呪術 | ナノ




「ねぇ、なんで彼氏いないの」

 都心の低層階の、無駄に洗練された広いマンション。そのリビングに置かれたこれまた大きくてお高いソファで寝そべりながら、術師最強である五条悟は不躾に質問した。ちょっとどころか大分失礼な質問だなとイラッとしたものの、雇い主である手前態度には出さずに聞き流しつつ掃除する手を止めなかった私は偉いと思う。週に2回のペースで掃除に来ている上に、忙しい五条さんの部屋にはあまり物が置かれていないので汚れが少なくて助かる。が、一般家庭出身の私からしてみれば目玉が飛び出るくらいの値段のする家具を綺麗にするため、毎回神経を尖らせないといけないのは少し面倒だった。傷なんて付けようものなら弁償と称してタダ働きさせられそうで怖い。しないだろうけど。

「ナマエちゃーん。僕のお話ちゃんと聴いてるー?」

 ゴミ箱に溜まったお菓子の箱を1つに纏め、後で捨てに行こうと玄関に袋を置いてリビングに戻って来た時だった。珍しくオフで怠惰を貪っていた五条さんがソファから起き上がり、じとりと私を睨む。はあ。また始まったと私はため息をつきたくなった。

「五条さん、何度も言いますがセクハラです」
「えー? 君と僕との仲じゃない?」
「親しき中にも礼儀あり。そもそも今の私はあなたに雇用された身ですので、断じてそういう仲でもありませんよ」
「うわ、辛辣」

 掃除は終わったので、あとは洗濯と炊事のみ。洗濯に関しては洗濯機では到底洗えないものが多いのでそれはクリーニング屋に持っていき、タオル類は高性能洗濯機に放り込んでスイッチを押すだけ。汚れもしっかり落ちて乾燥までやってくれるそれを使う度に、お金があるって素晴らしいものだと実感していた。ちなみに我が家の洗濯機は縦型でもう10年は使っている。まだまだ現役だ。
 ご飯に関してはその日食べる分と作り置きする分、あとは冷凍しておく分と3種類作っておく。五条さんがいつ帰って来ても食べる物があるように、私は雇い主の事をしっかりと考えて働いているのだ。全ては五条さんの為じゃなくてお金の為だのだけれども。これまた最新式のキッチンで料理を始めると、テレビを見るのも飽きたらしい五条さんがカウンターの向こうに座って私の作業風景を眺め始めた。今までこうして私が家事をしている時に彼が居る事はかなり珍しいので、とても落ち着かない。かと言って反応したら負けな気がするので無視して作業に集中した。

「なんでそんなにお金、欲しいの?」

 家に居るからかラフな格好で、サングラスもしていない五条さんは頬杖をついて訊いてきた。茄子を切っている手が一瞬止まり、これ以上無視する訳にもいかないかと観念した。

「うち、貧乏なんです。弟と妹が居て2人ともやりた事があって」

 どうしても海外留学したい弟と、医学部に行きたい妹。どちらも頭が良くて優秀で、親は病気で、元気な私が働くしかないから。漸く準1級になれたけど、それでも仕送りに学費に医療費に、いくらお金があっても足りない。給料は貰った瞬間から全て消えていく。呪霊にお金にいくら命があっても足りないと、ここ数年はいつも思っていた。

「別にナマエがそんなに頑張らなくてもいいんじゃないの。そんなん自分で何とかしろってさ」
「そういう訳にもいかないですよ。それに、私は家族が好きなのでいいんです」
「ふぅん」

 まるで自分には理解出来ないと言いたそうな返事だった。まぁ他人の家の事情なんてどうでもいいもんなと私は苦笑する。こうして五条さんの家で家政婦をしているのも、そういった事情があるのだ。そういえば今まで誰にも訊かれた事がなかったから家の事を初めて誰かに話したなと、切った茄子を水にさらしている時に気が付いた。

「では、これで」
「ありがとねー。またよろしく」

 ガサゴソと軽いゴミ袋を手に持ち、玄関で五条さんに頭を下げる。まだ夕方になったばかりなので、スーパーのタイムセールには間に合いそうだなと考えた。そして最後に忘れ物は、と記憶を探ると1つだけ思い出した。

「あ、クリーニング」

 ランドリーバッグに纏めて、脱衣所に置いたままだった事に気が付いてしまった。任務の多い彼の洗濯物はすぐに溜まってしまうので、また次回という訳にもいかない。スーパーにも行かなければならないので慌てた私は荷物を置くこともせずに靴紐を解き、五条さんにすみませんとひと声かけてから慌ててスニーカーを脱いだ。それがいけなかった。

「あ、わっ!」

 仮にも準1級の呪術師が、たかが靴を脱ぐだけで躓くことなんてあって良いのだろうか。戦闘と訓練以外で地面に倒れるのなんて何年振りだろう。いくらテンパっていたとしても、我ながらどんくさいにも程がある。ああ、腕に痣出来るなと倒れる瞬間に思った。
 ――しかし、予想に反して私を待っていたのはフローリングの硬い床ではなく、硬い筋肉であった。そして、温かい。背中に回されている手とほのかに香る香水の匂い。十中八九、五条さんが私を受け止めてくれていた。まずい。早急に靴を雑に脱ぎ捨て、自分の脚でしっかり立つとゴミ袋を置いてから両手で五条さんの体を押し返す。が、ぴくりとも動かない。もう1度もっと力を込めて押す。動かない。じゃあ今度は全力で。それでもやはり動かない。
 腕の中で何やらもぞもぞしている私が面白いのか、五条さんはふと堪え切れなくなった様に吹き出すと次第にゲラゲラと下品に笑いだした。せっかく綺麗な顔をしているんだからもっと上品に振舞ってください。その文句は口には出さず睨むことによって彼に伝えてみる。伝わらないのは百も承知だった。

「いい加減、放していただけないですか」
「やーだ」

 くそが。声には出さず、私は口だけを動かした。
 しかし、困った。この男の気まぐれはいつに始まったことではない。彼の家政婦始めたのも、ただの気まぐれだったと思う。学校の休憩室で何か良いバイトはないかとパソコンで探している時に、五条さんがひょっこりと現れて言ったからだった。バイト探してるの? じゃあ僕の家で家事してくれない? なんとも軽いノリだった。それを私は神の巡り合わせとばかりに即承知した。だが、疑問が残る。彼くらいの収入があるのなら、プロの家政婦を雇うなんて簡単なはずなのになぜわざわざ私に提案して来たのか。一瞬、身体目当てかと疑いもしたが、彼から私に触れることは今までただの1度もなかった。さすがに同僚に手を出すのはいろいろとまずいだろうし、そこは安堵した記憶がある。結果、その思考回路は到底理解出来るものではないので、ただの気まぐれと結論付けよう。そういうことになった。
 なのに、この気まぐれは一体どうしたのだろうか。薄くて安いスポーツウェア1枚と、高そうなTシャツ1枚。それらがぴったりとくっついてしまえば、いろいろと生々しいものを感じざるを得ない。そういえば私、五条さんと組手したことないな。現実逃避なのか、ふとそんなことを思った。
 時間にして数秒、もしくは1分程経ったくらいになって、漸く私は五条さんの腕の中から抜け出すことができた。抜け出したというよりも、解放されたと言った方が正しい。たかが数分じっとしていただけなのに任務よりも緊張した。恋のドキドキじゃなくて、もちろん恐怖のドキドキで背中には冷や汗が滲んでいる。これだから特級は。ただの気まぐれも私には荷が重い。

「じゃあ、今度こそこれで」
「うん、じゃあね」

 ゴミ袋とクリーニングバッグを持ち、後ろでドアが閉まると、どっと疲れが押し寄せて来た私は大きく深くため息を吐いた。もうこのまま帰ってしまおうか、と一瞬自分の中の悪魔が囁く。しかし、節約の為にもスーパーで半額の卵を買いに行かないと。天使の私は悪魔を追い返した。

「あ、ナマエさん!」
「あら、本当。偶然ね」
「虎杖くんと野薔薇ちゃん。どうしたの? こんなところで」

 スーパーからの帰り道、戦利品を持ってほくほくの私は上機嫌で帰路についていた。そんな時に出会ったのが彼らだった。2人とも私服で今帰って来たらしい。学生らしく青春しているみたいで安堵する。

「買い物からさっき帰って来たところよ。そっちも?」
「うん、そうだよ」

 ふぅん。ついさっき聞いたばかりの返事を、また彼らから聞くとは思わなかった。師匠に似るのは弟子の性なのだろうかと苦笑してしまう。学校以外で会うのは珍しいからか、思っていたよりも会話が弾んでしまい、気付いた時にはもうじき本格的に暗くなってしまう時間だった。私は早めに雑談を切り上げると、早く帰りなさいと2人を促す。野薔薇ちゃんは少し不満そうだったが、虎杖くんはそんな野薔薇ちゃんを説得してくれて、2人ともちゃんと学校に帰って行った。その背中を見送り、私も再度歩き出す。あの2人がまさかあんな会話しているとも知らずに、上機嫌で。

「なぁ、釘崎」
「なによ」
「ナマエさんさぁ、香水付けてなかった?」
「あー、付けてたわね。珍しく」
「俺どっかで嗅いだことあるんだよなぁ。どこだっけ?」
「言われてみれば確かに私も……」

 釘崎と虎杖は考える。その違和感の正体を。どこで、いつ、誰が纏っていたのか。その答えはすぐに出る。あ! と2人が一斉に声を出し、目を合わせて叫んだ。

「五条先生じゃん!」

 おかしい。なんでこんなに視線を感じるのか。五条さんのセクハラ事件があってから数日、私は謎の視線に悩まされていた。源は専ら生徒と補助監督と呪術師。つまり呪術関係者全員だ。何故なのかと、私はこの数日ずっと考えていた。補助監督に挨拶をしても心なしか避けられ、生徒からは生暖かい視線を、同僚からは労りの言葉を投げかけられる。原因は分からないが、何か良くない誤解を与えているのは間違いなかった。そしてその誤解は七海によって明かされることとなる。

「貴女、五条さんとお付き合いしていたんですね」
「……へ?」

 青天の霹靂とはまさにこのこと。むしろ何故そんな噂が出回ったのか分からないし、根拠はまずどこにあるのか。ツッコミどころ満載のジョークだった。しかし七海の憐れむ様な視線は本物で、まさか、とあの言葉がここ数日の視線の原因だと気が付く。一体どこからそれをと七海を問い詰めようとした時に、運悪く現場到着の声が聞こえ諦めざるを得なくなってしまった。任務である以上、終わるまでは私情を優先出来ない。結局この日は任務が終わってすぐ七海は次の現場に行ってしまった為、噂の真相は謎のままとなった。

「いらっしゃーい」
「……お邪魔します」

 生暖かい視線は相変わらず私に注がれ少し肩身が狭く感じている中、家政婦の日がやって来てしまった。居ないで欲しいと思っていた五条さんはインターホンを押すとすぐに出てオートロックを開け、ついでに玄関ドアも開けてくれた。サングラスを外し惜しげもなく晒されたその素晴らしい造形をした顔はとてつもなく晴れやかに笑っていた。何か良いことがあったのだろうか。とりあえず機嫌が良いということは分かった。

「ね、お土産買ってきたから一緒に食べない?」

 部屋の掃除が終わり、洗濯機を回し、空いている時間で料理の下拵えをしようとしていた時だった。五条さんは高そうなチョコレートが入った箱を振りながら私に笑いかける。いつもならすぐに断っていたが、ここ最近の噂の真相について訊きたかったのもあり2つ返事で了承した。

「これはフランボワーズ、こっちはアールグレイだって」

 紅茶を準備してリビングに持っていくと、早速箱を開けた五条さんは楽しそうにリーフレットを見てチョコレートを吟味していた。何が食べたい? と瞳が楽しそうに煌めく。私は何でもいいですよと言いながらポットとカップをテーブルに置くと、そのままカーペットの上に座る。しかし、五条さんはこっちにおいでよと自分の隣を指して言った。

「いえ、遠慮しておきます」
「雇い主命令」
「…………」

 お金を貰っている以上、それ以上拒否は出来なかった。お金という弱みを握られた結果である。諦めて立ち上がり大人しくソファに座ると五条さんはチョコレートを1つつまんで私の口元に差し出した。その表情から、大方”あーん”をしたいのだろう。さすがに嫌なのでチョコレートを手で取ろうとしてみたが、すぐに彼の手は引っ込められてチョコレートはお預けとなってしまった。じとりと私は五条さんを見る。

「ほら、口開けなよ」
「…………」

 長い沈黙の後、私は観念して大人しく口を開けた。これも全てはお金の為に。悲しき貧乏人の性である。私が素直に従ったからか、五条さんは上機嫌でチョコレートを私の口の中に押し込んだ。ご丁寧に指を唇に押し付けながら。セクハラですと言おうにも、チョコレートが邪魔をして言えやしない。もうどうしようもないので諦めた私は、大人しくとろりととろけるチョコレートを味わうしかないのであった。

「……ブランデー」

 チョコレートの甘みが度数の高いブランデーでかき消される。苦くて辛くて、少しだけ舌がひりひりとする。甘い酎ハイしか飲まない私にとっては刺激が強かった。思わず苦い顔をして紅茶を口に含み、飲み下す。ブランデーの熱が食道を通り、胃に落ちていくのが分かった。

「苦手だった?」
「いえ、驚いただけです」
「そ?」

 五条さんは楽しそうだった。それから私の口に入ってくるのはワインだったりウィスキーだったりリキュールだったり。どれも強めのお酒ばかりで、チョコレート食べているだけなのに、次第に頭がふわふわしてきてしまった。もういらないと拒否しても、五条さんは強引にチョコレートを唇に押し付けてくるので口を開けるしかなくなってしまう。早く食べてしまおうと噛んで割ると、今度は日本酒の味がした。自然と眉が寄るのが分かる。美味しいのに、あまり美味しいと思えない。そんな表情をした私を見て、五条さんはくつくつと笑う。

「ナマエはかわいーねぇ」
「なん、ですか……」

 頬に延ばされた指が冷たくて、その時初めて自分がお酒に弱いことに気が付いた。いつも飲み会では2杯くらいしかお酒を飲まないし、家でも節約の為に水かお茶くらいしか飲んでないから分からなかった。たった数個のチョコレートで酔ってしまっている自分が恥ずかしくて、五条さんの手を押しのけて立ち上がる。しかし、ぐにゃりと視界が回りまたソファに逆戻り。五条さんは大丈夫? と白々しく私を自分の方に抱き寄せた。

「本当はもっとゆっくりでも良かったんだけどさ、この前僕の腕の中に飛び込んで来てくれたのがすっごく嬉しくて」
「何の話、ですか」
「あの時匂いを付けたのは僕の出来心。でも、悠仁達と会ったのは嬉しい誤算だったなぁ」
「だから、なんの」
「良かったよ、僕がいつも同じ香水付けてて」

 顔も運も家柄も全部良いって、僕って本当にすごいよね。とろける様に笑う五条さんに正面から抱きしめられて、顔が彼の首筋に埋まる。そこから香る匂いは、確かにあの時に感じた匂いと同じだった。ぼぅっとして力が入らない指で五条さんの服を掴むと、彼はまた笑う。

「だって今、ナマエは恋人居ないんでしょ? なら僕と付き合おうよ。絶対に苦労はさせないよ」

 呪術師だって辞めても良いんだよ。お金なんて僕がどうにでもするから。そう言って私の顔を覗き込む五条さんの呪いにも似た言葉が、ゆっくりと私に絡みつく気がした。


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