クズどもに捧ぐバラッド






 不自然なくらい目を伏せたままだから、ああ、きみはこの話を誰にもしたことがないんだなと分かった。硬い指先の感触を確かめながら、俺はきみの話を静かに聞く。

 たいちは高校生の頃、とある劇団に所属していた。その当時在籍者が二十名にも満たなかったほどの、それは小さな劇団だった。人から注目を浴びたいという憧れのあったたいちが、恐らく自分でも人並みに、きっとそこそこ輝けるだろうと踏んだのが演劇の世界だった。
 その劇団はまだ無名に等しかったから、たいちの夢はすぐには実現されなかった。でも別にそんなことはどうでも良かったのだ。だって芝居は純粋に楽しい。仲間と一緒に送れる日々が嬉しい。
 モテたいという理由で高校入学と同時に始めたアコースティックギターを時折、仲間の皆に披露したりした。身内だけの小さなステージだけど、いつだってささやかな賞賛と拍手をもらえた。間違いなくその頃が一番幸せだった。そんな風にわかるようになるのは、いつだって、全てが思い出になってからだ。
 
 ある日、他の劇団からきみは唐突に声をかけられる。ずいぶん名の知れた大きな劇団だ、一体どうして?きみは内心胸を高鳴らせていた。
 それはいわゆるスカウトだった。けれど引き抜き等の類ではない。いまきみが在籍中の劇団を潰すためスパイになってほしいと、きみは声をかけられたのだ。成功した暁には必ず、我が劇団で主演を演じてくれと言われた。きみには間違いなく才能があると。
 舞い上がった。辺り一面に花が咲いた。当時高校生だったきみの耳にはもう届かない。それは決してスターになる才能という意味じゃない。スターになる為ならなんでもできる才能、という意味だったんだ。
 いつか大きな舞台で喝采を浴びてみたかったきみは迷って、だけど自分の夢を叶えることを選択した。

 自分の手を汚すことは拍子抜けするくらい簡単だった。良心を捨てるだけでいい。とある小さな劇団の一劇団員だったきみは、いつものように仲間と芝居の鍛錬をしながら、笑いながら、汗をかきながら、自分の良心だけを上手に殺した。
 匿名の脅迫状や脅迫電話を繰り返して、劇団の内側から不安を煽った。でもうまくはいかない。きみが差し出した障害物に尚更皆は一致団結して、円陣の中にきみを入れたまま、一丸となって本公演に向け魂を燃やした。
 潰さなきゃ意味がない。でも捨てたはずの良心が今更顔を覗かせてくる。みんなが自分に笑いかける。誰一人自分を疑わない。
 きみには退路がなかった。何十通と手作りの脅迫状を送ったのに、心を殺して脅迫電話をかけたのに、小道具も隠してやったのに、衣装だってズタズタに切り裂いてやったのに。それでも誰一人匙を投げ出そうとしてくれない。きみは誰にも疑われることのないまま、一人ぼっちのまま、負けたのだ。
 きみのしたことは全てバレた。きみの部屋から作りかけの脅迫状と、脅迫電話の時に使うカンペが見つかった。

 取り囲んだのは二十名にも満たない劇団員たちだ。だけどきみは、何千人もの前で処刑される罪人のような気持ちだったんだろう。
 土下座した。皆が見ている前で額を床に擦り付け、涙と鼻水を垂らしながら謝罪の言葉を延々と繰り返した。きみを見下ろす何人かはきみと同じように泣いていたと言う。裏切られたと誰かが言って、聞きたくないとまた別の誰かが言って、信じられないと、しゃくりあげて泣く誰かだっていた。
 きみは肩に優しく手を置かれて、もういいよと震える声で言われた。許されたわけではない。それは、出ていってくれという宣告だった。

 それから、たいちは行く宛を失った。スパイを持ちかけてきた劇団にだって行けるはずがない。恨み言を唱えに行く元気も、そもそも資格だってありはしない。
 劇団の寮に住んでいたことも不運のうちの一つだった。早速今日から寝泊まりする場所がないのだ。ホームレスという文字が、その時たいちの頭を横切ったと言う。
 実家は電車を乗り継げば帰れる距離にあったが、けれど帰る為に必要な、下げるツラがない。なぜなら役者になると言って家を出た自分のことを、最初から家族の誰も応援してくれてはいなかったから。半ば勘当のように家を出たたいちに「おかえり」と言ってくれる者はいないのだ。

 何一つ手に入れることのないまま、たいちはボロボロになった良心と使用期限の過ぎた夢をカバンに詰めて、忘れるための生活を送ろうと決めた。貯金が尽きるまでその日暮らしを続けた。高校は行かないまま自主退学という形になった。進学する気なんてそもそもなかったのだから、もうどうだっていい。
 ぼんやり眠ると決まって悪夢を見てしまう。それが怖くて、逃げられるものをいつも必死で探した。自分には何かなかったか。何か一つで良い。人並みに、そこそこで良いんだ、趣味や特技がなかったか。
 雑踏の向こうから路上ミュージシャンの歌声が、その時たまたま聞こえた。…ああ、そういや。あれでいいか、もう。



「…どうッスか、最悪過ぎて引いたでしょ」
長い間伏せていた目をようやく元に戻して、たいちは何事もなかったかのように笑った。
 驚きはしたが、でもそれと同じだけ納得もできる。芝居をするたいちの姿はなんとなく想像に難くないし、それになにより、きみの目の色をこれでやっと的確な言葉で言い表せられる気がした。夢を挫折した者の目をしているんだと…いや、そんなこともちろんきみには言えないが。
「…引いてないよ」
たいちが指を解こうとするから、俺は追いかけるように指先に力を込める。上体を起こしてその目を見つめる。きみを許さなかった人々のことを思い浮かべながら、きみの目を見る。
「あは。まだ繋いでてくれるんだ。やっさしい」
「……」
必死に茶化すから、もっと強く手を握った。
「……その、俺がいた劇団さ」
「うん?」
「今は超有名になってんスよ。全国も回ってるし、演劇系の雑誌にも特集組まれたりしててさ」
「…そうか」
笑って「良かったよね、ホント」と言うたいちの笑顔の奥に、何もない訳がない。ないんだよ、分かるさそれくらい。

 辛かったな。忘れたくても忘れられないよな。許されなくて、ひとりぼっちになってしまって、きっと長いこと途方に暮れたよな。
「悔しかったな」
俺の口からこぼれ出た言葉に一瞬だけ動揺してみせたが、すぐにまた笑顔に戻って、たいちは軽く笑い飛ばした。
「あはは、さすがにそれ俺が言ったらあたおか」
「うん、でも悔しいな」
「…やー…はは…」
「たいちもそこにいたかったよな。…悔しいよな」
「……」
 お前の過去に何一つ関与してない、無関係な奴の、無責任な相槌だよ。何を言ってるんだ正気かと、石を投げたい誰かがいるなら俺に投げてくればいい。
 いくらでも受けるよ。いいんだ、だって俺はクズだから。気にしなくていいよたいち。正論のサンドバッグに俺がなるから、お前はどうしようもない本音をこぼせばいい。
 …許してもらえなかった人間が自分以外にいるなんて、そんなのは、まっぴらごめんだ。

「………」
繋がれた手から一切の力が抜ける。たいちは唇を精一杯噛み締めて、なのに笑おうとするからだろう、すごく変な顔をした。
「………もうちょっとだけ、やりたかったかな…お芝居」
「うん」
「もうちょっと…ホントにもうちょっとだけさ…みんなと一緒にいたかったかもなぁ…」
「うん」
俯いて、空いてる方の手でピースサインに使う二本の指を開閉しながら「ここ、カットね」と冗談を言う。だから俺も一緒になって「カット機能ないんだごめんな」と冗談を言った。
「……っ…あは、永久御蔵入りッスよこれ…」

 俺は何も知らない。一切を知る由もない。だからお前の震える肩だけがさ、たいち。俺の知ってる全てだよ。
 許されたかったよな。許してほしいなんて言わない。言うつもりもない。だけど許されてみたかったんだ。許された先に今とは違う未来があったかもしれないんだ。悔しいよな。悔しくていいよ当たり前だ。そう思ってしまうことくらい、世界のどこにも響きはしない人間一人ぶんのみっともない感情くらい、存在することを許してほしい。
 それすら許してもらえないなら、そんな世界は、クソ喰らえだよ。
「…こ…あは、こ、困るよ…」
「…うん?」
「おみクン…優し過ぎだよ…」
「……」
優しさって、一体なんだろうな。相手の望んでいる言葉を並べて、震える肩を抱いて、ずっとそばに寄り添ってやることを言うのだろうか。
 もしそれが本当に優しさなのだとしたら俺はたいちの言う通り、よほど優しい奴なんだろう。でもなたいち。俺は、俺をそんな風にはこれっぽっちも思わない。
 優しさとは、きっと決して優しくはない人間の、憧れから作り出された偶像だ。これが優しさだろうと狙って撃ち放たれた散弾だ。予測で導き出された計算式の、イコールの右側だ。
 本当の優しさとは、形なんかない。本当に優しい人が狙いも計算もなく自然にやってのける偶然の上にしか存在しない。それを優しさだと自覚していない人の中からしか、生まれないんだ。

「…ありがとう。よく言われるよ」
繋がれた手を軽く持ち上げてゆらゆらと揺らした。たとえ偽物でもお前の心が今少しでも軽くなるんなら、まかせてくれ。いくらでも贈るよ。
「…らぁらー…ららぁーらー、らんらんらぁー」
「……」
口から出まかせのメロディーをこぼしてみた。思いつくままやるものだから、たまにつっかえたり音程がグラグラ揺れたりする。とてもじゃないが音楽とは呼べないそれを、たいちはそっと笑ってくれた。
「…ふふ。それなに?」
「ん?たいちとの出会いを祝して即興でいま作ったんだ。すごいだろ」
「あはは、うんすごい、天才」
「そうなんだよ天才なんだ。困っちゃうよな」
「あはは」
あの時、多くを聞かずにただ、歌ってくれただろ。笑ってくれただろ。適当な冗談を並べてさ、お疲れ様って。俺に言ってくれただろ。
 それを優しさって言うんだ。振り返った時にやっと初めて気づく、まるで霧みたいな、形のないそういうものこそをきっと、優しさって言うんだ。
 見よう見まねの偽物しか返せない。ごめんな。少しだけ悔しいよ。お前には本物を返してやりたかった。
 …こんなことを思うのは、そういえば生まれて初めてかもしれないな。たいち。

 壁に背をくっつけて膝の間に顔を隠すたいちと、その夜はずっと、手を繋いでいた。









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