呪術 | ナノ




 ――慣れない匂いがする。
 重たい瞼をのろのろと上げ今は何時だろうと天井を見上げて違和感に気付き、何度かまばたきを繰り返す。どこだろう、と思ったのは一瞬で、今まで何度かお世話になったおかげですぐに医務室で寝ているのだと気が付く。自室の暗い部屋とは違って目の前に広がるのは消毒液の匂いがする明るい天井。薄いカーテンで仕切られてはいるものの、蛍光灯が眩しいくらいに照らす部屋は開いたばかりの目には刺激が強くて薄く細める。なんで医務室で寝ているのだろう。疑問が脳内に浮かぶ。
 まだぼやける頭で朝起きてからこれまで何をしていたかを思い出そうと記憶の糸を辿っていく。学校に行って授業を受けて、確か2限目で体術訓練があって、パンダくんと組手して。そこまでぐるぐると思い出して、あ、と小さく声が漏れた。確か、思いっきり投げられて受け身が取れずに頭から落ちたのだったと。
 その時に見学していた同級生達は遠くに居て、慌てた表情で駆け寄って来ようとはしたけれどもちろん間に合わなくて。連日の寝不足と注意力散漫のせいで私も咄嗟に対応が出来ず、そのまま頭を打って意識を失ったのだと思う。皆が切羽詰った声で私の名前を読んでいたのを思い出して、悪いことしちゃったなと苦笑するしかない。
 起き上がって違和感の残る後頭部を触ってみれば、血の出た形跡はなく大きなたんこぶが1つあるだけで特に問題はなさそうだった。ベッド横に置いてあったスマホを取り時間を確認すると午後の1時過ぎ。残りの授業は座学だし、多少ぼんやりするけど戻ろう。強制的に寝かされたお陰か近日では1番頭がすっきりとしていた。ぎしりとベッドを軋ませながら降り、靴を履く。家入さんとカーテンを開けながら呼べばそこに居るはずの白衣を着た女性の姿はなく、代わりに白い制服を着た彼が本から顔を上げてこちらに向いた。

「……乙骨くん?」
「あ、起きたんだね」

 言葉を発したのがほぼ同時だったせいで、どうしてここにという続きは出てこなかった。手にしていた本を机に置き、ほっとした表情で立ち上がりこちらに近付いてくる彼を見て、そういえばさっきの授業に彼も居たなと思い出す。珍しく任務が無くて皆と居られて嬉しいと言っていたのに、本を読んでいたということはずっと付き添いをしてくれたのだろう。悪いことをしてしまったと少しばつが悪くなり、目を伏せた。彼は目の前で立ち止まるとまだ座っていたほうが良いよと言いつつも、心配そうに私の様子を伺っている。頭は痛くないかと訊いてくる彼に大丈夫だと伝え、もしかして、と今度は私が訊いてみた。

「ずっとここに居てくれた?」
「うん、心配だったから」

 その返事は私の予想通りで、せっかく任務ないのにごめんねと謝ると彼は慌てて気にしないで良いと首を振る。でも。せっかくの時間を使わせてしまった罪悪感で言い淀む私に、乙骨くんは本当に大丈夫だからと念押しした。好きで待ってたんだよ。好き、という単語にぴくりと指が反応したが、すぐにそういう意味ではないと考えていたことを消す。煙の様に消えていったそれらの残滓を掻き消す様にこほんと小さく咳払いをし、ありがとうとお礼を言った。今度の返事は彼も満足したらしい。どういたしまして。そう言って微笑んでくれたので、私も安堵した。
 教室に戻ろうかと壁に掛かった時計を見るればあと15分程で授業が終わる時間だった。これでは今から戻ったとしてもあまり意味がさそうだ。乙骨くんも私と同様に時計を見て同じことを思ったらしい。サボっちゃおうかと、少し悪戯っ子みたいに笑うものだから、私もつられて笑ってしまった。割と真面目で優等生な彼がこんなことを言うとは思っていなかったのだ。
 座ろうと椅子まで誘導する乙骨くんに素直に頷き、彼が先程まで座っていた椅子に腰掛けた。まだ微かに温かさが残っている。何気なく机の上を見ればそこには一冊の文庫本が置かれ、タイトルには誰でも一度は読んだことがあるであろう童話の"シンデレラ"が記してあった。側面が黄ばんだそれは見ただけでも古いものだと分かり、こんな本も読むのかと意外に思いながら手に取りしげしげと眺め、乙骨くんに見せながら訊く。

「これ、乙骨くんの?」

 どこからか折りたたみの椅子を引っ張り出して私の横に置いて座った彼がきょとんとした後に違うと首を振り、そこに置いてあったのだと医務室の片隅に置かれた本棚を見遣った。その視線を追って私も目を向ければ、同じ様に古い文庫本が数冊煩雑に並べられており、必要のなくなった誰かが勝手に置いて行ったのだろうなと考える。ジャンルも大きさも違うそれらには分厚い埃が積り、そこだけ時間の流れが止まっている様にも見えた。
 へぇ、と独り言のように呟き手にある本を見てぱらぱらとページを捲り、小さく文字の並ぶそれらを眺めながら面白かったかと訊けば、彼は頷いてまだ途中までしか読んでないけど面白いよと答える。そうなんだ。自分から質問をしたくせにどこか他人事の様に返事する私に、乙骨くんはシンデレラは好きなのかと訊いてきた。正直に言うかを迷い少しばかり沈黙したが、すぐに嘘をついても仕方がないなと考えて首を横に振った。あまり好きじゃないの、変でしょ。へらりと笑って彼を見ると彼は変じゃないけど、と不思議そうな顔をしている。

「理由を訊いてもいい?」

 ただ純粋に疑問に思ったのだろう。じっとこちらを見つめる瞳から目を逸らし、適当に開いたページの一文に視線を遣る。丁度シンデレラがお城から逃げるシーン。ガラスの靴を片方落として、王子様に強烈な印象を植え付けた作中でも1番有名な場面だった。皮肉みたいに思えて、ふっと笑った私はそのまま強いからと視線を戻さずに質問に答える。羨望と嫉妬の混じる視線だった。

「自分の運命を変える為に強く生きる彼女に比べて、何も出来ない自分の弱さが浮き彫りになるから」

 だから、あまり好きじゃない。本を閉じ、顔を上げて自虐的にそう言ってみせた。変な奴だと思われただろう。普通の女の子はその強さに憧れるものだから。でも、嫌いではないんだねと、乙骨くんがまた私に訊く。私はしばらく考えて、小さく頷いて再び本に視線を落とした。本当はシンデレラみたいになりたくて、でもなれないと思ったから好きじゃないのだと思い込んだのかもしれないと。

「彼女みたいに、自分の運命を変えられるくらい強くなりたい」

 本のタイトルをなぞりながら、父の言葉を思い出す。未だに命令を遂行できていないが、囚われたあの子は無事だろうかと思いながら。大事な人質だから酷い扱いは受けていないはずだと心配をしながら行動する勇気はなくて、かといって反抗する度胸もない。こんな時、この本の彼女ならどうしただろうかと考えて嘲笑が浮かぶ。答えを見つけてもどうせ遂行する勇気なんてないのに。
 ふと漏れた笑いを乙骨くんがどう捉えたのかは分からない。しかし、彼は言う。

「なれるよ」

 顔を上げ、視線を合わせた私を真っ直ぐに見つめて彼はもう一度、なれると口にする。その言葉が力強くて、嬉しくて。そのたった一言で私の中に勇気が生まれた気がした。いつも困った時に助けて寄り添ってくれる姿がまるでシンデレラの魔法使いみたいだと私が言えば、彼は残念そうに王子様にはしてくれないのと笑う。確かに彼は王子様みたいに格好良いし、優しいし強い。誰が見たって理想の王子様そのものだろうが、それでも私は首を横に振り、だってと返す。

「王子様は見すぼらしい灰被りに寄り添ってはくれないでしょ」

 だから乙骨くんは魔法使いなの。乙骨くんは理由を聴いて納得したのか、なるほどと口にしていた。でも、乙骨くんなら王子様も似合いそう。そう言うと彼は少し考え込み、やっぱり僕は魔法使いでいいやと返事する。どうして? そう訊くと彼はいつだってナマエさんに寄り添いたいからと悪戯っ子みたいに笑った。なにそれ。真面目な彼が冗談を言うものだから、つられて笑ってしまった。乙骨くんはやだなぁ、本気だよと本当か冗談か分からないことを言うので余計に可笑しかった。2人の笑い声が医務室に広がる。こうして楽しく話が出来るのなんて、この先、もうないだろう。
 ひとしきり笑いながら、私はそれが冗談だとしても良いと思った。彼のおかげで自分の中に勇気が芽生えたのだから。笑いすぎて涙が溜まる目尻を指で擦り、息を整えながらぱらぱらと本のページを捲る。場面は灰かぶりが魔法使いに出会う瞬間。私は独り言の様に問いかけた。

「魔法使いさんは、また私を助けに来てくれる?」

 返事を期待していないと言えば嘘になる。何も答えてくれなくても良いと思った。しかし、優しい彼は私の問いかけに即座に返事をする。

「絶対に助けるよ」

 それだけでもう満足だった。

「私、頑張るね。……ありがとう」

 この言葉の意味に彼が気付いたかは分からない。分からなくても良いと思った。乙骨くんは晴れ晴れとした私の表情を見て一瞬だけ眉を寄せた様に見えたが、すぐに元の表情に戻るとうんと小さく頷く。それと同時に授業終了のチャイムが鳴り響き、私はぱっと本を持ったまま立ち上がった。戻ろう。座ったままの乙骨くんに手を伸ばし、その手を握れば自分のよりも大きく、暖かくて。この人はどこまで優しいのだろうとツンと鼻の奥が痛くなるの感じながら、私はそれを隠す様に前を向いた。


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