呪術 | ナノ




 ――学校、行きたくない。
 ゴロゴロと遠くで鳴る雷に起こされ眠気が吹っ飛んだ午前6時前。私は自室の天井を眺めながらこの憂鬱な気分をどうにか出来ないか、方法を模索していた。外では雨が派手に降り春の空気を冬の様に冷たくしている。ザァザァと部屋に響く音が余計に暗い気持ちを助長させている感じがして、逃れようと身体を丸めて布団を頭まですっぽりと被り目を瞑ってみた。それでも、冷えた手足がすぐに温かくならない様に、昨日より心に残る罪悪感が薄まることはない。こんなことで逃げられるのなら苦労なんてしないよ。私の心の奥底がそう嘲笑う。
 冷えた手を固く握り、ではどうすればこの気持ちは晴れるのだろうかと自問してみる。目を閉じれば乙骨先輩の悲しそうな顔が鮮明に浮かび、途端に心臓が縮む様に痛む。記憶喪失の同級生と再会して喜んでいた彼にあんな失礼なことを言ってしまっただけでなく、謝罪も出来ずに黙り込んだのはどう考えても得策ではなかった。そんな後悔が頭の中を駆け巡っていく。今からでも謝るべきだと思った。しかし、昨日の今日でどんな顔をして会えと言うのか。記憶が無いからと許される問題でもないと分かってはいた。謝れば先輩はきっと良いよと言って笑ってくれるだろう。しかし、それでは意味がないと心が訴える。ならどうするのが最善だと言うのか。でもだってと自問自答を繰り返し布団の中でうじうじしている間にも時間は進み、気が付けばスマホからアラームが鳴る時間となり起きざるを得なくなってしまった。のそのそと芋虫の様に布団から顔を出してアラームを止める。上半身をベッドから離してため息をついて考えた。このことはとりあえず後でなんとかしよう。問題を先送りにして私は憂鬱な気持ちのまま登校の支度を始め、はたと気付く。そういえば、今日は夢を見ていない。

 着替えと朝の支度を終わらせて温かいお茶でも買おうと自販機に行く途中、寮の共有スペースでコーヒーを飲んでいる真希先輩を見つけて私はつい声を掛けた。記憶喪失と判明したあの日からどこか気まずく、任務以外では会話らしい会話も無かった私に声を掛けられて相当に驚いたらしい。飲みかけのコーヒーでむせて咳き込ませてしまった。慌てて走り寄りハンカチを渡しながらごめんなさいと繰り返し謝り、その背中を擦り落ち着くのを待っていると先輩は懐かしそうに私を見て目を細めて笑う。

「記憶が無くても変わらないな、ナマエは」

 首を傾げる私に先輩は前にも同じ様なことがあったのだと言った。自分の記憶にないエピソードを聞くのは中々にむず痒いもので、しかもちょっとした失敗談ともなれば恥ずかしさは倍だ。耳が熱くなるのを感じながら私はへらりと笑ってそうなんですねと話を終わらそうとする。そんな魂胆が見え見えだったのか、先輩はそういうところも本当に変わんねーなと楽しそうに笑われてしまった。その反応に更に体を小さくする反面、記憶を失っていても私という人間は変わっていないみたいでどこか安心してしまう。
 真希先輩はその後もツボに入ったのかしばらく笑ったのち、漸く収まった頃に軽く謝ってから話があるのだろうと訊いてきた。緩んでいた気持ちが引き締まり、少しの沈黙の後に私は迷いながら頷く。彼女は私の言いたいことが分かったのか、頭にぽんと手を置いて気にすんなと慰めてくれる。

「……でも、私、絶対乙骨先輩のこと傷付けました」

 喉の奥にわだかまりが出来ているみたいに、声がうまく出せていない気がした。どうしてか乙骨先輩が悲しい表情をしているのを思い出すと、心臓が早鐘を打ってしまう。彼にあんな顔をさせてはダメなのにと身体に怒られているみたいに。

「そうだとしてもさ、あいつは優しいからもう許してると思うけどな」

 視線を足元に落として呟いた私の懺悔は、彼女が拾い上げてくれた。記憶が無い私よりも今は彼を知っている存在だからか、その屈託のない言葉にどうしても安心してしまう。そして、同時に心のどこかにどろりとしたものが溜まる様な感覚もした。それは幼少期に妹に対してよく感じていたもので、成長してからは長らく生まれなかったのに何故今さらと不思議に思っていた時だった。脳裏で何者かにそっと囁かれ、はっと思考が霧散する。この感情はまだ思い出さなくていいよ。それは確かに、私の声であった。
 何かを思い出しそうで思い出せない感覚にイライラしていると、真希先輩に考えすぎだと昨日の野薔薇みたいに指で眉間をされた。すみません。顔を上げて目を合わせて言うと、彼女は小さく首を振ってお願いがあるんだけどと笑う。

「憂太にはさ、いつもの自分で接してやってよ」

 会えば挨拶して、雑談でも相談でもお願いでもなんでもすればいい。あいつはそれを望んでるはずだと先輩は残り少ない缶コーヒーを揺らしながらそう言った。私は本当にそれでいいのだろうかと思いつつも、とりあえずはいと返事をしてみる。真希先輩はそんな戸惑いも見破ったみたいで、私の頭を撫でながらそれでいいんだよと穏やかに呟いたのだった。

 真希先輩の出来そうで無茶なお願いを叶える瞬間は、自分で思っていたよりも随分と早くやって来ることとなった。頑張れ頼んだぞと残して真希先輩が学校に一足先に向かってしまったので、1人になった私は予定通りにお茶を買って気持ちの消化をしつついつもより少し遅れて寮を出た時のこと。外は起きた時より雨が弱まってはいるものの、相変わらずどんよりと暗く少しだけ寒い。制服の袖を引っ張り手を隠し、ため息をついてそろそろ行くかと覚悟を決め傘を開こうとした瞬間だった。雨の音に交じり誰かが近づいてくる音がして無意識にそちらに顔を向けると、この暗い天気には似合わない白い制服を着た乙骨先輩が居た。昨日見た時と同じ黒いズボンとスニーカーを履いて、肩には重そうな袋を掛けている。その表情は非常に晴れやかで私は予想外の登場にどうすべきか分からず、脳がエラーを起こして傘を開こうとした手が止まった。いつもの自分で接してと、先ほどの真希先輩のお願いが脳内で反芻する。しかし、そうは言われてもこういう時に素の自分を出すなんて難しいにも程があると思う。罪悪感と困惑で緊張しているなんて知らないであろう先輩は、私の前で立ち止まると少しだけ固い声で話しかけてきた。

「おはよう。……ミョウジ、さん」

 朝の挨拶の後に少しの間を開けてから出たのは苗字の方で、慣れていないのか先輩は合ってるよねと確認する様に疑問形でそう呼んだ。正しいはずなのに、何故か心のどこかでその呼び方に慣れていない気がしてしまう。しかし、私はそんな違和感を口に出すことはない。壊れた人形の如くこくこくと何度か上下に頭を動かし、そうであると伝えてみれば先輩にはその動作だけでも理解出来た様でほっと笑顔を浮かべると良かったと胸をなでおろしていた。私は彼の明るい表情に、罪悪感が少しだけ薄れるのを感じた。同時に、昨日のことをちゃんと謝らなければならないと強く思い、意を決してあの、と声を振り絞る。自分が思っていたよりもずっと大きかった声で、はっと我に返り目を伏せた。

「あの、その……」

 乙骨先輩は言葉の先を中々取り出せなくてしどろもどろになる私を、ただ穏やかに待っていた。緊張で冷や汗が流れるのを感じながら、私はゆっくりと頭の中で組み立てた単語を繋げていく。

「昨日は、すみませんでした。私の無神経で先輩のこと、傷付けて」

 本当にごめんなさい。頭を深く下げて謝るとバクバクと激しく心臓が動いてはいたが、気持ちはすっきりと晴れていくのが分かった。口から出る言葉は少しつっかかりながらも、伝えなければと思っていたことは全て伝えられたと思う。昨日から私を悩ませていた罪悪感が、また少しずつ溶けていく気がした。
 頭を上げて先輩を見ると、相変わらず穏やかな表情をしていて私は心が締め付けられる感覚がした。まるで彼のこの表情が好きだったのだと身体が叫んでいるみたいに。無意識に私は堪える様に唇を噛んだ。

「僕は昨日のこと、気にしてなんていないよ」

 僅かに息を大きく吸うと囁く様に、先輩はその気持ちを吐露していく。

「忘れられたのはもちろん悲しいけど、でも良いんだ。思い出しても思い出さなくても、君は君だから」

 この世界に居る限り、生きていてくれるだけが僕の幸せだから。先輩は何かを思い出しているのか、目を細めて私を見ている。きっと、記憶を失う前の私を見ていたのだろうと気付いて、心の奥底にまた何かが溜まっていく。なんでこんな気持ちになるの。無意識にスカートの後ろをぎゅっと握り、私は自分自身でも理解の出来ない感情に困惑していた。笑顔のどこかにかげりを含む先輩を見て思わず目を逸らす。私を見ている様で見ていない慈しみを含む瞳は、私に言い様のない焦りを感じさせるのであった。


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