雨と炭酸水 1




「あっ…ぢいぃ…俺…死ぬ…」

 だらしなく舌を垂らし、ダイニングテーブルの上で大の字になっているのはチョッパーだった。
もう朝からずっとこの調子だ。
俺はうちわをチョッパーの為仰ぎながら自分の汗を拭った。

 外は昨日の深夜からずっと大雨だ。
そのタイミングに合わせるようにして、船は夏島の海域に入っちまった。
部屋のいたる所からキノコが生えてくるんじゃねえかと心配になる程、湿気が凄まじい。不快度指数は100パーセントを越え今も尚そのパーセンテージを更新中である。

「こらチョッパー。レディの前でそんなだらしねえ格好してんじゃねえ」
サンジが氷をアイスピックで割りながらチョッパーをたしなめた。

「…サンジ俺…体中が…蒸し風呂みたいで…死ぬ…」
毛皮を脱げないチョッパーにとってこの気候は地獄だ。いざとなれば裸になって水でも浴びられる俺達とは違う。可哀想になあ。
何の力にもなってやれない代わりにと言っちゃなんだが、せめてもの気持ちで俺はうちわを仰ぎ続ける。…焼け石に水状態だろうが。

「チョッパーあんた、その毛刈る?やってあげてもいいわよ」
ナミは反対側のイスに座り、氷でキンキンに冷やされた炭酸水を飲みながら言った。旨そうだなあ。
俺にも早く作れ、とまでは言わないけど、せめてサンジよ、一番にチョッパーにやってやれよ。

「…ナミ…なに?…」
いかんチョッパーの意識が朦朧としている。
「8000ベリーで手を打つわ」
ナミは気にも留めず悪戯な表情で笑った。金の亡者は季節関係なく元気である。

 この雨だというのに、キッチン不在の二名は甲板に出ているようだった。
ゾロはトレーニングだろうし、ルフィは大方、視界も悪いだろうに構わずメリーに跨って海を見てるんだろう。
キッチンで湿気に耐えるより雨に打たれてる方がマシかなあ。微妙なラインだ。

「チョッパーお前、水風呂浴びてこい。汗かきすぎだ」
サンジは出来たての炭酸水をチョッパーに飲ませながら、珍しく心配そうに言った。

「う、うまい…なんだこれ…死ぬ…」
「ほら運んでやるから。しっかりしろ青っ鼻」
サンジはチョッパーを肩に乗せて立ち上がった。
洗面所へ続く扉を閉める前に「長っ鼻、そこにお前のあるからな」とだけ言って、その扉を閉めた。
「お、あ、ありがとう!」
サンジが顎を向けた先には、カランと涼しそうな音を立てる炭酸水が置いてあった。
サンジだって暑くて堪らないだろうに、いつだって自分への給仕は後回しだよなあ。

 炭酸水を喉に通すと、目が覚めるような冷たさが体を抜けていった。
今なら俺はこれをバケツいっぱいにしても飲めるぞ。

「っぷはあ!うっめえ」
一気にグラスの半分まで減らしてしまった。
ここからはもうちょっと大切に飲もうと思っていたら、ナミが「ねえ」と言った。

「なんか変よねえ、最近」
「…なにが」

直感で、聞かれたくない事を聞かれる気がした。
そして何を隠そう俺のこういう悪い予感は、物凄い確率で当たりやがる。

「サンジ君の前だとあんた、途端にしおらしくなるじゃない」
ほうらやっぱりな!

「でもサンジ君がそれを強制してる感じもしないし…何かあったの?」
ありましたとも、たくさんの事がありましたとも。
何一つとして言えるわけないので、心の中でだけ俺は頷いた。
「うむ、何かあると言えばあるし、何もないと言えばその通りだ。事実というのは常にいくつかの可能性と複数の答えを併せ持つもんだからな」
ナミはつまらなさそうに「ふうん」とだけ言った。
炭酸水を飲み終えたらしく、空になったグラスをシンクに置いてから「まあ何でもいいけど」と付け加えた。

「うちわ貰うわね。日誌書いてくるから」
背後からナミにうちわを奪われてしまった。
本当にどいつもこいつも自由勝手なもんだ。まあいいけどさあ。何か、もうちょっとさあ…。

「俺の気持ちも考えろっていうか…」
ナミが女部屋へ行くのを見届けてから、一人残されたキッチンで呟いた。
うだるような暑さに負けて力なくテーブルの上、つっぷをする。

 考えなきゃいけない事、突き止めなきゃいけない事は沢山ある。
俺がそれを放棄してしまってはいけないんだという事も、ちゃんと分かっている。
でも脳みそをどれだけ回転させても見えてこない事ばっかりだ。俺は元々、この手の話は苦手なのである。

 何でサンジを見てると、意味もなくどきどきするんだろう。
 いつから、ゾロを好きだって事忘れてたんだろう。



 夜になっても雨がやむ事はなかった。ハンモックの上で横たわっているだけで汗が滲む。
外から聞こえてくる雨粒の音が一層激しくなるので、明日もやみそうにないなあと溜息が漏れた。

「…暑くて眠れねえ…」
音を立てぬようハンモックから降りた。

 昼、重症だったチョッパーが心配になり目をやると、サンジ特性の氷袋を体の周りに数十個並べ、それに包まれるようにして眠っている。
なる程あれならだいぶマシだろうな。…氷が汗をかいて垂れた水滴が、尋常じゃないほどハンモックの下を濡らしているけど。
明日の朝、ルフィ辺りにしょんべん 漏らしたとかからかわれないといいなあ。

 ルフィの怪獣のようないびきを潜り抜け、天板へ続くはしごへ足をかけた。
天板を僅かに開けると、途端に雨が吹き漏れてきた。なるべく男部屋を濡らすことなく、いつもの半分の隙間で開閉を済ませた。

 空はまるでバケツをひっくり返したみたいに雨をたたきつけてくる。視界もすこぶる悪いし、雨粒がでかすぎて痛いくらいだ。
確か今夜の見張りはゾロだったかな。うーん可哀想に。

「ゾロー!頑張れよー!」
甲板からマストの頂上に向かって叫ぶと、頭上からは「おお」という声が、雨粒に邪魔されながらも僅かに聞こえた。

「眠れねえのか?」
マストから顔を出したゾロに尋ねられる。
ゾロは半透明のカッパを身にまとっていた。この大雨じゃあんまり意味無いような気もするけど。

「暑いから、水風呂でも浴びようと思ってよ!何か差し入れいるかー?」
「酒!」
年がら年中同じ事しか言わないゾロに苦笑してしまった。
ようしこんな夜に当番になってしまった可哀想なアイツを、心優しき俺様がちょっとばかりねぎらってやろう。
酒の一本くらい、サンジも見逃してくれるよな。

「じゃ待ってろ!今とってきてやる!」
「おおわりいな!」

 グラスいっぱいに氷をいれて、キンキンに冷えた酒を渡してやりたいところだけど、この雨じゃ運んでる間に酒じゃなくて雨水になっちゃうからなあ。仕方ないけど瓶のままでいいか。

 キッチンの扉を開けて、暗闇の中電球を探し当てくるりと回す。
何回か点滅した後、キッチン全体が明かりで灯された。

「!!」
無人だと思い込んでいた俺はその光景に心臓が止まるかと思った。
ドアを背に後ずさりをしたら「ガン!」とでかい音がしたので、その音に「ひい」と叫んでしまった。
慌てて自分の口元を手で覆う。

 ダイニングテーブルでつっぷしながら眠るサンジが、そこにいた。

「な…何でこいつ、ここで寝てんだよ…」
明かりや物音に起きてこないところを見ると、結構な熟睡なんだろう。
決して寝やすい環境じゃないと思うんだけど。

 そっと顔を覗きこむと、顔の下に何か紙が敷かれていた。
大体はサンジの腕で見えなかったけど、紙の端に書かれた食材の走り書きで、それが何かのレシピだという事が分かる。

 レシピ考えてる途中で寝ちまったのかなあ。でも電気消えてるし。
まさか男部屋までの移動が面倒で、わざわざ消してからここで寝てたのか?

「マメなのかズボラなのか…」
変な奴だなと思った。規則正しい寝息を聞いてると、何だか笑えてくる。

 起こしてやろうか、それとも声をかけずにここから離れるか…。
考えながら隣に座る。電球に照らされたサンジの髪は、まあいつ見ても思うんだけど、相変わらず綺麗で、見ていて楽しい。
色で表現しようとしたら、時間かかるだろうなあ。絵描き泣かせの難しい髪色だ。

「…」

 寝ていてくれれば、こうやって傍にいられるのに。
起きてる時のこいつは何かと心臓に悪すぎる。
充電だの好きだの、言われる度に俺がいつもどんだけ驚いて慌ててしまうのか、分かってんのかなあ。

「サンジ、お前はな、勝手だ」
普段は言えない文句を、気持ち良さそうに眠るサンジに垂れてやった。

「お前ときたら、俺を困らせてばっかりでよ。お陰でナミに勘付かれたぞ。どうしてくれんだ」
それはお前のせいだろ、と真っ先につっこまれそうな内容だけど、寝ているから言い返す事もできないだろう。
そうだよたまには、黙って俺の意見を聞く姿勢くらい見せたっていい筈だぜ、このラブコックが。

「…思う存分、人の頭ん中引っ掻き回しやがって」
 変なの。どうして俺、文句言いながら笑ってるんだろう。
迷惑してる筈なのにどうして、いやな気持ちにならないのかな。
それどころか…なんつうのかなあ、可愛いっちゅうかくすぐったいっちゅうか…うーん。

 憎めないこいつがやっぱり憎たらしくて、そっと頭を撫でてやった。
 柔らかい髪だなあ。ああ内側、暑さのせいで汗かいてやがる。何か拭くものなかったっけか…。

 タオルでもないかと辺りを見渡していると、その瞬間「てめえ」とドスのきいた低い声が隣から聞こえてきた。

「!!!???」

 椅子から転げ落ちそうになる程驚いて、慌てて手を引っ込めようとするが、俺の手首はサンジの手によりがっしりと掴まれてしまった。

「なっ、おっ、いっ…」
なんだよお前いつの間に起きてたんだ、という旨を伝えたいんだが、まあ予想通りつっかえまくって微塵も伝わらない。
おかしいなあ俺の口はいつもなら、サラサラと小川のように淀みなく流れ動くはずなのに。

「…クソ天然タラシ野郎。なめてんのかオロすぞ」
何かよく分からないけど物騒な事を言ってらっしゃる。こ、怖いのでどうか、青筋を消すか手を離すかしてください。
「どういうつもりだてめえ。解答次第ではマジでオロす」
「ど、どういうって、どういう…」
「仮にもてめえに惚れてるって相手に、んな表情で触りやがって…何されても文句言えねえぞウソップ」
サンジが一層手に力を込めるので思わず顔が歪む。「いたい!いたいから!」と抗議をするが、全く相手にしてもらえない。
 青筋は余計に深い影を落としていく一方なので、もう俺は恐怖で腰が抜ける寸前だった。

「いい加減腹立つ。なめてんじゃねえぞ」
空いていたほうの手もいつの間にかしっかりと握られて、いよいよ俺は身動き一つ取るのも難しくなってしまった。
 な、何で?何でこいつ、こんな、急に激怒してるわけ?誰からも返ってこない答えに、思わず涙目になる。

「お…お前だって!勝手に触ってくるじゃねえか!!」
「俺ぁいいんだよ理由があるんだから!!でもてめえには理由なんてねえだろうが!!」
「…な!」
サンジの言い分に俺も僅かながらにむかっときた。
それってよお、あんまりにも勝手なんじゃねえの?

「なんだよ!理由ないと触っちゃいけねえのかよ!!!」

 ひとしきりでかい声で叫ぶと、サンジは一瞬目を見開いて黙った。
返す言葉を探して、眉間に皺を寄せながら口元をモゴモゴと動かしている。

 …で、だ。こっからが問題だった。
 いや何がって、俺はつまり自分の発した言葉が、とんでもなくおかしいものだと気付いてしまったからだ。

 理由なくても、俺…サンジに触りたいって、事?

 俺ははっきり思い出した。この感情は前にもどこかで、出会った事がある。
 手を伸ばせば届く距離にそれはあって、なんとか誰にも気付かれないように、俺はそれに触れてみる。
微かに指先に伝わるその感触を、俺は宝物のように自分の中の箱に大切に収める。誰にも知られず、ひっそりと幸福を得る。
それだけでいい、このままでいいんだと、自分にいつも言い聞かせて。

 …それは昔、俺がまだ、ゾロを好きだった時に感じていた気持ちと、瓜二つだった。

「…」

 言葉を失った。俺は気付いてしまった。俺の「核心」って、これだったんだ。どうしよう。どうしようサンジ。

「…そこで赤くなんのかよ…クソたち悪ぃな…」
 両手を掴んだまま、サンジは乱暴に俺の体を自分の元へ引き寄せた。
香水と汗が混じった匂いが鼻先を掠めて、本当こんなの恥ずかしくてたまんねえんだけど…どうしようもなくどきどきした。

「お前が、今…死に物狂いで逃げ出さねえんなら、キスする」
目の前5センチの距離にサンジの顔がある。
俺の鼻が邪魔してくれそうなもんだけど、サンジはうまい事首を傾げて鼻に当たる事なく俺との距離をつめた。
もうここで活躍しなくてどうするんだよ俺の鼻の大バカヤロウ!

 いつの間にか眉間の皺も青筋もなくて、その青い目は俺をじっと見つめていた。
 懇願するような表情に、逃げてほしいのかほしくないのか分からなくなる。
分かんない。なんも分かんないよ。どうしよう俺。こんなの思った事ないのに。
サンジ、お前ってさあ…こんな、格好良い顔してたっけ。

「……」
息がかかるのが分かる程、サンジの顔が近くなる。
引き寄せられた俺の体は少しも動こうとしない。それがわざとかもしれないと、薄々感づいてる自分が頭のどこかにいた。
ああ、俺、待ってんのかなあ。キスされるの。

 卑怯だって分かっているのに、俺は固く目を閉じた。もう顛末は全部人任せだ。
だってどうしようもない。強く掴まれた両腕にさえほんの少し、でも確かに、嬉しさを感じてる。

「…クソったれ」
耳元で呟かれたサンジの声は、今にも泣き出しそうだった。
次の瞬間両腕は開放され、あんなに近かったサンジの顔が、元通りの距離まで離れていた。

「行けよ」
「…」
「行けって!!」
サンジに殴られたテーブルが、一際大きな音を立てた。
俺の体はその音を合図にやっと動き出す意志を持つ。

「ご、ごめん、なさい」
椅子の足に自分の右足が引っかかったが、振り切ってキッチンを飛び出した。
「行け」と叫んだサンジの、その後の表情を確認する事も出来ないまま、俺は扉を急いで閉めた。
 心臓がまだ、こんな速さで脈を打っている。苦しい。息が上手く出来ない。

 扉の閉まる音に気付いたのか、マストの上から「ウソップー」というゾロの呑気な声が聞こえた。
バカヤロウ今それどころじゃねえよ。

 ゾロの呼びかけをシカトして土砂降りの甲板を大股で進んだ。
天板を乱暴に開けるのと同時に再度頭上から「酒はー!?」というマヌケな声が聞こえてくる。
俺は全ての力を振り絞って「おやすみ!!!」とだけ叫んだ。
その後まだ何か言っているゾロの声が聞こえたが、もう知らん。それに耳を貸す余裕は、今の俺には断じてない。

 天板を閉めきり、誰かを起こしてしまうかもという気遣いも忘れて、俺はドサリと大きな音を立ててハンモックに身を預けた。
 外から聞こえる雨の音が、しきりに俺の頭の中に降り積もっていく。
目を瞑ったところでさっきまでの場面が連続再生されるだけだ、眠れるわけがない。

 雨でびしょ濡れになった全身をそのままにして、俺は「どうしよう」と一人ごちた。
 明日からどんな顔で、あいつと会えばいいんだろう。


 だっていよいよ俺は、自分の気持ちに、気付いた。…いや、気付いてしまったんだ。





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