呪術 | ナノ




 ――約束だよ。
 午前5時。目覚ましが鳴り夢に沈んだ意識が浮上する直前、どこか優しく懐かしい声が私に話しかけた気がした。けたたましく鳴るスマホのアラームをのろのろと止め、上半身を起こす。カーテンを開ければ本日も快晴、素晴らしき学校日和である。まだ眠い目を擦り、ぼぅっとする脳で先ほどまで見ていた夢を思い出す。誰か……、恐らく男の子の声と、指切り、そして何か。何かを、約束した気がする。混濁した記憶の中で、唯一忘れてはならない大切なものだったことは確かなのに。あとちょっとで思い出せるかも。そう考えて思い出そうとすると、途端に髪の毛に隠れた額の傷がじくじくと痛み、反射的に頭を手で覆う。

「い、……たい」

 脳をハンマーで直接殴られている様な感覚だった。思い出したいのに思い出せない記憶はストレスとなり、もやもやと気持ちの消化不良を引き起こす。仕方がないので痛みが治まるのを待ってから再び顔を上げると、そこには相変わらずの窓の外は雲一つない綺麗な青空。それとは逆に気分は少し憂鬱だ。仕方がない、自分の機嫌は自分で取るか。気分転換に夜蛾先生に呪骸でも借りて体術の稽古を付けてもらおう。私は小さく息を吐くと、制服に着替えるべくベッドから立ち上がった。
 早朝の学校にはまだ誰も居なかったが、夜蛾先生だけは部屋に行けば普通に出てきてくれた。ここ数週間、よく朝早くに訪れるからか突然の訪問にも慣れてしまったらしい。稽古をしたいからと強めの呪骸を希望すると、私の背丈の半分くらいの大きめな呪骸を引っ張り出してくれた。受け取ったそれは思っていたよりも重くて、慌てて抱えなおす私を、先生は何かを言いたそうにじっと見つめる。どうしましたか、と問うと、先生は傷は大丈夫かと一言だけ質問をしてきた。

「大丈夫ですよ。傷も目立ちませんし。あ、でも最近同じ夢ばかり見ます」

 起きたら忘れちゃうんですけどね。私はへらりと笑って見せた。先生は一瞬何かを言いたそうにしていたがすぐに口を閉じ、そして数秒の沈黙後に何かあれば家入の所に行きなさいと言い残し部屋に戻ってしまう。残された私は先生の優しさに少しにやけつつも、何ともぶさ……かわいい白熊の呪骸をしっかりと抱いて廊下を歩き出した。
 道場で呪骸相手に殴り合いを始めて1時間程経った頃、漸く気分が晴れた私は呪骸を止めて一息ついた。時間はまだ7時過ぎで、登校するにはまだ少し早い。このまま部屋に戻ってシャワーでも浴びようかな。そう考えて脱ぎ捨てた上着を拾い上げて外に出ようとした時だった。

「あ……」

 まるで幽霊でも見たかの様な、そんな引き攣った声だったと思う。私の知っている誰の気配でもない、知らない男の子が道場の入り口に立っていた。困惑と驚愕が入り混じっている様な表情で、目を見開いてただ私の方を見ている。私の背後に何か居るのかと振り返ってみても何もいないので、恐らく私を見ているのだろう。この学校にしては珍しい白い制服に黒い髪、後ろには刀か何かが入った袋を背負っているので学生だと思われるが、私には見覚えのない顔だった。編入生なのだろうと結論付けることにした。それにしても、早朝に道場に来るなんて珍しい。私は首を傾げてどうしましたかと呆然としている彼に訊こうと一歩踏み出す。

「――ナマエちゃん!!」

 しかし、私の言葉は全て言い終わる前に白い制服へと消えてしまった。見えない向こうで、ガチャンと重たそうな何かが床に落とされる大きな音が響く。状況がよく理解出来ないが、とりあえず私は彼に抱き締められていることが分かった。それは強く、決して離さない様に、必死に痛いくらいに。少しばかり呆然としたものの、我に返った私はすぐに放してくださいと叫んでその体を押し返した。強い力で私に回っていた腕は、思ったよりもあっさりと解け、その反動で私は床に倒れ込んでしまった。受け身を取れずにぶつかったので痛みがダイレクトに伝わってくる。私はすぐに立ち上がり彼と距離を取ると、キッと睨みつけてから夜蛾先生の呪骸を投げつけ隙が生まれた瞬間に道場から走って逃げた。寮まで全速力で走ってはいたが、後ろを振り返っても最後まであの男の子が追い掛けてくることはなかった。寮の前で大きく深呼吸をして先ほどのことを思い出す。あの表情と行動と、態度に私の名前。一体彼は何がしたかったのだと真意が見えなくてイライラしてしまう。はぁ。大きなため息をついて空を仰ぐ。せっかく晴れた気持ちが、この空と反対にまた曇っていくのに気が付いた。

「ナマエ、しわ寄ってる」

 午前の授業が終わって昼休憩の最中、おしゃれな雑誌を読んでいた野薔薇はふと顔を上げるとそう言って指で眉間をぐりぐりと押してきた。クロスワードパズルをしていた手を止め、そこで初めて自分が険しい顔をしていることに気が付く。無意識に今朝のことを思い出していたのだろう。ごめんと謝り、顔に込められた力を抜くと野薔薇は満足そうに頷いた。私はそんな彼女にへらりと笑い、再びパズルに視線を落とす。しかし、それも眺めているだけで問題を読む気にもなれない。芯が少し出されたシャーペンを紙に押し付けていると、強すぎる力に耐え切れなかったそれが小さな音を立てて先が折れた。それを気にせず、また数回ノックして芯を出す。それを数回と繰り返せば誰がどう見ても、心ここにあらずだと気付くだろう。野薔薇は雑誌から目を離し、私をじっと見つめると訊いた。

「なんかあった?」
「いや、まぁちょっと」

 鋭い彼女の感性にぎくりと肩を揺らす。今朝のことを報告しても良いのだろうかと考えたが、言ったら犯人のことを血祭りにしそうだからやめておいた。それ以上なにも言わない私に、野薔薇は頬杖をついてにやりと笑う。

「ふーん。まぁ、何かあればちゃんと相談しなさい」
「ありがと、すき」
「とーぜん」

 彼女のこういった優しいところが好きだった。心配はするが、深入りはしないし詮索もしない。今まで出会ってきた誰よりも、居心地の良い子だと思う。女子特有のやり取りをしている私たちを興味なさそうに見る彼らも、同様の理由で私は好んでいた。再び静かで穏やかな時間が流れたそんな時、不意に校庭の方から複数人の楽しそうな声が聞こえてきた。聞き覚えのあるそれらはどうやら2年の先輩のもので、野薔薇達も気付いたのか同様に教室の外をじっと見ている。それにつられて視線の先を追えば、パンダ先輩が誰かに覆いかぶさっていた。それを見て、真希先輩と狗巻先輩が笑っている。中心にいる人物は誰だろうと、ふと気になった。それは野薔薇と虎杖もそうだったみたいで、野薔薇に指示された虎杖が犬のように窓を乗り越え校庭に走り去っていく。持ち前のコミュニケーション能力であの輪に入って行った彼は、驚いて大声を出したかと思えば、ダッシュでまたこちらへ戻って叫んだ。

「乙骨先輩、帰って来たって!」

 虎杖の背後で、パンダ先輩の陰から出て来た男の子を見て私は固まった。どう見ても見間違える訳がない。朝に出くわした不審者だった。

「あの、今朝はごめんなさい」
「……いえ。お気になさらず」

 改めて真希先輩達に紹介された不審者もとい、乙骨先輩は気まずそうに謝ってくれた。何かあったとしか思えない言葉に先輩と同級生は興味津々だが、私は気にしていないと頭を振る。とりあえず彼が不審者ではないことが分かっただけよしとしよう。話はここまでとばかりに、私はよろしくお願いしますと左手を差し出す。握手のつもりだったが、乙骨先輩はその手を見たまま複雑そうな表情で固まっていた。私は首を傾げ、彼を見つめる。優しそうなたれ目に綺麗な黒髪。服でよく分からないがこんなに細いのに特級呪術師なのだから、世の中見た目だけじゃ相手の本質なんて絶対に分からないものだと改めて思う。
 いくら待てども宙に浮いたままの私の手は、先輩に拾ってもらえず放置されて寂しいことこの上なかった。見れば先輩は私の手をじっと見たまま、動いていない。嫌だったのかと引っ込めようとすれば、彼は追う様に一歩追い掛けて来た。その様子から嫌ではないのだと悟った私は、中々差し出してくれない先輩の左手を強引に握ると2回程軽く振って放す。さすがに強引だったかなと握っていた手を見れば、その薬指にシンプルなシルバーリング。

「ご結婚、されているんですね」

 乙骨先輩が息を呑んだのがわかった。もしかして言ってはいけないことを言ってしまったのかと顔を見れば、その表情は何かに耐えるような辛そうなもので私は思わず下を向いて口を噤む。2人の間に嫌な沈黙が流れ、空気が重たくなる。何か、言わなければ。謝罪でも冗談でも、この沈黙を破れるのであればなんでも良かったのに、ただの一言も出てこない。何故か私は、私から一番言ってはいけないことを言ってしまったのだと気付いてしまった。
 その後、場の空気を変えてくれたのはパンダ先輩で、もうすぐ授業始まるからと先輩達を連れて行ってくれた。乙骨先輩も何かを言いたそうにこちらに視線を送っていたみたいだが、私は顔を上げることが出来ずに立ったままその気配が消えるのを待つのであった。


back

×
「#甘々」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -