「リーシアー! 遅刻しちゃうわよー!」

 朝、眠気眼で歯磨きをしているとママのひと言で現実に引き戻された。リビングから漂ってくるのか甘いトーストとハムエッグの香りが腹の虫を鳴らすが、春ももうすぐ終わりのぽかぽか暖かい陽気はいまだにしつこく私を夢の世界へ誘おうとしていた。食欲と睡眠欲どちらを優先すべきかと脳内で葛藤する。そして一瞬、睡眠欲に傾きかけた。いや、ここで寝るのはさすがにまずいと止めていた手を動かし始める。気を抜いたら落ちてきてしまう瞼を引き戻すため、手短に歯磨きを終わらせ蛇口から出る冷たい真水を両手に溜めると前髪が濡れるのも気にせず顔を突っ込んだ。

 つい半年前の話になるが、去年のジムチャレンジが終わると11歳になった私は同時に通常の小学校からマクロコスモス社公認のトレーナーズスクールに通い始めた。それに合わせて私たち一家は祖父母の住んでいるターフタウンから、パパの仕事の都合に合わせてナックルシティに引っ越しをした。大好きな祖父母の近くから離れるのは悲しかったが、これから始まる新生活にワクワクしていたのも事実だった。初めはジムスタジアム周辺の人気のエリアに引っ越そうとパパが言っていたのだが、ママの強い希望によりシティのメイン通りから少し外れたワイルドエリアが綺麗に見える一画にある庭の広い家に決まった。

「ママ、ルカリオ、行ってきます!」

 朝の支度を終えてママに髪の毛を結ってもらい、朝食を摂ってミルクを飲み干してから鞄を掴み家を飛び出る。庭にはママの育てている自慢の花が数種類咲き乱れ、私はその中から一本のピンク色の小ぶりなバラを園芸用のハサミで切り棘を取り除くと、スクールバスの停留所へ向かうべく足取り軽く歩き出した。

 メイン通りに入り歩くこと10分。ひと際多くの人々が賑わうエリアの一画にあるブティックの前で、私の足は不意に止まった。淡い水色のプリーツスカートワンピースにお気に入りの白いカーディガン。「可愛いかな」なんて思いながら、ガラスに映る自分を見て前髪を整える。全身を確認しようと体を動かすたびに、ツインテールが楽しそうに揺れた。ある程度満足いくまで確認し終えると、私の足はまた軽快に動き出した。目指すはシティの中心、ナックルスタジアムだ。

・ ・ ・

 ナックルスタジアムに着き正門の前に立つと目の前のスタジアム……というより、お城を仰ぎ見た。何度訪れてもその大きさに圧倒されてしまう。見上げても目に収まりきらないくらいの堂々たるその建物は、一歩入ろうとするにも少し勇気が必要な気がした。背負った鞄のベルトをぎゅっと掴み気合を入れると、そっとつり橋に足を乗せた。初めて訪れたときも今も、滅多に見られない真っ赤な絨毯を歩くのはなんだか自分がお姫様になった気分になって心が弾む。

「こ、こんにちは!」

 ジムスタジアムは基本的に24時間開放されてはいるが、今は朝の7時半なのにいつも居るはずの関係者が1人も見当たらない。石城ならではのひんやりとした、尚且つ厳かな空気が私を包み込み少し気後れしてしまう。ううん、ここで諦めてはだめだ。下がりそうになった右足を、私はなんとか気合でその場に踏ん張らせた。結局、何度声を張って誰か居ないかと問いかけても、一向にそれへの反応は無かった。

 さすがに立ち入り禁止と書かれた看板の向こうへずけずけと入って行く勇気はない。手元で握ったままのバラは渡すことも出来ないまま、萎れてしまいそうだ。残念だけれど仕方がない。そう思いながらの私は足取り重く、とぼとぼと出口へ向かおうとした。

「あれ、誰かと思えば。リーシアじゃねーか」

 足元に自分のものとは明らかに違う、大きな影が差してからした声は待ちに待った人だった。振り返れば目の前はなぜか一面の黄緑色。顔を上げればオレンジ色の大きな瞳と私の目がかち合った。

「おいおい、珍しいのは良いが悪戯はするなよ?」

 キバナさんはフライゴンにそう忠告するが、フライゴンはといえば聞こえていないのか聞いていないのか熱心に私をじぃっと見ていた。警戒している訳ではなく敵意は感じられない。ただの興味からの観察なのだろうかと私は首を傾げると、フライゴンも私の真似をして首を傾げた。右手を上げればフライゴンは左手を上げる。手を振って見せれば、フライゴンも同じように動かす。何度やっても何をしても、フライゴンは嬉しそうに同じことをしてくれる。それが楽しくて夢中で遊んでいたら、つい忘れてしまっていたキバナさんの大きな手のひらが視界の端からヌッと割って入ってきた。

「楽しんでるところ悪いが、そこまでだ」

 少し呆れたような顔でフライゴンを見ながら、キバナさんは言った。言われたフライゴンは不満そうに尻尾を揺らして何かを訴えているが、キバナさんは取り合わない。終わりだというキバナさんに、フライゴンは顔を横に大きく振ってやだ。終わりだ! やーだ!

 短くも激しい攻防の結果、結局折れたのはフライゴンで最後はいじけてそっぽを向いてしまうのであった。

 そんな気まぐれな相棒に苦笑いしつつ、キバナさんはさてと気を取り直し改めて私の前でしゃがんで目線を合わせた。

「前に会ったのは開会式のときだったよな。元気にしてたか?」

 先ほど名前を呼んでくれたときからまさかとは思っていたが、あのどさくさの中でもちゃんと覚えててくれたらしい。嬉しくて、心臓がトクと小さく鳴った。

「私のこと、おぼえててくれたんですか……?」

 今は誰も居ない空間だからか、私はすんなりと声が出せた。しかし、随分とか細い声になっていたかもしれない。キバナさんは自信満々にニッと笑うと、「当たり前だろ? オレさまだぜ?」と言って頭に手を伸ばしてきた。しかし、すぐに降ってくると思っていた重さと感触は、なかなかやってこない。不思議に思い頭上を仰ぐと、その手は宙に浮いたまま固まっていた。

「……っと、せっかく綺麗にしてるのに崩しちまうところだった」

 ママが綺麗に結んでくれたツインテールを気にして、手を止めてくれたらしい。気遣ってくれて嬉しい反面、頭を撫でてもらえなくて残念な気持ちになったのは言うまでもない。1人取り残されて2人で楽しそうにしてるのでつまらなくなったのか、フライゴンが不満そうに鳴き、キバナさんの背中に頭を押し付けて抗議し始めた。ぐりぐりと容赦なく巨体を押し付けるから、キバナさんでさえもその重みを耐えきれずにつんのめってくる。危ない! そうやって思わずキバナさんを支えようと両手を突き出すと、この場に似合わないピンク色にキバナさんの動きが止まる。フライゴンもつられて背中越しから覗き込んだ。

「――バラ?」

 まだ完全に開ききっていない小さな花だが、香りはちゃんとするのでフライゴンはもの珍しいのかすんすん匂いを嗅いでいる。本当はもう少し落ち着いて渡したかったのだが、思わず出してしまったのでもう勢いで渡してしまおうと両手でバラを持ちキバナさんの前に突き出した。

「あのっ、これ、ママのお手伝いして一緒に育てました!」

 雑草抜いたり、毎日お水あげたり、肥料も手作りでルカリオと土に混ぜたり! と緊張していらないことまで口走ってしまう。でも、仕方がないと思ってほしい。いつもはジムトレーナーのヒトミさんに花を渡してもらっていたのに、今日はキバナさん本人に直接なのだから。しばらくして思いつく限りのことを言いきると、私の心臓はバクバクと忙しなく動いていた。整えて俯き加減で言う。

「……よかったら、貰って、くれませんか……」

 尻すぼみになってしまった語尾は、バチュルの鳴き声みたいに小さかっただろう。突き出された花は一向に受け取られる気配がなく、もしかして嫌だったのかと不安になって恐る恐る顔を上げる。そこで見たのはぱちくりとあまり見れない表情をしているキバナさんで、花と私の顔を交互に見たかと思えば次にはパッと表情に花が咲く。

「毎週花届けてくれたの、リーシアだったのか!」

 どうりでヒトミのヤツ誰がくれたのか教えてくれなかった訳だ。キバナさんは1人で勝手に納得していた。

 私の大好きなキラキラした笑顔でお礼を言って花を受け取ったキバナさんは、少し待っててくれとどこかへ小走りで消えていく。フライゴンは邪魔者は消えたとばかりに私に遊んでと笑顔で頬擦りしてくる。ものの1分も経たずに戻ってきたキバナさんは構ってほしくて巨体を押し付けるフライゴンと、なんとか押し倒されように奮闘する私という絵面にため息をついた。

「ほら、離れろフライゴン。リーシアが困ってるだろ」

 フライゴンを私から引き剥がしてそこで待ってろと言いつけると、キバナさんは中腰になって花の代わりに持ってきた、リボンで可愛らしくラッピングされた箱を手渡してきた。何だろうと受け取ったそれをじっと見ると、いつものお礼だとキバナさんは言う。どうやら話を聴くと、今までヒトミさんに渡してもらっていた花は誰からとは言われずにキバナさんへと渡されていたらしい。キバナさんがいくら問い詰めてもヒトミさんは「可愛らしいあなたのファンです」としか答えなかったそうだ。でも、女の子だとは聞かされていたので、いつか渡せるときが来たらお返しを渡そうと準備していたらしい。そしたらまさかその女の子が、私だとは思っていなかったみたいだが。

「ありがとうございます。……すっごく、すっごく嬉しいです」

 じわじわと充足感が心に染み渡った。赤い包装紙に金色のリボンでラッピングされたプレゼントにはナックラーのシールが貼ってある。手元にあるその小さなプレゼントの中身が気になっていると、キバナさんは「開けてみな」と促した。ナックラーのシールを破かないように綺麗に剥がし、もったいないと思いつつリボンを解いて包装を開けていく。固く小さな箱を開けると、そこには黄色と白とピンク色のコスモスがモチーフのヘアゴムが二つ、光を受けてキラキラと輝いていた。透明で大き目なビーズがお姉さんらしさを醸し出していて、少し背伸びしたデザインは私の胸を高鳴らせた。髪の毛結ばない子だったらどうしようかと思ったとキバナさんは笑う。まだ11年と短い人生だがこの時程、自分が髪の毛伸ばしていて良かったと思ったことはなかった。

「っと、悪い。時間大丈夫か?」

 やはり、幸せな時間はあっという間に過ぎていくのだろうか。キバナさんが壁に掛かっている時計を仰ぐと、不意にそう訊いた。同じく彼の視線を追うと、時計はいつの間にか8時少し前を示していて私はハッと現実に引き戻される。スクールバスが来るまであと10分だった。

「も、もう行かなきゃ」

 フライゴンになにもあげないのは不平等だと思い、おやつにと持っていたイチゴ飴細工を渡す。胸に抱いたヘアゴムの箱にそっと蓋をし、ラッピングも出来るだけ丁寧に戻していった。一度開封したので、ナックラーのシールには少し皺が寄っている。背負っている鞄を降ろし開くと、ラッピングが破れないよう慎重に入れていく。普段は見られないだろう学生の鞄の中身をフライゴンは興味津々で覗き込んでいた。きっちりと鞄を閉めて背中に背負うと、キバナさんは気を付けて行けよと私に声を掛ける。はい! 余裕のない私は大きく返事をして体の向きを変えた。そして歩き出そうとして、ふと足を止めて振り返る。

「あの、また来週来ても良いですか……?」

 こうも毎週花を渡されて迷惑じゃないだろうか、と思った。今回はたまたまキバナさんが来たが、いつもはヒトミさんがいなければレナさんかリョウタさんに渡してもらっている。いつも忙しそうなので、やめた方がいいのかとも思った。しかし、キバナさんは笑って言う。

「何言ってんだ。もちろん良いに決まってるだろ」

 来週、今と同じ時間に出来る限り居るから遠慮せずに来い。そう付け加えた。反射的に満面の笑みを浮かべたのだと思う。前回も不安そうな顔しか見ていなかったからか、キバナさんは一瞬目を見開くと優しく笑った。

「やっぱり女の子は笑ってる方が可愛いな」

 可愛い。今、キバナさんは私に可愛いと言ったのだろうか。思考が追い付かずしばらく棒立ちのまま固まる。可愛い、可愛い……。数秒その言葉を吟味して、やっと意味を理解した私はぼっと顔を赤くしたのだと思う。「おっ」とデジャヴを感じたらしいキバナさんが声を出す。恥ずかしくなって逃げ出したいという気持ちとちゃんと挨拶しなきゃという心理がせめぎ合う。苦しい戦いだ。しかし、その結果が出る前に助け船である黄緑色が私の視界を覆った。フライゴンがまるでこれ以上苛めるなと言いたそうに、キバナさんの視界から私を遮っている。だが、キバナさんは自分が普通のことを言っただけで苛めているつもりはなく、なぜ彼がそうしているのか分からないらしい。「何してんだ?」と訊いていた。

「あ、あの、行ってきます!」

 フライゴンのファインプレーによりなんとかこの場を切り抜けられそうだった。少し裏返った声でフライゴン越しに伝えると、足早に出口へ向かう。熱い頬っぺたに当たる風が心地よかった。後ろからフライゴンの見送りの声と、キバナさんの「またな〜」と陽気な声が背中に届いた。その声が聞こえる間も、まだ私の心臓は忙しいらしい。つり橋を渡りきりスタジアムを振り返る。するとどうしてだろう、来た時よりもお城が輝いて見える。太陽が上がったせいなのだろうかと、まだ幼い私は首をひねった。

 いろいろと衝撃を受けた1日の始まりではあったが、ここまで嬉しかった朝は初めてだった。寝坊しなくてよかった。起こしてくれてありがとう、ルカリオ。心の中で我が家の頼もしい第二のママにお礼を述べた。

・ ・ ・

「フライゴン?」

 リーシアがスクールへ向かった後、業務室へ戻ろうとしたキバナはいつまで経っても動かないフライゴンを不思議に思って声をかけた。フライゴンは声が聴こえているはずなのに、ぼーっとリーシアが出て行った方を向いたままだ。手にはしっかりと飴の入った袋が握られていて、彼は静かに考え事をしている様子だった――。

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