「山崎さん、もうそろそろ閉店しなくては…」 「…うん。ごめんなさい。ありがとうございました」
喫茶店の主人の申し訳なさそうな顔に苦笑する。真夜中まで居座っていたのだから、もっと迷惑がられても不思議ではないのに。 もう何杯目になるか分からない珈琲を飲み干して、席を立つ。美味しいものを飲んだのに、気持ちは沈んでいた。
「土方くん、来ませんでしたね」
俺がそう言うと、主人のおじいさんは「ひどいやつです」と笑った。つられて、少しだけ口角をあげる。
「仕事中毒者ですからね、あの子。しょうがないですよ。今日は、美味しい珈琲をたくさん飲めましたし」
それでも、今日は会いたかったのに。 喉元まで競り上がる恨み言は、胸中にしまった。
***
喫茶店をあとにして、繁華街を歩いて帰る。ケータイを開き、メールを問い合わせてみたものの、一件も入っていなかった。
「最悪だ」
一言吐き捨てて、ケータイをしまう。最後にきたメールは、もう見たくなかった。 でも、しっかり覚えている。約束から一時間あとに、『わりい』とだけ書かれていた。 それが、約束を反故にするものだとすぐ分かった。分かっていたのに、待っていた自分に腹が立つ。
「……疲れたな」
歩くのをやめて、近くにあったベンチに腰かける。ボンヤリと、足早に目の前を通り過ぎていく人を見送った。
土方くんと、もう随分会っていなかった。同じ家に住んでいるのに、朝しか一緒にいないような生活。自分は教員で、相手はビジネスマン。リズムが違う。お互いに大人で、仕事が大切だ。俺だって、何かあったら、仕事を優先するだろう。 でも、今日だけは都合を付けてほしかったというのは、わがままだろうか。
―――あの喫茶店で土方くんに告白されてから、7年が経つ。 毎年、この日だけは、何があっても一緒に過ごしていたのに。それすらも、なくなってしまう。
こうやって、少しずつ離れていってしまうのかもしれない。そう思うと、未来が怖かった。昔は、楽しいことばかりが思いついたが、今は別れてしまう予感ばかりがする。
いつの間に、こんなにあの子が大切になったのか、分からない。けれども、もう彼なしでは生きていけなかった。 7年前は、彼の火遊びに付き合ってあげるだけのつもりだったのに、いつの間にか、こんなにも愛しい。 でも、さすがに三十代を半分も過ぎた身としては、想うことに疲れてしまう。
もう一度、ケータイを開いて、メールの新規作成画面を立ち上げた。宛名は、想い人だ。
『喫茶店を出ました。 待ってあげられなくてすいません。 お仕事、お疲れ様です。 おやすみなさい』
それだけ打って、見返すことなく、送信した。送信中を知らせる画面に切り替わったところで、ケータイを閉じた。 口には、まだ珈琲のほろ苦い味が残っていた。
***
それから、当てもなく、フラフラと町を歩いた。家には帰りたくなかった。一人でいることを思い知らされるような気がしたから。町にいれば、自分以外にも人がいる。そこで、初めて夜中に町をうろうろする高校生の気持ちを初めて理解した。頭でわかっているつもりでも、実際に経験するのとは、また随分と違った。 そのうち、雨が降りだして、自分の身体を濡らし始めた。傘を買うのが億劫で、そのまま濡れ鼠になる。さすがに、寒い。
「山崎っ!!」
ふいに、名前を呼ばれて、振り返る。すると、そこには、びしょ濡れの土方くんが立っていた。
「土方くん…」
スーツと、お気に入りだと言っていたビジネスバッグがぐっしょり濡れていた。どうして。疑問を口に出す前に、答えが返ってくる。
「さっき、メール見てよ……家、帰ったらいねえし。昨日、一緒にいられなかったから、急に不安になっちまってよ」
探した、と漏らす声が泣いていて、思わず、安心した。 往来なのに、我慢ができなくて抱きつく。服が肌につく感触が気持ち悪かったけど、それ以上に抱き締めた心地よさが勝った。
「一人で待ってるの、淋しかったです」 「わりい」 「明日、ずっと一緒にいてくれたら許してあげます」 「俺をなんだと思ってんだ。ちゃんと休みもぎ取ったに決まってんだろ」 「最高」
「あのメール見て、お前が消えちまうかと思った。一人でいるんじゃねえよ、ばか」 「一人にさせたのは誰ですか」 「……俺だったな。ごめん」 「分かっているならいいです」
いいから、離れないで。 そう付け加えると、「今日は離してやらねえ」と額にキスをおとされた。 いつの間にか、雨はあがっていた。
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