呪術 | ナノ




 日にちを跨いで午前0時10分になったことを、私は眩しく光るスマホで確認してため息をついた。今日は早朝からついさっきまで、ずっと山梨で任務に追われていた。文字通り南から北に向かって虱潰しにだ。1日の食事は栄養補助食品で空腹を誤魔化しつつカロリーのみを摂取して、飲み物に至っては500mlの水1本だけ。夕方に同じものを食べた時は味気なくて涙が出てきそうだった。夜中と言っても差し支えない午後11時半にやっと最後の任務を遂行させ、補助監督が運転する車に倒れる様に乗り込む。皮のシートに頬をべったりとくっつけ、夜景なんて見向きもせずに天井を仰いで考えた。
 ――疲れた。
 もう声に出すのさえ億劫なくらいに心身共に疲れ果てていた。空腹だったはずのお腹も、それを通り越して満腹になりつつある。着ているスーツだって呪霊の体液で汚れていて一刻も早く着替えたかったのに、こうしてやっと安寧を掴んでみればそれよりももっと欲しいものに気が付いてしまった。ああ、早く柔らかいベッドで眠りたい。1日中、誰にも起こされずに死んだ様に。息を吸ってゆっくりと吐くと、補助監督が鏡越しに私に問うた。学園に寄りますか、と。それを言われて、今日1日で溜まりまくった報告書を出さなければならないことに気が付いてしまう。座席に雑に置かれた鞄からノートPCを取り出し、電源を付ける。青いログイン画面が眩しくて目を細めた。提出予定の書類は合計6個。東京に着くまでに終わるかなと鉛の様に重たい指を動かしてファイルを開いた。

「――さん」

 身体を揺すられ、薄く目を開ける。ドアを開けて身体を屈ませ、心配そうな表情で補助監督が私を見ているので恐らくもう学園に着いたのだろう。少し寝て僅かながらも体力が回復したのを感じる。まだぼんやりとする頭ですみませんと謝ると、座席に放置されたPCを鞄に放り込み車から降りた。
 山奥にある学校は街灯が少なく、夜になれば外は真っ暗だった。逆に言えば自然が多くて空気が良い。折角の東京なのに田舎臭いと生徒には不評な立地だが、個人的には好ましい場所だと気に入っている。門を潜り建物に入ると、真っ直ぐに休憩所へと向かう。目的は一服ではなく、早急に書類を完成させることだった。
 電灯があるとはいえ薄暗い廊下をひたすら目的地に向かって進んでいく。この時間になると人の気配は感じられなかった。しかし、休憩室には珍しい先客がいたので思わずその人物に話しかける。

「あら、七海」
「……残業ですか」
「そんなところ」

 肩をすくめて答えると、彼は大変そうですねと他人事に呟いた。相変わらずの態度に苦笑して何をしているのかと問うと、彼は貴女と同じですよと目の前に置かれたパソコンに視線を移す。寝不足でテンションの可笑しかった私は、つい出来心でお揃いだねとジョークを飛ばしてみる。七海はちらりと私を見てから聞かなかったことにしたらしい。無視されてしまった。
 相変わらず可愛げのない男だった。だからこそ、そんな所が彼の魅力でもあると思う。私はへらりと笑い振られちゃったとおちゃらけて見せると、缶コーヒーを買うべく自動販売機の前に移動した。コーヒーといえばやっぱり、おじさまのイメージキャラクターのこれでしょ。お金を入れて光る目当てのボタンを押そうとすると、呪霊みたいに横から生えて来た腕が私よりも先に水を押す。ガコンと音を立てて落ちるペットボトルに、私はどういうつもりだと七海を睨んだ。

「もう帰って寝るだけでしょう。コーヒーは止めておいた方がいいですよ」

 身体を屈ませ、取り出した水を私に差し出す。しかし、私はそれを受け取らずにもう一度小銭を自動販売機に入れた。

「報告書を書かなきゃいけないから帰れないわよ」

 右手の親指で後方の椅子に置かれた鞄を指す。納得したのかしていないのか、七海は反応しない。予想通りだったので改めてコーヒーを買おうとすると、今度はレバーを押され小銭が出てしまった。この男、何が何でもコーヒーを買わせない気か。態度だけでなく行動も可愛くない男だと心の中で罵る。当の本人は相変わらず私に水を差し出して受け取るのを待っていた。表情は変わらない。まるで人形の様だと思った。
 これ以上こんなやり取りをしていても仕方がないと悟った私は、諦めてその手から水を受け取った。外気に触れて水滴の付いたそれは手のひらを冷やして脳を覚まそうとしていた。本当に1日中水しか飲んでないな私。キャップを捻りごくごくと抜け落ちた水分を補給すると、服の袖で口元を拭きつつそう思った。飲み物の種類は意外とある高専の販売機だが、生憎食べ物は売っておらず空腹は満たせそうにはなかった。帰りにコンビニに寄って何か買って帰ろうと決意する。
 椅子を引き摺って引っ張りだすと、そこに座って鞄からPCを取り出した。車の中で居眠りをする直前まで、報告書には簡易的に何があったのかを書いていたので、後は清書するだけだったのが幸いか。逆に言うとまた書き直さなければならないのだ。時計を見れば午前2時前。残りの報告書は6枚。始発には帰ることが出来ればいいな。私は仏の気持ちになってそう考えた。

「報告書、どこまで書いたのですか」

 さてやるかと腕を捲って気合を入れた時、七海は隣に座り質問をしてきた。私は箇条書きにあったことだけしか書いてないよと答える。すると彼は私のPCを自分の前まで奪い去ったかと思えば、思いがけない言葉を口にした。

「なら、私が完成させるので貴女はそこで待っていてください」

 素直に驚いた。いくら誰も見ていないとはいえ、そんな気遣いをしてくれるとは思わなかった。こんな優しさに触れたのはいつぶりだろう。感動で涙さえ出てきそうだ。突然のこと過ぎて反応が出来ていない私に構わず、七海はパチパチとパソコンを打ち始めた。迷いのない指裁きで惚れ惚れするくらいに。しかし、後輩にこんなことをさせても良いのだろうかと焦る気持ちも残っていた私は、七海にもやることがあるはずだろうとその手を止めようとしてみる。しかし、彼は動きを止めなかった。

「お疲れでしょう。私は明日休みですのでお気になさらず」

 寝ていただいても良いですよ。彼は画面をじっと見たままそう答えた。この時、初めて私は後輩という存在に感謝をしたと思う。胸の奥がじんわりと温まる気がする。神はこの世に居たのだと、胸の前で両手を組んで感謝した。そして私は彼の終わったら起こしますという言葉に甘え、机に突っ伏した。クッションもない椅子と硬い木の机では快眠できないだろうが、今はそんなことを言ってはいられない。少しでも体力を回復させたい一心で、私はゆっくりと意識を遠ざけた。

 ――次に目を覚ましたのは、心地の良い揺れを感じたからだった。目を開き、ぼんやりと揺れの正体を確認する。視界に入ったのは街灯の光と、白いシャツ、そして暖かさ。
 ――シャツ?
 はっと一瞬で脳内がクリアになっていくとすぐに気が付いた。今私を揺らしているのは、明らかに人間だった。しかも、誰かに背負われている。誰に。七海しかいない。
 目の前に映る金髪とその整髪剤の香りは明らかに七海のものだった。何故背負われているのか分からない私は少しパニックになりながら彼の名前を呼ぶ。彼は私が混乱しているにも関わらず、のんびりと起きましたかと訊いてきた。

「起きたけれども。いや、なんで私はあんた背負われてるの」

 降ろしてほしいと背中を叩くと、七海から暴れない様にと注意されてしまう。降ろす気がないのは分かったので、諦めておんぶを堪能することにした。聴けば、提出する書類はメールで提出してくれたらしい。あまりにもぐっすりと寝ていたので起こせなかったと、七海はゆっくり歩きながら言った。まぁ、さすがに朝から6連続は疲れたかな。生意気な後輩の首に手を回し、逞しくなった肩に額を付ける。あ、化粧ついちゃうかも。くっつけた後に気が付いたが、疲れていたのでクリーニング代渡せばいいかと結論付ける。おんぶなんて学生ぶりかもしれないと、リズムよく揺られながら考えた。
 結局、私が降ろされたのは学園の外に繋がる門を出てからだった。上着と鞄を持たされ、停まっていたタクシーに乗る様言われる。どうやら七海が呼んでくれたらしい。その優しさにまたもや感動してタクシーに乗り込み、七海にも乗る様催促すると彼は首を振ってドアを閉めてしまった。

「私はまだ仕事が残っているので」

 え、と私は固まった。自分の仕事がまだ終わっていないのに、私の仕事を代わりにやってタクシーを呼んでくれて、しかもぐーすかと寝ている私を運んでくれたのか。そして帰る私を見送ってまた自分の仕事をするつもりなのかと。優しすぎて怖い、と反射的に口から漏らしてしまった。七海は私の言葉にまぁ、と前置きをしてから呟く。

「過労で倒れられると私が困りますからね」
「やっぱあんた可愛くないわ」

 鞄に残っていたカロリーメイトを投げつけ、私はげらげらと笑った。これでこそ七海という男だと。運転手に住所を伝えタクシーが動き出しても、七海は見送りのつもりなのかまだ学校には戻っていない。珍しく先輩が疲れて死にそうな顔をしていたから、彼なりに労わってくれていたのかなと気が付く。しかし、何となくこのままでは終われない気分になった。そう思ったからか、私は何となく後方を振り返れば、未だにこちらを見送る彼と目が合った気がした。だから、本当にそれは出来心だった。気付かなければそれでいいと、考えるよりも先に口に手を当て、それは熱い投げキッスを七海にお見舞いしてやったのだ。普段の私なら絶対にしなかったことだった。肝心の七海には見えたのか見えていないのか分からないが、遠目から見ても珍しく変な顔が確認出来たので多分見えていたのだろう。
 ――生意気な後輩め、ざまぁみろ!
 クールな後輩の面白い表情が見られて大満足な私は、疲れを吹き飛ばしてひとり後部座席で高らかに大笑いしたのであった。


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