呪術 | ナノ




 何かを諦めるきっかけなんて、本当に些細なことからだと思う。子どもの頃は諦めなんて知らずに、欲しいものがあれば親に泣きついたりお小遣い貯めて買ったりと努力をして手に入れていた。勉強だってやればやる程出来たし、好きなことだって無限にあると感じていた時間でとことん追い掛けていたはずだ。まだ学校という整備され守られた箱庭で、あの頃の私はただひたすらに人生を謳歌していた。
 しかし、学生という守られた身分を奪われ大人になってからはどうだろう。どんなに嫌で仕事を辞めたくても生きていけないので辞められず、夢があっても時間がないので追い掛けられない。趣味に関しては時間の許す範囲でしか楽しめなくなった。お金という自由は増えても、気持ちと時間的余裕は減少する一方なのだ。小さい頃はあんなに楽しめていたことが、全く楽しくなくなった。散財だけが趣味と言っても過言でないくらい、お金が中心の生活に変わってしまった。
 だから、私はある一定の年齢から諦めを覚えた。何もかも期待するのを止めた。上辺だけの笑みを覚え、お世辞を覚え、自分に降りかかる負担を減らしていった。そうすることで気持ち的には楽になったが、心の中から何かがすっぽりと抜けた感覚が残った。それを埋めることすらも私は諦めた。私は変わってしまったのだ。辛いことからは目を背けて逃げれば良い。嫌なことは切り捨ててしまえばいい。今、自分の時間と心を煩わせる恋人なんて、一番簡単に切り捨ててしまえばいいのだ。自分を変えるのも彼を変えるのも、到底無理なのだから。

 それは本当に偶然だった。いつもの任務の合間時間にたまたま近くにあって入った銀座のカフェ。案内された窓辺の席に座りコーヒーを飲んで通行人を眺めている時に私はそれを見付けてしまった。運が良いのか悪いのか、カフェの向かい側にある有名なブランドショップから大きな荷物を持って出て来た男のことを。休日で行き交う人が多い中でも頭一つ出た白い髪に、黒いサングラスという特徴的な外見をしているのですぐに気が付いてしまった。しかも荷物を持つ手の反対側にはメイクもヘアセットもばっちりな綺麗な女の子がご丁寧にくっついていて、誰がどう見ても恋人同士の距離。ここ最近のデートでさえもあんなに気合の入った私服で出掛けた記憶なんてないのに、この時の彼は洗練された高そうな服で身を包み女の子にサングラスの向こうでこの上ない笑顔を向けていた。最早自分が付き合っていたあいつは、実は幻覚だったのかと思ってしまうくらいに甘ったるい。いや、待て。あれはもしかしたら任務かもしれない。疑う脳みそを止めて、早急に学長に五条って今日任務でしたっけとチャットすると、深夜から1件だと返事が来る。あーはいはい、そうですか。気持ちが白けていくのが分かった。
 あんな笑顔、私が見たのっていつだっけ。降り掛かってきた現実に思っていたよりも動揺しなかった私は頬杖をついて彼らを眺めながらそんなことを考えた。先月のあの時は会ってセックスしただけだし、あ、その前もそうだ。おや? と不穏な空気が流れる。じゃあ先週に会った時はと考えて、私は気付いた。そういえばあの男と会ってやることはセックスだけだったと。お洒落してデートなんて1年以上してないし、そもそも会話でさえも業務的なこと以外交わしていないじゃないか。
 お互い特級呪術師で忙しい毎日を送っているからか、そうなるのは必然だったと思う。甘えるのは苦手だしわがままも出来れば言いたくない性分だからか、この時私は思ったのだ。奴の浮気も仕方がないかなと。私だって男の立場になればつい魔が差すこともあるだろう。いや、絶対にしないけども。それはさておき、自分の目で見てしまった恋人の不貞行為を見なかったことに出来る程私も優しい人間ではない。

「そろそろ潮時かな」

 身体を屈ませて女の子の耳元で何かを囁いてからタクシーに乗り込む2人を見て、私は自分自身に言い聞かせる様に呟いた。高専2年生の時から約10年続いた関係を、ついに諦める日が来てしまったのだからこうして感傷的になるのも無理はないだろう。無意識にタクシーが走って行った方に向けていた目をスマホに向け、先日夜蛾学長から届いたメールを確認する。海外拠点への異動依頼と書かれたそれには具体的な期間と仕事内容が詳しく書かれていて、私は改めてちゃんと読み始めた。流石に長時間物理的に離れる大きな決断なので長年の友人兼恋人でもある悟に相談せず決めるのはまずいだろうと返事を保留にしていたのだが、こうなってしまえばもう断る理由なんてない。きっと彼には学長からすぐ連絡が行くだろうから、私からの連絡など必要ないはずだ。しかし、別れの意志くらいはちゃんと示しておいた方が良いのだろうか。文字を打つ手を止めて少し悩み、アプリを閉じた。出発する直前でも遅くはないだろうと決め付けて、カフェの伝票を持ち席を立つ。明日からしばらく忙しくなりそうだと軽く背伸びをして荷物を持った。

 その後、私の海外異動の話はトントン拍子に進み、1か月も経たない内に私は羽田空港の国際線で手続きをしていた。ガヤガヤと賑やかなロビーで発行されたばかりのチケットに目を落とす。出発は15:23分の便。学長にビジネスクラスが良いとわがままを言ってみたらその通りになったので今の私はとても機嫌が良い。機内で案内された席に座り周りを見ると、平日のこの時間帯だからかぽつぽつと座っているのは高そうなスーツを着たサラリーマンだけだった。到着までは半日くらいかかるので、シートを倒して寝てしまおうかなと考えてすぐに重要なことを思い出す。そういえば悟に連絡していなかった。
 学長から私の異動については連絡が行っているだろうに、いつまで経っても彼からの連絡は相変わらず業務的なものだけ。先週会った時も今までと態度は特に変わらなかった。ああ、でも香水の趣味は変わってしまったらしい。私の嫌いなムスクの香りを漂わせていた。新しい恋人が出来たから古い恋人なんて気になってないのかと僅かに残念な気持ちになったのは言うまでもない。これで万が一行かないでくれなんて引き止められたら、浮気を許してもいいかなと心も少しは揺れただろうに。まぁ、結局彼は長年付き合ってきた私よりもあの女の子を選んだのだ。諦めるには十分すぎる理由だろう。
 スマホを取り出しメッセージアプリを開くと、私は簡潔に別れましょうと打ちついでに荷物は全部処分してくださいと追加して送る。今日は休みだと聞いていたのに既読は付かないので何をしているのか見当が付いてしまう。改めて画面を見て、私はなんだか寂しい気持ちになった。しかし、それと同時にたったの2行の文章を打って送っただけなのに何故か言い知れない達成感が湧いてくる。終わった、やっと終わってしまった。この数分間で無意識に強張らせていた身体に気付き背を伸ばし軽くほぐす。シートに背中を預けるとスマホはしばらく見なくて良いかと思い、私は電源を落として眠りについた。


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