呪術 | ナノ




 ――ああ、前は美味しかったのに、今はただの苦いお湯にしか思えない。
 死んだ魚の様な目をしながらコーヒーを口に含み、額に青筋を作りながらそんなことを考えた。私の周りだけ酷くどんよりとした空気が漂っているのは気のせいなんかではない。コーヒーから視線を移せば目の前には私が注文したのではないケーキが3種類が並べられ、私ではない手が上機嫌にフォークでそのケーキを刺して掬い上げ、その口に運ばれていく。ほくほく顔で食べる姿でさえもやけに腹が立つ。コーヒーも美味しいからケーキだって美味しいのだろうが、今の私には食べる想像をするだけで胸やけを起こしそうだった。ああ、なんだか体調が悪くなってきたかもしれない。手のひらで額を押さえ、とりあえず落ち着こうと息を吐く。対面に座る奴は私の気持ちなんて素知らぬふりをしてどうしたの、お腹痛いならトイレはあっちだよとデリカシーのない言葉を発している。ああ、もうこんなんだったら仕事していた方がよっぽどましだ。今度は頭まで痛み出して、いよいよ私は困り果てた私はどうしてこうなったのかと自分の行動を顧みた。

 あの最悪な元カレとの再会から1か月くらいは、学長との取引通り仕事に忙殺されながらもそこそこに平和な生活を送っていたと思う。交通の便が良い都心のマンションを借り、週の半分は外泊で任務という社畜と言われてもおかしくない日々を送っていても、まぁ、満足はしていた。昨日だって北海道での任務を終わらせて空港から補助監督にマンションまで送ってもらって、帰って泥の様に眠っただけだった。それなのに、起きて見ればリビングには無駄に長い脚を組んだ五条悟が我が物顔で私のお気に入りのソファに座り、これまた我が物顔でキッチンを使いお湯を沸かしてお茶なんて淹れて優雅なティータイムをしていた。やぁと目隠しもせずご機嫌そうに手を上げて挨拶する奴の前にはご丁寧にどこで買って来たのかスコーンなんて準備されていて。おまけに言えばクロテッドクリームとジャムと蜂蜜なんて添えられていたものだから、寝起きの頭で私は都合のいいことしか考えられなかった。
 これはきっと夢の続きだ、と。そうとしか思えなかった私は長いため息をついてからまた寝室に戻り、ベッドに潜り込み再び眠ろうとした。しかし、そうは問屋が卸さないのが現実だった。瞼を瞑ってから数秒後、寝室のドアが静かに開いてすぐにベッドに私ではない誰かの体重が掛かる。誰かって、誰? ……あの五条悟しか居ないだろう。ねぇ、起きてよハニー。なんて数年ぶりに聞いた甘ったるい声音にぞわぞわと悪寒が走る。愛おしそうに頬に触れる指が余計にそうさせた。身体が跳ねる様に飛び起きるなんて、漫画での出来事だと思ったがそうでもないらしい。いよいよこれが夢ではないと自覚した瞬間、私はお気に入りのベッドから文字通りに飛び起きて奴と距離を取った。

「今なら許してあげるからさっさと私の家から出て行って」
「やだなぁ。僕とナマエとの仲だろ?」
「もうあんたとは他人よ、五条悟」

 同格の呪霊と戦う時でさえこんなに警戒しないだろう。全身から溢れる殺気を隠しもせず、へらへらと笑う奴に冷たく言い放つ。しかし、こうやって対峙していても、実を言うと頭の中では混乱と疑問が渦巻いていた。そもそも奴どうやってこの部屋に入ったのだろうか。鍵はちゃんと掛けたし、学長から漏れるはずがないので住所も知らなかったはずだ。ぐるぐるとそんなことを考えていた私は寝起きのせいもあってか、ポーカーフェイスを努めようにも上手く出来ていなかったらしい。なに変な顔してんのウケる、なんて余裕そうな顔でベッドに寝そべる奴にからかわれてしまった。
 勝手に横になるなと睨んでみても、都合の悪いことは右から左に抜けて行ってしまうらしい。鼻歌なんて歌いながら、五条悟はナマエの匂いがすると枕に顔を埋めながら呟いていた。それを見た瞬間、真顔になって枕を処分しようと決心する。もうベッドも枕も布団も全部あげるからさっさと帰って。出会って5分もしないのに1週間分の疲労が溜まった気がして、私は諦めて本当にお願いだからと懇願してみた。しかし、奴はヤダと即拒否をしてにやりと口角を吊り上げ、じゃあさ、と提案を寄越してきた。

「僕のお願い、聞いてくれたら帰ってあげる」

 ろくでもないことを考えているのは間違いなかったが、もういい加減帰って欲しかった私はお願いって何と訊いてみる。すると待ってましたとばかりにますます楽しそうに、そして邪悪に顔を歪ませた奴はとんでもないことを言い放つ。

「セックスしようよ、これから。ここで」

 その綺麗な顔面から出てきたのはこれまた下品な言葉で、私は即座に死んでも嫌だと拒否をする。ある程度は予想出来てはいたが、ここまでだとは……。私の返事が不満だったのか、五条悟は相変わらず寝そべりながらブーイングをしている。その様子からこのまま奴と話をしていても平行線を辿るだけで結末なんて一生来ないだろうと予想した私は、クローゼットを開けて適当な服を取り洗面所で着替えてそのまま適度に身支度をしていく。顔を洗って軽く化粧をしながら、もう良いやと考えた。家具なんて新しく買えば良いし、服もまた集めれば良い。居座るつもりならこんな家、奴にくれてやる。最後に髪の毛をそこらへんに置いてあった髪ゴムで纏め支度を終えると、鏡に映る自分を見ながら気合を入れて洗面所から出た。途中で玄関に置いてあったこの家の鍵を取るのも忘れずに。
 せめて一口だけでも水を飲みたかったが、一刻も早く五条悟から離れたかった私は諦めて足を進める。リビングに出るとベッドに寝そべるのも飽きたのかそれとも単純にお腹が空いたのか、奴はまたソファに座って呑気にスコーンを食べていた。おかえりなんて軽い調子で言われるから余計に疲れてくる。それは深いため息をついて、手に持った鍵を投げて渡すと、それを難なく手で受け止めた奴はなにこれと食べる口を止めずに訊いた。

「この家の鍵。あんたにあげる」
「やだ……、ナマエって気が早いのね……」
「違う!! あんたが出て行くつもりがないなら私が出て行くだけよ!」

 この家はくれてやるから、じゃあね。そう言って背を向けて手を振って見せれば、背後からは予想していなかったのか少し間抜けな声が聞こえて気分が少し良くなった。これでまた引っ越せばしばらくは安寧の日々を過ごせるだろう。想定外の出費は痛いが、物を選んで買うのは楽しいしいいや。そんなことを考えて自分を納得させつつ玄関へ向かおうとするが、そうは上手くいかないのが私の人生らしい。ねぇ、とすぐ後ろから声が掛かったかと思えば腕を掴まれ、無理やり方向転換させられる。いつの間にか音もなく近付くものだから驚いた私は目を見開いてその顔を見上げた。影になっていてもやたらと輝きを放つ瞳はいやに存在感があった。何のつもりかと睨むが五条悟の表情はやたらと真剣で、憎まれ口が出てこなくなる。つい押し黙った私ににっこりと笑った奴は1つだけ約束してくれたら帰るよと言った。
 いかにも何かを企んでそうで嫌だと返すと、そんなに警戒しないでよと奴は表情を変えない。手を振りほどこうにも逃がさないとばかりに強く握られていて、私は諦めのため息をついた。もうどうにでもなれ。空いている手で髪の毛をかき上げて内容だけは聞いてあげると伝えると、強情だった女がやっと折れたからか五条悟は簡単なことだよと笑みを深くした。

「明日、暇でしょ? デートしようよ」

 思っていたよりも可愛い条件に拍子抜けした私は、そんなので良いのと思わず訊いてしまう。五条悟はうんと頷いた。予想していたよりも悪くない条件に私は考え込む。せっかくの休日をこのクズ男に費やすか、ここで断ってまた逃亡の日々を続けるかを天秤にかけ、しばらく悩む。正直、家を探したり物を買うこと自体はそこまで苦ではないので断っても良かった。だが、奴の様子を見るに1度は話し合いの席を設けないと今後もこういったことは何度でも起こり得るだろう。その度に心労が重なると考えると、あまり良い判断だとは思えない。結果、五条悟の提案に乗ることにした私は分かったと頷くしかなかった。こうなることを予想していたのか上機嫌で良かったと白々しく返事する奴に、まんまと乗せられたなと頭が痛くなる。しかし、それもここまでの話だろう。
 場所は、と早速ことを進めようとする奴の言葉を遮り、私が発言する。これ以上好き勝手にされてたまるかという意思表示でもあった。

「場所は私が決めます。異論は許しません」

 有無を言わさぬ声音で伝えると、私が本気だと分かったのか奴は両手を上げて降参ポーズを取り分かりましたとおどけた。条件も呑んだし、奴も満足しただろう。これでようやく帰りそうだと悟った私は、場所は後でメールを送るからとりあえず帰ってと玄関までの道を明け渡す。まだ居座るつもりだったのか五条悟は不満そうに頬を膨らませていたが、これ以上は譲れないと強気な態度を取り続けるとやっと諦めたのか、長い脚を未練がましくわざと歩幅を狭めて玄関へと歩いていく。いかにもしぶしぶといった雰囲気が伝わってきて、私はその背中を押して早く帰れと伝えてみる。玄関に着き靴を履かせ、わざわざドアを開けてどうぞとエスコートしてみると項垂れながら奴は一歩外へと出た。その瞬間にじゃあねとドアを即座に閉めてやると、私は妙な達成感を味わうのであった。

 そうして翌日。私は約束通りにとあるカフェで五条悟を待っていた。席は窓際、向かいには有名ブランドのお店。そう、あの日浮気を目撃した時に来たカフェである。そんなことなんてつゆ知らず、のこのこと現れた奴は呑気にケーキを3つも頼み堪能し始めるので、私は冒頭の様に頭痛と戦う羽目になってしまうのだった。

「ねぇ、なんでそんなに緊張感ないの」
「ケーキが目の前にあるから」
「……はぁ」

 いつもと変わらない調子に肩の力が抜けてしまい椅子の背もたれに身体を預け、気を紛らわせようとあの日と同じ様に何気なく外を眺めた。行き交う人は平日だからか少ないのもあるが、どうしても視線は向かい側にあるお店に向いてしまい鮮明にあの時のことを思い出す。しかも、タイミングが良いのか悪いのか、若いカップルがお店から出てくるものだから余計にだ。五条悟がケーキ要らないのと訊いてきているが、それを遮り質問する。自分で驚く程に静かな声だった。

「浮気するってどんな感じ?」

 視線は相変わらず外に向いたままなのでその表情は分からないが、忙しなく鳴っていた音がしなくなったので食べるのを止めた様だ。しばらく待っても返事が無いので仕方がなく視線を戻してみると、五条悟と目隠し越しに視線が交わった気がした。私は何も言わずじっと何かを言うのを待ってみると、奴はフォークを置きあっけらかんと言ってきた。

「お遊びだよ。君に中々相手してもらえなかったからその代わり」

 思った以上にクズな発言に思わず笑いが込み上げてくる。その言葉から、あの日に見た女の子以外にも多くの相手が居たのだろう。確かにお互い忙しいから会う時間も少なくて私も反省すべきだったのかもしれないが、だからと言って流石に浮気はないだろう。嫌悪感を隠さずに質問を続ける。

「バレなければ良いと思った?」
「いや? バレても許してくれると思った」
「そんな訳ないでしょ」

 私が女神の様に懐が深いとでも思ったのかと、予想の数倍も単純明快な返事に呆れを通り越して最早なにも感じなかった。とりあえず浮気の意図を知ることが出来たのでもう奴には用が無くなった。私の話はもうないので立ち上がろうとすれば、まぁ待てよと呪力でプレッシャーを掛けられる。元通りに座らされ、なんのつもりだと睨むが五条悟は余裕そうな表情で笑っていた。

「僕らやりなおさない?」

 冗談にしても笑えないと皮肉を込めた嘲笑が出てくる。表情を変えない男に私はにっこり笑うとそれは明るい声で答えてやった。

「世界の終わりが来たら考えるわ」

 五条悟は私の言葉にそうとだけ返事をすると、再びフォークを取りケーキを食べ始める。これでようやくこの関係が終わりそうだ。悩みの種が消えた私は財布から1万円を取り出すとテーブルの上に置き、さようならと残して席を立った。


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