐く彼を想像したら、自分の吐息が湿度を上げたのが分かり恥ずかしくなった。
そして僕はカッターで記事を切り取って、そそくさと読みかけの本の中にそれを挟んだ。



それから次の週、いつもと同じ曜日に病院へ向かったら、会いたくて仕方なかった彼の姿があった。

…僕はこの日、デューイさんに口説き落とされる事になる。

僕がミランダから薬の袋を受け取った後、デューイさんに優しく手首を掴まれた。そして指が、本当に艶かしく絡まりあったのだ。
「…触れたくなったんだ、きみに。…嫌だった?」
嫌なわけない。だって僕はずっとあなたに触れてみたかった。長くて綺麗なその指に、ずっと前から惹かれていたんだ。
「ベンジャミンって言うんだな。前にもここで会ったの、覚えてる?」
覚えてる。忘れられるわけがない。この一週間ずっと、僕の頭の中にはあなたしかいなかったんだから。
「…気になってたよ、あの時からずっと」
こんなに骨の奥まで溶けてしまうような熱さを、僕は知らない。
「ぼ、僕は」
「ん?」
「もっと前から、気になってた…」
飴色の嘘はやっぱりどうしようもないほど美しくて、僕は心酔する以外に術がなかった。溺れたかったのだ。海底に沈む藻屑のように、彼の瞳に。

手術まで一ヶ月と数週間。
僕の日々に彩りが宿った。



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