呪術 | ナノ




 ――それは熱帯夜で暑苦しい夜に見た、甘やかな夢だったのだと思う。
 私は前世で何か悪いことでもしたのかと疑いたくなるくらい運の無い夜の話だ。その日、寝る前にお風呂で昼間の汗を流して自室に戻ってエアコンを付けたのだが、運転音がして出てきたのは何とも生暖かい風で私は一瞬現実逃避をしてしまう。すぐに我に返り急いでリモコンを手に持ち、ボタンを数回いじっては出てくる風を体で確認するという作業を繰り返してみたが風の温度は一向に下がらず。記録的な熱帯夜のせいで数秒静止しているだけでも体から一気に噴き出した汗のおかげか、やっと私はエアコンが壊れたという事実を認識してしまった。まさかこんなタイミングでと呆然とするも、気を取り直して野薔薇の部屋に泊めてもらおうと部屋を出る。最悪床にでも寝られればいいやと訪れた彼女の部屋だったが、名前を呼びながらいくらノックをしても反応がない。時刻は午後9時。彼女が寝るにはまだ早い時間帯だし、飲み物でも買いに行っているのかと考えた時に思い出してしまった。そういえば昼頃から任務があるって言っていたと。この時、私はこの世に神なんて居ないのだと思った。
 じゃあ今度はと藁にも縋る気持ちで流れる汗を無視しつつ、足を動かし真希先輩の部屋のドアをノックしてみる。これまた返事はない。そうしてまた思い出す。そういえば野薔薇が付き添いで行くって言っていたことを。なんで今更そんな重要なことを思い出したのか。私は呆然を通り越して絶望した。どうして今日に限って。誰も居ないドアの前でしゃがみ込み、私は己の運命を呪うしかなかった。とりあえずエアコンの修理依頼はしておかないと。スマホで五条先生にチャットを送ると、すぐに了解の返事が来て一安心する。この暑い中で寝るのかと思うとどうしても自室に戻る気になれなかった。自販機で冷たい飲み物を買って暑さにやられた身体を冷やすと、私は外なら涼しいのではないかとふらふら歩き出した。
 外に出てみると暑さは変わらないものの建物内よりかは空気が涼しく風があって大分ましに思えたが、ただでさえ森に囲まれ街灯が少なくて真っ暗な外は思っていた以上に不気味で背中にぞわりと悪寒が走る。そういえば古くてボロボロなこの寮に、今は私しか居ないのか。そう改めて突き付けられた現実に心臓が跳ねた。高専には結界があるので呪霊が居ないことはよく理解している。しかし、どうしてもここに居ると以前に観た日本のホラー映画を想像して少しどころかかなり怖くなってしまった。うん、やっぱりさっさと戻って寝よう。恐怖で冷えてきた身体を手で擦りつつ急ぎ足で回れ右をした時である。

「あれ、ミョウジさん」
「――ぎゃああ!!」

 突如頭上から降ってきた男の声に、私は女子らしからぬ叫び声を上げ猫の様に跳ねたかと思えばその場にへたり込んだ。今の自分に何が起こっているのか分からないが、とにかくここから逃げないと。任務の影響か授業の賜物か、慌てて起き上がって移動しようにもあまりに驚きすぎたのか立ち上がれない。すぐに腰が抜けてしまったのだと理解した。いくら立ち上がろうと力を込めようとしても脚は一切動かず、手でさえも力が抜けて物も掴めない状態だった。驚きすぎて腰を抜かすなんてことは初めてだった。パニックで困惑した声を出しながらあたふたしていると、焦った様な声が頭上から私の後ろに着地したらしい。とりあえず動く上半身をばっと捻り、この状態になった元凶を確認する。
 ――そこに居た人物の名前を、私は安堵と共に半泣きで呼んだ。

「お、こ……せん、ぱ……」
「あああ! ごめん、本当にごめんね!!」

 人生初の体験をさせてくれた張本人の乙骨先輩は、最早恐怖で半べそをかいている私に慌てて近づくと顔を青くしてそれはもう必死に謝ったのであった……。

 ぐすぐすと鼻をかむ音だけが辺りに響いていた。私は相変わらず腰が抜けて玄関前でへたり込んだままで、任務から帰ってきたばかりなのか白い制服を着たままの彼は眉をハの字にしてそわそわしている。まさか声を掛けただけなのにここまで驚かれるとは思っていなかったのだろう。涙が止まり普通に会話出来るようになっても、その顔色は若干悪い。

「すみません、落ち着きました」
「いや、僕が悪いから……。本当にごめんね……」

 立てる? 先輩は右手を差し出してからそう訊いてきた。私は僅かに頷いてその手を取り、引っ張り上げてもらう。腰を抜かしていたせいでまだ足が小鹿の様に震えてはいるが、なんとか立つことができた。

「先輩、なんでこんなところに居たんですか」

 するりと華奢ながらも男らしい手から離れてから、気になっていたことを訊くと先輩は上を指差して笑う。

「星を見に来たんだ」

 私はその指先を追い、空を見上げて思わず立ち尽くした。暗い夜空に流れる天の川は見惚れざるを得ない程に美しくて、顔だけを上げてそれを眺める私に先輩は1つ提案をしてきた。その声はどこか嬉しそうで、心なしか明るい。

「よかったら、一緒に観ない?」

 私はその提案に、反射的に先輩の方を向いて元気よく頷いた。断る理由なんてないので当然だった。良かった。安心した様に息をつき、笑う先輩はまた右手を差し出す。私は誘われる様に彼に近付きながら、まるで悪魔と甘美な取引をしているみたいだと思った。

 ――しっかり掴まってて。
 乙骨先輩は私を抱き上げるとそう言うなり脚に力を入れて地面を蹴った。上から降りかかる重力と少しの浮遊感が何回か繰り返され、無意識にぎゅっと目を閉じて縋る様に首に回す腕を強める。時間にして数秒経った頃、浮遊感から解放され地に足を付けた先輩は、少し屈んでから私を支える手をゆっくりと外し着いたよと言う。そろりと目を開けて腕を離すとそこはまだ見ぬ寮の屋根の上で、私は思わず感嘆の声を上げ辺りを見渡す。

「すごい! 空が近いですね!」

 初めてのことではしゃぐ私に、先輩は危ないよと言いつつ笑っている。まるで子どもの面倒を見ているみたいだと気が付いて、私は途端に大人しくして立ち止まるとその様子が可笑しかったのか余計に笑われてしまった。今更ながら恥ずかしさが込み上げてきて、耳が熱くなっていく。きっとこれは暑さのせいだと言い訳をして、私は乙骨先輩の隣に移動した。

「よくここに星を見に来るんだ」

 乙骨先輩はハンカチを敷き私を座らせてから自分も横に座ると、空を見上げて懐かしそうにそう言った。その表情で何となく察して、訊いてしまう。

「もしかして、誰かと」
「そうだよ。もちろんこの指輪の相手じゃないけどね」

 左手を空にかざしながら先輩は笑った。指輪は相変わらず薬指で輝いているが、それは結婚しているからではないと真希先輩が言っていたのを思い出す。では、誰と。そんな疑問に、私は一瞬真希先輩かと思ったがすぐにをの考えを消した。どう考えても違う。その視線の先にあるのは、きっと私なのだから。
 真希先輩と私に向ける視線と表情には圧倒的に差があった。初めて抱き締められた時だって、私が失礼なことを言ってその後に謝った時だって、乙骨先輩から受ける視線に含まれる感情はただの友人関係だったとは言えないくらいに強いものだったのだから。それに気が付かないほど私は鈍感でもないし純真でもない。あの雨の朝に気になったあの瞳も、きっと記憶を失う前の私に向けたものだったのだと思う。
 時折そよぐ風と虫の鳴き声しかしない穏やかな空気の中で、私のことですかなんて質問する勇気は流石になかった。2人ともただ横に並び、ただ空を見上げ煌めく星空を目の奥に焼き付けていた。初めて見るはずの天の川はネットで見たよりもずっと綺麗で、だけどどこか見たことのある気がして。こうして隣に居る先輩の存在にも違和感がないので、以前も彼と見たのだろう。
 お互いに伸ばした手は思ったより近くにあったのか、そっと触れ合い私はぴくりと指が跳ねさせた。不思議と自分の体温でないそれは嫌ではなく、私は触れたままの手を動かさなかった。先輩も一瞬息を詰める気配がしたが、私が逃げないので気配を緩める。しばらくすると彼の骨ばった指が小指に絡まり、途端に心臓が忙しく動き出した。

「綺麗、ですね」
「……うん、そうだね」

 ああ、ずっとこの時間が続けば良いのに。胸に空いた穴が少し埋まっていく気がして、私は何故だか泣き出したくなり唇を僅かに噛み薄く張る涙をぐっと堪える。彼には気付かれませんように。私の細やかな願いを、流れ星は聞いてくれるだろうか。胸の内を隠す様に、私は絡まる小指を離したくないと力を入れるのであった。


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