呪術 | ナノ




 以前、硝子にあのクズのどこが良かったのかと訊かれたことがある。任務帰りにコーヒーの美味しい小さな喫茶店で待ち合わせをして、席に着いた彼女が開口一番にそう訊いてきた。相変わらず美しい顔で頬杖をつき、底の見えない真っ黒な瞳が心の底まで見透かそうとじっと私を見つめていた。その時の私はまだ五条悟の浮気なんて1ミリも知らなかったし、例えたまに会ってもやることしかやらない、普通の恋人と言うよりもセフレみたいな関係であったとしても、硝子に否定的な言葉を返せなかった。もう10年もの付き合いになる上にあっちはどう思っているのかは知らないが、その時の私には、まだ愛情があったのだから。
 私の答えを聴いて、硝子はただ呆れていた。断っていたはずの煙草の煙をため息と一緒に吐き出しながら眉間に手のひらを押し当て、少し面倒臭そうな表情をして。やめたんじゃないの。指を2本立てて口元でひらひら動かしながらそう言えば、彼女は吸いたくもなるだろと気怠げに返してきた。吐き出された煙が空気に溶けてからしばらくして、彼女が呟く。どうしてお前はいつもそう優しいんだ。言葉ではそう言いながらも眉を寄せた相貌を見るに、彼女の"優しい"を"馬鹿な"に言い換えた方が正しい雰囲気がして、私は曖昧に笑うしかなかった。
 どう言うべきか。浮かんでは消えていく返事に困っていた時、運良くウェイトレスの女性が頼んでいたコーヒーを私の前に置き、シンプルなアメリカンの芳ばしくて苦い香りが2人の間に割って入った。じっと私を映していた瞳が下に向き、少しだけほっとした。ゆらゆらとゆるく蛇行して昇って行く水蒸気を眺めながら硝子に視線を送れば、彼女はつまらなさそうに目を伏せ、煙草を咥えたままアイスコーヒーをカラカラとかき回していた。
 仕方がないよね。この時、諦め気味に出た言葉は誰に向けたものだったのかは分からない。五条悟か、彼女か、自分か。結局なるようにしかならないし、今の関係のままずるずると続いてもどうせいつかは破綻するんだからそうなった時にまた考えれば良い。そうは思わないかと短くなった煙草を灰皿に押し付けた彼女に問えば、彼女は最後の煙を薄く吐いて好きにしなさいとアイスコーヒーを吸い上げた。

 ――その3年後、見事になるようになった結果がこれか。
 また1ヶ月程馬車馬のように働いて夜中にマンションに帰り、死んだように眠ってお昼と言っても過言ではない時間に起きた私は、リビングで淹れたての紅茶を飲みながら仏のように微笑みを浮かべた。机を挟んで向かい側に客人用に置かれた一人がけのソファには白髪の不法侵入者が座り、にこにこしながら持参したマスカットをぱくぱくとその口に放り込んでいる。いつもの目隠しもせず、あまりにも自然に部屋に居座っていたので、どうしてここに居るのなんて訊く気にもなれなかった。
 行儀が悪いと知りつつもカップをソーサーにわざと音を立てるように置き、笑顔を崩さないまま早く帰ってくれないかと言ってみる。ダメ元で言った言葉だったが予想通りに即拒否されてしまい、無意識に口元の筋肉が引き攣ってしまう。そして能天気に食べるかなんてマスカットを指差して言うものだから、即、丁重にお断りしておいた。

「本当に、何の用で来たの」

 仕事以外で私に用はもう無いでしょうと視線を投げれば、五条悟は口の中に残っていたマスカットを飲み込んで気になることがあるんだよねとその碧い瞳を返して来た。胡散臭い上に面倒臭い感じがして深くため息をつき、隠しもせず訝しげに眉を寄せ、低く訊く。余裕そうに笑う奴の整った顔が本気で恨めしい。

「何、気になることって」
「まぁまぁ、そんなカリカリすんなよ」
「あんたが、即行帰ってくれるなら、カリカリなんて、しませんが」

 間髪入れずに言った言葉に五条悟はそれだよ、それと反応した。それって、何。奴の意図が不明で若干イライラし始めたのが自分でも分かり、このままではだめだと考えた私は落ち着こうと目の前にあったポットを持ち上げて中身をカップに注ぐ。時間が経って香りも色も濃くなった紅茶が満たされていくのと同時に、みぞおち辺りに溜まったもやもやが少しだけ薄くなる気がした。ゆらゆら揺れる水面に光が反射して自分の顔が映る。それも持ち上げてしまえばすぐに歪んで見えなくなった。
 五条悟は相変わらずにこにこと1人で楽しそうに笑い、紅茶を飲んで2口目で漸く落ち着いた頃を見計らってその麗しい口を開く。

「名前、なんで呼んでくれないの」

 第一に出た声は呆れだったのか、驚きだったのか。いや、両方だったのだろう。同級生として長い間付き合っていたとはいえ、この男の感覚は未だにどこか掴めないところがある。それに先日と言ってもついひと月前に完全に恋人としての縁を切った人に対して、以前と同じように呼んでもらえると思ったのか。世間一般のカップルはどうなのかは分からないが、少なくとも私に限って言えばノーだ。あり得ない。でも、五条悟にとっては普通なのかもしれない。
 別にあんたを否定する訳じゃないけど。ストレスなのか脳の許容範囲を超えたのか、ズキズキと痛み始める頭を手で押さえ、一応ではあるがフォローするように前置きをして伝える。仕事や他人が居る時はちゃんと五条と呼んでいるし、2人きりの時までそうする必要なんて無いはずだ。それに、私とあんたはもうただの同級生で同業者。ただそれだけなのに、名前で呼ぶ必要がどこにあるのか。
 一通り自分の意見を言い終えると、再び腹の奥の溜まりだしたもやもやを追い出すように息を吐き出す。気持ちが昂ぶって心臓が激しく動いていて、気分が悪い。伏せていた目を上げて五条悟を見れば、奴は私の言ったことを理解したのかしていないのか、表情を変えずにこちらを凝視している。その碧い瞳の奥で何を考えているのかが分からなかった。
 どうすれば諦めてくれるか、もうほぼ手の打ちようがなくなってきた。呪霊相手であれば対処なんていくらでも出来るのに、人間、しかも五条悟となればその方法はかなり限られてしまう。話し合いだけで終われば良いけど。嫌な予感をさせながら温くなった紅茶を見つめていれば、五条悟は容易く言い放つ。

「僕は元カノの名前とか呼ぶの抵抗ないけど」

 それに今更呼び方変えるのって面倒だし、良いじゃん、今まで通りで。意思疎通が上手く出来ている気がせず、まるで宇宙人と会話している錯覚に陥ってしまい頭痛が酷くなる一方だった。過去の任務でも、夏油以外にこんなに悩んだことなんて無かったのに、この男はいとも簡単にその上を跨いで行くのだ。あのね。説明しようと出た言葉はその後に続くことなく、沈黙が続く。五条悟は良い提案じゃないかと楽しそうにまたマスカットを口へと入れ、味と香りを堪能し始めている。
 こちらの気も知らないで。いい加減、我慢の限界だった。朝から勝手にまた部屋に侵入され、理由を訊けばくだらないことで駄々を捏ねられ、話し合いをしようにも話が通じない。すっかりと冷めた紅茶に映る自分の顔は能面のように無表情で、いよいよ堪忍袋の緒が切れそうにぎりぎりと音を立てているのが分かった。不気味なくらいにクリアになった脳内に浮かぶ言葉を口にしていく。

「…………あの時」

 自分でも驚くくらいに静かな声だった。しかし、奴の様子は変わらない。

「私が発つ前に付き合ってたあんたの浮気相手」
「……あー、居たっけ」

 もう名前も覚えてないと悪びれる様子もなく、あっけらかんとした答えだった。反射的に笑いが漏れた。可笑しくて、可哀そうで。こんな最低なクズ男に惚れ、飽きたら捨てられた子が何人居たのだろうと考えると、嘲笑しか溢れなかった。そして、見る目がないと硝子に言われていたのを思い出した。あの日、好きにしなさいと言われた後だ。本当に彼女の言う通りだった。でも、今はこんなクズでも昔は違ったのだ。昔は、……昔は。でも、今がこんなのじゃ、意味がないのにね。心に浮かんだ呟きは、声として発することなく溶けて消えた。

「私、浮気したことなんて無かった」
「知ってる」
「あんたのこと、好きだったから。愛は薄くなっても、情はあったから」

 ……じゃあ、今は? 五条悟は私の言葉を待った。いつもの余裕ぶった表情ではなく、ただじっと真面目に私を見つめて。もし、あの浮気が発覚する前に1度でもこうしてちゃんと話し合っていれば、今でも関係が壊れず恋人でいたのだろうか。そんな絵空事を一瞬だけ考えたが、すぐに消した。もう、全てが遅いのだと。
 私は笑った。まだ私が髪の毛を染め、海外に発ち、浮気を知る前。……2人でデートして笑い合っていた頃の笑顔を浮かべて、彼に向けた。彼の目が僅かに大きく開かれ、少しではあるが驚いているのが伝わる。そうして、私は彼に言った。
 今まで冗談でも、頼まれても、他の誰にも言わないからと同級生に乞われても、絶対に言わなかった言葉だった。

「悟のことなんて、大嫌いよ」

 声は震えなかった。自然に言えたと思う。彼は何も言わなかった。
 私たちの間に、ただただ沈黙が流れていく。私は冷えた紅茶の残りを飲み、彼はしばらく何かを考えるかのように視線を下へ向けていた。どれくらい時間が経ったのかは分からないが不意に立ち上がった彼が玄関の方へ向かい、ドアを開けて閉める音がしたから、きっと帰ったのだと思う。やっと1人になって安心した私は大きく深呼吸を数回繰り返してから、ドアの鍵を締めようと玄関へと向かった。
 僅かに残る私が好きだった香水の匂いに懐かしさを感じつつ鍵を締めて戻ろうとした時、香水の匂いではない甘い香りに視線を移す。発生源はニッチにひっそりと置かれた桐箱だった。見覚えのあるそれはリビングに広げられたままのものと同じで、蓋が閉じられていても鼻孔をくすぐる芳しい果物の香りに、私はしばらく立ち止まった。


back

×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -