呪術 | ナノ




「朝帰りとは感心しないな」

 この雲ひとつない晴れた朝に似つかわしい爽やかな、それでいて聞き慣れた声だった。ハズレを引いて不完全燃焼だった上に眠る時間もそんなになく、睡魔を追い出すように大きく背伸びをした格好で一瞬だけ動きを止める。誰も居ないだろうと高を括り油断をしていたのもあって、目でその姿を見るよりも先に舌打ちが出た。
 眠気がこびりついている脳ではいつも出てくるその場しのぎの言い訳さえも思いつかず、ただ本能のままに胡散臭さ抜群の笑みを浮かべている男の顔を睨み上げて言い返す。あんたは私の親か。
 いや、例え親だったとしても言われたことなんてない台詞なのは間違いない。その返答が面白かったのかそれとも見当違いも甚だしかったのか、男、夏油は可笑しそうに笑い始めた。何が可笑しいのかとまた睨めば彼は目を細めて言った。親だとしたらやることもやれないだろう、と。

 そのねっとりとした視線の奥に垣間見える暗闇にぞわりと背筋に寒気が走り、考えた。この男と一時の衝動で寝てしまったのは間違いだったのだと。その思考が顔に出ていたのか、夏油は尚も楽しそうにしていた。苦虫を噛み潰したような顔をしてどうした、なんてとぼけたことを言いながら。こちらの考えなんて赤子の手をひねるよりも簡単に汲み取れるとでも言いたげな様子だった。
 長い足を大きく開き、ゆっくりと彼が歩きながら手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まる。自身より幾分も高い顔を見上げた先にある目が、まるで獲物を狙う蛇のように感じた。

「昨日の男とは、どんな夜を過ごしたのかな」

 ホテルでシャワーを浴びて雑に支度をしたからか跳ねた毛先が首筋に当たり、昨日、共に夜を明かした男が首筋に痕を付けていたのをはっと思い出した。こんな時に限って、あの男。思わず制服の襟を掻き合わせようと手を上げる。しかし、それは夏油の手によって制止された。そして反対の手で乱暴に襟が開かれ、赤いそれが光に照らされる。注視する瞳の奥がまた、深淵を溶かし込んだように黒く染まっていく。
 夏油は薄く色付いた赤の上に指先を置くと、間を置くことなく抉った。強く、深く。血が出るのもためらわず、痕の下にある肉ごと持っていくかのように。痛みに顔を歪めてもその指は止まらず、逆に夏油は笑みを深くして痛いかと訊いてくるだけ。
 その質問に何を答えても無意味な気がして口を閉ざしたまま視線だけを返し、痛みなんてすぐに慣れるだろうと行為を受け入れ、諦めた。この男が早く飽きてくれることを目を閉じて願い、あの過ちを犯した日のことを思い出しながら。

 人が足りないからと学長に言い渡された任務が文字通り死闘と言えるほど命からがら戻ってきたあの日、硝子に治してもらって医務室から出た時に待っていたのが夏油だった。予定では今日は非番だと聞いていたのに珍しいと思いながら携帯電話を弄る姿を見ていると、不意に顔を上げた彼とばちりと目が合った。沈黙は気まずいので怪我でもしたのかと訊けば、壁に寄りかかっていた身体を起こした彼は様子を見に来たのだと言って乾いた血の残る頬に触れた。
 五条はと訊けば、任務だよと返ってくる。帰ってくるのは明後日らしい。お土産は何だろうと気になった。夏油の指は頬の血を拭き取るように何度も皮膚を往復していた。他に怪我はと訊かれ、腹と脚に何本かと返す。夏油はそうかと呟いて、今度は顎の血を拭き始めた。
 雪は降っていないものの寒く北風が強いこの日でも夏油の体温は高く、心地良かった。だからだろう、その熱を根こそぎ奪いたくなる衝動に駆られてしまった。自分より一回り以上も大きい手に自身の手を添えて頬をすり寄らせれば冷えた頬に彼の熱が移り、その温度差によって身体の中心がずくりとうねる。とくとくと規則正しく動いていた鼓動が少しずつ早くなっていく。どうしてかすぐに分かった。
 ――この男が欲しいと、本能が訴えているからだ。
 つい先程まで生と死の瀬戸際で足掻いていたせいで気持ちが昂ぶっていたせいもあったのだろう。それまで寒さのせいで出てこられなかった欲望の芽が地表へと現れてしまったのだ。本能のままに伏せていた瞼を上げ、夏油の顔を見上げ目を細めて言った。

「今日はとても寒い日だと思わない?」

 彼はほんの少しだけ驚いた表情をして、すぐにいつも浮かべる胡散臭い笑みで答えた。

「確かに、凍える程に寒いね」

 ――夏油との夜はこれまでに感じたことがないくらいに熱く、この上ない程に濃密だった。
 部屋に入るなり幾度も深く口付けを繰り返し、服を脱ぐ手間も惜しいと感じるくらいに獣のように互いの体温を確かめ合い深く深く、何度も繋がった。任務で疲れていたにも関わらず達しても達しても物足りなくて、もっとと強請る言葉に夏油は涼しげに、それでいてギラギラと隠しきれない欲を滴らせながらいいよと応えてくれた。どうして欲しいのか、どこが良いのか、彼とは初めてなはずなのにこちらの全てを知っているように翻弄してくる。今までそこそこの人数と寝てきたがその中でも断トツに上手く、体力もあったのは間違いない。
 朝になり目覚ましで起きた時に今まで何人の女と寝てきたのかと訊けば、君が初めてだよと冗談にも程があることを返してきて笑ってしまった。そうして彼は同じ質問をしてきて、星の数ほどと返す。彼は笑わずに、へぇ、と無機質な返事をするだけだった。

 それから夏油はこちらの任務帰りを待ち伏せして度々部屋へ誘うようになった。最初は体の相性が良いからと快諾していたが、誘いに乗る度に服を脱げば見えるところに病気かと思うくらいの痕を付けるのが悩みの種となった。夏油と付き合うつもりは微塵もないし、これでは他の男とやった時に萎えさせてしまう。そもそも同級生とこんな関係になるのはよく考えるとあまり良くないのではないか。
 体よくもう止めてくれないかと説得を試みても夏油はのらりくらいと躱し聞く耳を持たず、誘いが止まることはなかった。断ればあっさり引いてくれるからたちが悪い。こんなこと硝子や五条に相談する訳にもいかないので、ひと月程はどう穏便に収めるべきかをよく考えていた。
 しかし、すぐに気が付く。これは夏油が諦めるのが早いか、こちらが絆されるのが早いかの根比べなのだと。そうしてストーカーのように帰りを待つ彼の誘いを断り、拒絶し、逃げてきた。だが今となってはそれが良い選択だったのかは分からない。けれど、正しい選択ではなかったのだけは間違いないだろう。

 首筋に流れ落ちる液体に気が付いて目を開ければ、夏油がこちらを見ろとばかりに顎に手を遣り顔を上へと向けさせられる。そこに飄々とした笑みは無く、ただ黒い何かを携えた瞳がこちらを見ていた。気は済んだ? 淡々と質問をしてみれば彼は少しもと答えた。首元の血はもう乾き始め、抉られた傷口が熱を持っている。どうやってこの場を脱そうかと考えていると夏油は暗い何かを霧散させ、自分の付けた傷の付近を撫でながらどこか諦めた表情をしてお願いがあるのだと呟いた。
 ろくでもないお願い以外なら聞いてあげないでもないと返せば、簡単なことだよと彼がふと笑う。

「キスをしても、良いかな」

 触れるだけの軽いものでいいから。あまりにも可愛らしいお願いで拍子抜けしてしまった。そんなことでいいのと訊けば彼はもちろんと頷く。させてくれるなら、もう今後誘ったりはしない。けど、キスだけは許してほしいと。
 まるで捨てられた子犬のような瞳で言うものだから、絆されてしまった。少し間を置いて考えた後に、良いよと顔を少し上げて瞼を閉じる。そうして唇へと触れた柔からな感触に目を開ければ、夏油の端正な顔が広がっていた。時間にして2秒にも満たない口付けだった。あれだけしつこく体の関係を迫っていた男とは思えないくらいに満足そうな表情で彼が離れていくのを見て安心した。
 これでもう夏油のことで悩まなくて良いのだと思うと、会う度に迫られるキスは苦痛じゃなかった。任務で顔を合わさない日以外は毎回する触れるだけのそれが最早習慣になりつつあった頃、少しずつではあったが日常に違和感を覚え始めた。

 最初は一晩限りの男と寝ようとした時だった。
 いつものように任務を終わらせて声をかけてきた好みの顔の男と一緒にホテルへ入り、キスをして服を脱いでいた時に男が言ったのだ。煙草でも吸っているのかと。吸っていないと答えれば、苦いと呟いて男が喉を押さえる。シャツのボタンに掛けていた手を止めて近寄りどうしたのかと訊けば男は苦しいのだと細く答え、体調が悪いからと言ってすぐに帰ってしまった。
 行為の前に男が帰ってしまうことは稀にあったので、此の時はこんなこともあるかと諦めて不完全燃焼で寮に戻ると共有スペースに居た夏油と出会った。おかえりと気軽に声を掛けてきた彼に返事をすると、彼が立ち上がり今日も良いかと照れた顔で訊いてくる。体に溜まった熱を発散したい気持ちからそのまま部屋に連れ込もうと一瞬だけ考えもしたが、以前の過ちを繰り返さないためにも煩悩を振り払い良いよと答える。完全に瞼を閉じる直前、唇に近づく彼の顔が僅かに歪んだような気がした。

 次は久しぶりの休日で、1人で出かけている時だった。
 学校と任務の往復でしばらく遊べていなかったせいで溜まったストレスをやっと発散出来ると、服にもメイクにも気合を入れてひたすら買い物を楽しんでいた時に声を掛けてきた男とホテルへ向かっていた。道を歩いている間黙っている訳にもいかず、他愛もない話をしている時に不運なことが起きた。
 危ない、と後ろの方で切羽詰まった声が聞こえたかと思えば、隣の男が一瞬にして消えた。一体何が起きたのか。咄嗟のことで状況を理解出来なかったが、すぐに男が看板に押し潰されているのを把握する。慌てて大丈夫かと両手で持てるくらいには軽い金属の看板を持ち上げれば、運悪く角が脚に当たったせいで男は骨を折ってしまったらしい。痛いと呻いている男を心配しつつ救急車を呼ぶと、男はそのまま病院へと運ばれて行った。上を見れば縦に並んだ看板の中で一枚だけぽっかり空いていて、それが落ちてきたのだと気が付く。
 その後は警察も来て事情聴取をされ、寮に着いたのは深夜だった。せっかくの休日がと肩を落として歩いているとたまたま玄関で任務帰りの夏油と出くわしたので今日あったことを話せば、彼は大変だったなと笑った。本気でそう思っていないのは明確だったが慰めてあげるよと近付いてくる夏油を、間に合ってますと笑いながら受け入れるのであった。

 決定打となったのは夏油と一緒の任務を終えた帰り道だった。
 このまま買い物をして帰るからと駅で別れ、都心の人通りが多い場所で携帯を弄りながら声を掛けられるのを待つ。金曜日のおかげか数分に一度は誘われるが、どれもぱっとしない男ばかりで気が乗らない。しかし、30分程してそろそろ帰ろうかと思い立ち上がった時に声を掛けてきた男の顔だけは許容範囲内だった。背も高いし服は清潔そうだし、良いかもしれない。首を縦に振りホテルへ向かおうとした時だ。
 けたたましいクラクションの音と女性の叫び声が聞こえた直後、目の前に居た男が横に吹っ飛んだのがかろうじて分かった。はっと我に返り男を見ようと足を踏み出して立ち止まる。いや、引き止められたと言ったほうが正しい。後ろへと引っ張られた腕の方を見れば先ほど別れたままの格好で夏油が立ち、その表情はいつもと変わらず飄々としていた。全身を包むその黒い制服がまるで死神のようで、掴まれた腕に鳥肌が立つ。
 なんでここに。このタイミングでの登場で頭が混乱しながらも呟けば、なんでだと思う、と夏油は深く笑った。周囲のざわめきでかき消されるはずなのに、彼の声だけはやけに耳に届く。

「夏油がやったの」
「まさか。私じゃない」

 夏油は冤罪だとでも言いたそうに手を上げて肩をすくめた。だが1度だけならまだしも、もう3度目だ。流石におかしいと思わざるを得ない。じゃあなんでこんなことが。一歩詰め寄り問うと、彼はすっと笑みを消してこちらの心臓を指差して冷たく見下ろしていた。全て君のせいだ。そう、唇が動いたのが分かった。
 私を拒まなければ、君に近づく男に不幸が訪れることなんてなかったのに。トクトクと心臓の鼓動が夏油に伝わっていく。指先は鎖骨を伝い、首筋に、顎に、そうして唇へと辿り着く。キスは呪いでもあるのだよと呟き、指の背が口紅を引くように端から端へ一往復し離れた。
 混乱が多少落ち着いた中ではあるが、周りの喧騒は相変わらずなのにも関わらず夏油は気にする素振りを見せない。まるで2人だけの世界のようにただ静かにこちらを注視していて、それが気味の悪さを際立たせる。

「キスをしても、良いかな」

 ――また植え付けなければ。この唇に、愛という呪いを。
 夏油は笑う。もう周囲の音も聞こえない。腰に回された腕はまるで鎖みたいだと感じたけれど、逃げ出そうとは思わなかった。
 高い背を屈ませ、端正な顔が今まで何度も繰り返してきた行為をしようと近付いてくる。そうして恭しく口付けられた彼の味はひどく甘く、根を張るように舌にこびりつくのであった。


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