呪術 | ナノ




 秋も深くなり寒さが少しずつ肌を刺激しだす11月の終わり。年に数回あるかないかの午後休暇を取得していた私はある程度の仕事を午前中に終わらせ退勤の準備をしていると、同僚から今日は早いんですねと声を掛けられた。午後休もあるがいつもの仕事着じゃなくて私服でお洒落をしていて、メイクもお手洗いで直していたのが珍しかったのだろう。上司からも同僚からも仕事人間と言われるくらいの女の様子が普段と違えば、そう言いたくなるのも仕方がないとは思う。彼の言葉に、私は笑ってまぁとお茶を濁してそそくさと会社を出る。これから男と会ってきますなんて、口が裂けても言えない。いや、これくらい気合が入っているのなら、もしかすると気付かれているかもしれない。
 空調の効いたビルから一歩外に出ると頬を撫でる空気が思った以上に冷たくて、お気に入りのカシミアのマフラーに顔を埋めて思わず寒いと呟いた。ハロウィンも終わり街の風景は来たるクリスマスに向けて一気に様変わりしたからか、それとも雰囲気のせいかカップルがよく目立つ。その気に当てられてかただ単純に楽しみなのか、こちらまでなんだか浮き立ってくるのは私だけではないはずだ。
 会社からある程度離れて立ち止まり、右手を上げて時計を確認すれば時間はまだ12時40分。約束の時間は17時だから、軽く食事でもして映画を一本観るくらいの余裕はありそうだ。久しぶりの自由な時間に自分で思っていたよりも心が躍っているらしく、いつもより3センチ高いヒールを鳴らしながら足取り軽く道を歩くのだった。

 オフィスビルが多く建ち並ぶ場所のおかげか、周囲の食事処は多くの人が順番待ちしていてどこも気軽に入れる様な気配はなかった。朝から死ぬ気で仕事を終わらせるため机に齧りついていたのでお腹の中は空っぽだが、順番待ちをしていたら映画の時間に間に合いそうにない。そんなことを考えるとこの付近で食事を摂るのは得策ではなと考え、はっと1つの解決策を思いついた。もういっそのこと、映画を観ながらジャンクな軽食でも食べればいいのでは、と。
 幸い、週末ではあるが平日のお昼だと人も少ないだろうし、再上映の映画だから座席を選んで後ろの方でならば物を食べていても迷惑にはならないだろう。良いことを思いついたとばかりに肩に掛けた鞄をぎゅっと握ると、善は急げと足早に駅の方へ向かうのであった。

 歩き始めてしばらくして駅の出入口が見えてくると、私は時間を気にしてもう一度腕時計を確認した。時刻は13時少し前。今から移動して映画館に行けば待ち合わせには十分に間に合いそうと考えて顔を上げ、進行方向から何気なく視線を動かした時、視界の端になんだか見覚えのある人物を捉えた気がして思わず立ち止まる。人が多く行き交う中でもその存在感は抜きん出ていて、背が高いからか余計に目立っているように感じた。清潔そうな白い制服と整った顔立ちの彼は立っているだけなのにこの上なく絵になっていて、女性だけでなく男性までも二度見している様子だった。
 しかし何故、この時間に彼が、――乙骨くんがこんな所に居るのかと疑問が出てくる。確かに今日、私は彼と会う約束をしていたが、それは17時からなので集合時間には早すぎる。普段から仕事で忙しいと聞いていたのに、どうしたのだろう。気付かなかっただけで実は連絡を貰っていたのかもとスマホを確認してみたが特にそれらしいメールはなく、このまま無視して行く訳にもいかなかったので一瞬だけ躊躇って彼に近付いていく。こうしてもじもじしている間にも乙骨くんは何人かの女の子に声を掛けられていて、誰が見ても背が高くてかっこいいのだから声を掛けたくなるのも理解出来てしまう自分が居た。その時に遠くで彼の対応を見ていたが、持ち前の柔らかな態度と笑みで優しく断っているものだから、これでは断られた方が余計に彼の虜になってしまうだろう。本人はどう思っているかは知らないが、モテるはモテるなりに大変そうだなと勝手に同情してしまった。

「こんにちは、お兄さん」

 名残惜しそうに女の子たちが去り、何かを考え込む様に下を向いた乙骨くんに声を掛ける。悪戯心でナンパする様な台詞を言ってみたせいか顔を上げた時の彼の表情は完全に外向けのもので、私は初めて彼と会った日の様な感覚を思い出させた。懐かしいなと感じるのも束の間、一瞬だけ作られたその表情は私の顔を確認した途端に人懐っこいものへと変わり、驚いた声で彼が言葉を発する。

「ナマエさん!」
「ごめんなさい、つい出来心で」

 また知らない人から声を掛けられてどうしようかと思いました、と困った表情をしていたので両手を合わせて謝れば、乙骨くんはナマエさんだから良いですとなんとか許して貰えた。その時に知らない人には見せないであろうどこか幼さを残したあどけない笑みを浮かべるものだから、耐性のない私は思わずうっと心を掴まれた感覚になってしまう。この子はどうすれば人の心を掴めるのか自然と分かっているのではないか、と思うくらいに自然な言葉選びに恐ろしささえも感じるほどだ。傍から見ていても良い子そうで実際に話をしてみても優しくて良い子で、果てには見た目も良くてコミュ力も相当あって欠点らしきものはこれまで一度もみたことがない。もしかすると今まで出会ってきた人の中で、一番と言っても過言ではないくらいに侮れない子ではないだろうか。本当に、持っている人間というのは実在するのだなとつくづく感心してしまう。

「誰かと待ち合わせ? 私との約束はまだだったよね」
「いえ。この後あった仕事が無くなっちゃって。……ここに居れば、ナマエさんに会えるかなと思って」

 実は、ナマエさんに早く会いたかったのが本音です。なんて少し黙った後に照れた表情で囁く様に言うものだから、こちらも恥ずかしくなったのは言うまでもない。口が上手いんだからとは声には出さず、指先で頬を冷やしながらこほんと咳ばらいをすると、大人らしく落ち着いて私も楽しみにしていたと伝える。慣れない甘ったるい空気に緊張して、声が僅かに上擦っていたのは気にしないで欲しい。
 気を取り直して改めてこの後に用事は無いのかと乙骨くんに問うと、彼は縦に頷いて肯定したのでデートしないかと提案してみた。デートとは言っても私の映画鑑賞に付き合ってもらうだけなのだが、ご飯も奢るし映画代も出すと続ける。彼はほんの少し驚いた様に目を開くとすぐに笑顔になり、はいと快諾してくれた。断られたらどうしようかと考えたが、余計な心配だったらしい。私は改めて時間を確認すると、じゃあ行こうかと駅の方へと足を進めた。
 電車で移動している時にネットでチケットを予約し、到着してからはポップコーンと飲み物にホットドック等の軽食をいっぱい買った。乙骨くんは遠慮してか飲み物だけで良いと言っていたが、私が食べたいからと押し切って好きなものを選ばせた。もしかして本当にお腹が空いていなかったのかと不安になったものの、上映が始まればしっかりと綺麗に食べ始めたので取り越し苦労だったらしい。他の観客も私たち以外には数人しか居なかったのでそこも安心した。
 映画中、私はとにかく主人公の衣装に釘付けだった。毎日コンセプトも違えば、色もタイプも違う服なのにとにかくまとまっていて綺麗な仕上がりで、ブランドの服だったのもあるだろうがなによりそのコーディネートがとてもとても素敵だったのだ。彼女と同じものなんて今の自分には到底集められないが、服の合わせ方は参考になりそうなので帰ったらネットでブルーレイを注文しよう。そんなことを考えるくらいには映画を楽しんでいた私だが、隣に座る彼も楽しめているだろうかと心配する。時折、ちらりと盗み見をして確認していたが、じっと真剣に見ていたので大丈夫そうだった。横顔も非の打ち所がないくらいに綺麗で、とにかく眼福だったのは秘密にしておこう。

 映画も終わり外に出ると、辺りは既に薄暗くて雨が降り出しそうな空模様だった。なんだか空気も湿っていて、折り畳み傘なんて持っていたっけと鞄を漁る。パソコンと書類の林をかき分けて出てきたのは小さな傘一本で、とりあえずあったことにほっとする。これならば乙骨くんが濡れて帰ることは無さそうだ。そんな大雨が降らない限りは。なんてフラグみたいなことを考えた瞬間、不意にぽつりと空から水が降ってきた。
 あ、と思ったのも束の間で、最初はぽつぽつだった雨は次第にサァサァと絶え間なく降り始め、すぐにバケツをひっくり返した様な豪雨へと変化していった。どうしよう、こんな傘一本では2人なんてとても入れられない。タクシーは既に長蛇の列で、運悪く近くにコンビニはない。この後、私の自宅まで来てもらわなければならないのに、辿り着く前に風邪を引かせてしまいそうである。
 どうしようかと1人でおろおろしていると、乙骨くんは貸してくださいと傘を取りとりあえず駅に行きましょうとそれを開く。濃いブルーの折り畳み傘は彼が持つと余計に小さく感じたが、また行きましょうと有無を言わせない笑顔で繰り返されてしまっては従わざるを得なくなってしまう。彼が持つ傘の下にそっと潜り込めば、彼はすっと歩き出した。頭上でに響く水の叩きつけられる音を聞きながらちらりと横を見れば、やはり小さなこの傘では2人の体が入りきれなかったらしい。白い制服の左肩が明らかに雨に濡れて色を変えていた。

「乙骨くん、もっとこっちに」

 私が濡れても良いからと慌ててその腕を引っ張ってみる。しかし、彼はだめだと首を振った。

「ナマエさんの綺麗な姿を雨に濡らすなんて、僕には出来ないですよ」

 あ、でも、もっとくっ付いてくれるなら僕としては濡れても役得かな。なんて悪戯っ子みたいに笑うものだから、私の心はまた鷲掴みにされてしまった。そこらの大人よりもよっぽど表情豊かで口達者なものだから、咄嗟に返す言葉が見つからない。うっと言葉を詰まらせてなんて返事すべきかと考えていると、それを見越してか上機嫌な乙骨くんは1つ提案をしてきた。

「次の土曜日は休みなので今日のお返しに、デートしてくれませんか?」

 もちろんナマエさんが良ければのお誘いですけれど。言葉上では選択肢を与えているつもりだが、どう考えてもイエス以外の返事を聞く気はないらしい提案だ。その自信溢れる表情からも巧みな言葉選びからも、年上のはずの私でも彼には敵わないと思ってしまう。本当に、予想外の出会いに映画に豪雨にデートのお誘いと、今日は全て想定通りに行かない日だと思った。きっとここで断ったとしてもあの手この手で彼は丸めてくるのだろう。そう考えると私の返事は1つで、分かったと首を縦に振るのみだ。良かった、なんてほっとした表情を浮かべる彼は余程の策士だと思う。狭い傘の中でぐっと近くなった距離にどぎまぎしつつも、次のデートはどこに行こうかと贅沢な悩みで頭を一杯にするのであった。


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