昔、まだ私が4つの時、ふとママに「こい、ってなぁに?」と無邪気に訊いたことがある。テレビを見ていたパパはコーヒーを吹き、ママは食器を洗う手を止めて驚いている様子だった。落ち着き払って恋について考えだしたママとは反対に、パパは「誰だ! 幼稚園の子か!? リーシアにはまだ早いぞ!」とわーわー喚いていた。そんなパパにママは笑顔で「あなた、うるさいわよ」と絶対零度の一言を放ち黙らせたのがとても印象深かった……気がする。そうして、ママは私の隣に座ると言ったのだ。

「恋ってね、するものじゃなくて、落ちるものなのよ」

 幼い私には、その言葉の意味が理解出来なかった。首を傾げ「わたしがルカリオだいすきなのも、こい?」と続けて訊くと、ママは嬉しそうに笑って「それはきっと親愛ね」と私の頭を優しく撫でてくれた。この時はまだ、恋を理解することができないお子様だった私だが、転機は訪れたのはこの出来事から6年後の私が10歳になった年のことである。

・ ・ ・


 パパはローズ委員長の元で働く役員の1人だった。毎年行われるジムチャレンジの期間中はいつも忙しそうで最低でも3か月なかなか会えないことなんてざらだったのだが、その年はローズ委員長の計らいで休暇と共にジムチャレンジのプレミア観戦チケットをプレゼントされたのである。席は招待客用の最もランクの高い席で、ローズ委員長が頑張りを認めてくれたのだとパパが目尻に涙を浮かべて喜んでいたのを思い出す。いつもテレビの向こうでしか見られなかった憧れの選手やジムリーダーをこんなにも間近で見られるのかと、私は頬を真っ赤にして喜んだものだ。隣に座るパパとママも表面上落ち着いてはいたが、子どもみたいに瞳を輝かせて嬉しくて仕方がないということが私でも感じ取れた。

 ローズ委員長の挨拶と共に開会式が始まり、各地のジムリーダーが入場を始める。音楽も聞こえなくなるくらい割れんばかりの歓声を受け、入場してきたのは老若男女さまざまで個性のある人たちだった。

「あっ、ポプラさんだ! カブさんに……わぁっ! ヤローさんもいるよ!!」

 テレビの向こうでしか見ていなかった世界を、今まさに目の当たりにして興奮しないわけがない。立ち上がりそうになるのをママに注意されながら、周りの声も聞こえなくなるくらいに私はスタジアムをじっと見つめていた。

 皆慣れているのか歓声などものともせず、注目の彼らは堂々とスタジアムの中心までゆっくり歩いている。ひとりまたひとりと、あれはどこのジムリーダーでと確認して見ていく中、8人のジムリーダーの内の3人が違う人だということに気が付いた。
「あれ……誰だろう。新しいジムリーダーかな」前回までは見かけなかった少年と少女の姿を見付け、私は首を傾げた。

 神秘的なブルーのメッシュを入れたモデルみたいに綺麗な女の子と、猫背で白黒の髪の毛をした男の子。それに、たった一目で目を奪われるくらい強い瞳をした男の子だった。その鮮やかなオレンジ色のバンダナに、ユニフォームの上に着ているパーカーはドラゴンをモチーフにしているのか、フードに牙がついている。ユニフォームの色は濃紺で、どうやらドラゴンタイプのジムリーダーだった。

 ガラル地方のジムリーダーは、ジムチャレンジを機に変わることが多い。それは視聴率の一番高くなる時期であるため、告知を簡単に行える上に宣伝にもなるからだった。それにしても、ジムリーダーが3人も一気に変わるのは珍しいのかもしれない。会場は見慣れないジムリーダーに、どよめきが起こっていた。その中で私は言葉を出すのも忘れて、その”ドラゴン”の男の子を見つめていた。

 その男の子は初めての大舞台だろうに慣れた手つきでスマホロトムを操作して、さらには余裕さのアピールなのか観客を背景に自撮りをしていた。フラッシュが焚かれる回数から彼が撮っているのは一枚だけではないとわかる。上から斜めから後ろから下からと入場までのたった数十歩の間に何枚写真を撮ったのか気になるくらいだった。

 食い入るように見つ続けたせいだろうか、不意に彼は手を止めてスマホロトムから顔を上げて前を見た。そう、私の方向である。何気なく投げた視線の先に居た私と視線が交わり、彼は観客に向けて振っていた手を止めてふと真顔になった。あんなに眩しかった笑顔が消えたことで、私はもしかすると見つめすぎて不快にさせしまったのかと不安になる。けれど、その真っ直ぐな視線から目を背けることは出来ない。それも束の間の話で、すぐに私の考えは杞憂だったと分かることになる。

 私へ向けてニッと悪戯に笑ったかと思えば、投げキッスにウィンクというとんでもないサービスショットをしてくれたのである。

「へ……」
「キャアアアアアア!!」

 突然のことに驚き事態が呑み込めない私とは違い、会場が今日で一番なくらいに歓声で湧き上がる。たまたまスタジアムのメインビジョンで映し出されたその動作は、私の周りどころか会場全員に見られてしまっていたのだ。さすがというべきか、まるで自分にしてくれたみたいな錯覚に陥るアングルから撮られた一連の動作を目撃してしまった人々の、主に女性の黄色い声で構成されたその音は歓声というよりは悲鳴に近かっただろうか。

 数秒経ちやっとその状況を理解できた私は、ブースターのかえんほうしゃを受けたのかというくらい一気に赤くなったのだと思う。しばらく反応がなくて固まったままの私が、ようやく動き出したかと思えば顔を真っ赤にして手で頬を隠したという動きに満足したのか、彼は満面のキラキラスマイルを浮かべて手を振ってくれていた。それも悔しいくらい様になってかっこよくて、それに対して私は余裕がなくてオクタンみたいに真っ赤な顔。これ以上見られたくない、と恥ずかしくて俯いてしまっていると、足元しかなかった視界にオレンジ色のスマホロトムがヌッと侵入してきた。ふわふわと宙に浮いたまま、スマホロトムは私だけに聞こえる近さまで耳に寄って来ると音声を流しだす。

「さっき驚かせてごめんな。オレのこと、嫌いにならないでくれよ?」

 これだけの喧騒の中でも彼の声ははっきりと耳に入って来た。きっと、あの彼の声なのだろう。限界まで目を見開き驚いて顔を上げると、彼はワンパチみたいに人懐っこそうな笑顔でひらひらと手を振ってくれていた。声変わり前の、まだ幼さの残る男の子にしては少し高い声だった。スマホ越しの、しかもたったの5秒にも満たない長さの音声だというのに。

 ――ストン。私の中で、何か落ちる音がした。

 つられて笑顔で手を振り返すと、安心したのか彼は私から視線を外し大勢の観客へと振り返った。バクバクと心臓がまだ落ち着かない。今もあの彼のことで頭の中はいっぱいだった。

 程なくして、ローズ委員長から各ジムリーダーの紹介が始まる。今まで長く在籍しているジムリーダーはそこそこに、早速新顔ジムリーダーの紹介がされる。水タイプのジムリーダー、ルリナ。あくタイプのジムリーダー、ネズ。

「そして最後に紹介するのは、ジムチャレンジをする選手の最後の難関ともいえるドラゴンタイプのジムリーダー、キバナ!!」

 名前を聞き湧き上がる会場の中で、私は一人その名前を呟く。

「キバナ……。キバナ、さん……。」

 たった3文字の名前。それだけ。でも、他の何よりもとても愛おしいものに感じた。

・ ・ ・


 開会式も終わり続々と会場から観客が退出していく中、私はまだあの熱気の余韻に浸っていた。緊張しながらも堂々と入場してくるジムチャレンジャーたち、そして圧倒されるほどのジムリーダーたちの風格。ざわざわと未だ興奮冷めやらぬ中、私はママの手を握って呟いた。

「ママ……、私、ジムチャレンジしたい、なぁ……」

 真っ直ぐに、誰も居ないコートを見つめたまま押し出されたその言葉は、ママにちゃんと届いていたらしい。優しく笑う気配がすると、その細い手で私の頭を撫でて「もちろん、ママはリーシアのことを応援するわ」と言ってくれた。パパも同じく私の頭を撫でて、頷いた。

 人もまばらになり、やっと会場の外へ出ても混雑することなく帰られると思った矢先、出口付近では何やら人だかりが出来ていた。人だかりというよりかはお祭り騒ぎに近い。その中心に居るのは今日の新人ジムリーダーの三人みたいで、特に一番人が集まっているところの中心に居るのはキバナさんらしい。周りより一つ飛び出たオレンジ色のバンダナで即座にわかった。意中の人がすぐそこに、しかも先ほどよりも近くで見られると思うと、途端に忙しく動き出す心臓は本当に正直だ。

 なんとか近づこうと努力してみるも、まだ小さくて非力な私では体どころか声でさえも掻き消されてしまう。何度か突入しようとチャレンジしてみるが、外周で押し返されてちっとも中へ進めない。ただでさえ子どもは気付かれにくいのに。せっかくのチャンスで何も出来ず終わってしまうと思うと、私はなんでもっと早く大きくならなかったのだろうかと悔しくて少し涙が出た。

「ほーら、泣くな! パパが肩車してやるぞ!」

 わしわしと、いつもパパが近所のワンパチにしてるみたいに私の頭を撫でてくれたと思えば、体がふわりと浮いていつのまにかパパは私の下にいた。いつもよりぐんと高い視線はあまり慣れなくて反射的にパパの頭を強くつかんでしまう。

「大丈夫、しっかり支えるから」パパは笑った。私は嗚咽交じりだが、パパにお礼を言った。

 涙はいつの間にか目の奥に引っ込んでいた。先ほどまでは視界にさえ入れないと思った憧れの人の顔が、はっきりと見える。途端に笑顔に変わった私のことを、両親は微笑ましく見ていた。

「キバナさん、……キバナさーん!!」

 一瞬名前を呼ぶのを躊躇ってしまった。けれど、精一杯声は張り上げたと思う。両手を精一杯伸ばして体全体を使って存在をアピールする。輪の中心で笑顔をファンサービスをするキバナさんまで、あと5メートル。気付いてもらえるだろうかと不安になった。

「……あっ」

 キバナさんを撮影するために浮遊していたスマホロトムが、不意に彼の耳元に近づいてなにかを伝えたらしい。彼はすぐさま周囲のファン――全員女の子だが――たちに向けていた視線を上げて、遠くを探すようにきょろきょろした。自分の後ろ、右、左、と順に探していき最後に正面を向いたとき、両手を万歳したままの不格好な私と彼の視線が、またかち合った。

 一瞬驚いた表情をすると彼はパクパクと何かを伝えようとしたが、ここからでは口の動きも声も聞こえない。分からなくて首をコテンと傾げると、彼はふっと笑い手のひらをこちらに見せて「そこで待ってて」とジェスチャーした。そこから彼は自分の周りにいるファンに笑顔を向けつつ、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。この人混みの中を動くのはさすがに大変らしく、ジムトレーナーたちはキバナさんがファンに押しつぶされないように頑張って抑えていた。

「初めまして……って感じもしねーな。さっきぶりだし」

 なんとか私の元に彼が辿り着くとともにパパが私を地面に降ろしてくれたおかげで、私は彼の顔を見上げることになった。さすがにこの身長差ではなかなか首が辛い。それに気遣ってくれたのか、彼はわざわざしゃがんでくれて私と彼の目線は同じ高さになった。遠くからではわからなかった彼の瞳の色がわかる。まるで澄んだエメラルドのように綺麗な色だと、見惚れてしまう。返事も反応もせず、じっと自分の顔を見つめているからか。

「いや、そこまで熱心に見つめられるとさすがのオレさまでも照れるな」キバナさんは少し笑って頬を掻いた。
「あ……ごめんなさい!」自分が穴が開くほど見つめていたのだと気付き恥ずかしくて俯く。

 子どもがもじもじする姿が微笑ましかったのか、周りにいるキバナさんのファンは微笑ましそうにくすくすと笑っているのが聞こえた。なおさら恥ずかしくなって、私は下を向いてスカートを両手でぎゅっと掴む。

 せっかくキバナさんがこんなに近くに居るのに。気付いてくれて、ここまで来てくれて、それに声もかけてくれて。なのに、私は何も出来ずに黙って俯くしかできなくて、……少し自分にがっかりしてしまった。そんな私の気持ちを察してか、キバナさんは「人が多くて、ちょっとびっくりしちゃったんだよな」と精一杯屈んで、私の顔を覗き込んでくれる。「な?」と同意を求めるように訊いてくるので、私は控えめに頷いた。キラキラした、エメラルドの瞳は嬉しそうに細められる。子どもながらに、「この人はすごく、すっごく優しい人なんだ」と考えた。

「キバナさん、そろそろ……」

 やっと緊張も解け始め、おずおずと口を開こうとした時のことだった。キバナさんの近くに居たジムトレーナーの1人が申し訳なさそうに彼に耳打ちする。察するところによると、そろそろ別の所へ行かなければならない時間らしい。キバナさんは「まだ大丈夫だろ?」となんとか時間を伸ばそうとしているが、ジムトレーナーは良い顔をしない。私がこうしてもたもたしているからだと、罪悪感を募らせた。

「悪い、そろそろオレさま行かなきゃならないみたいだ。でも、また会おうぜ」

 ジムトレーナーの譲れない意地に負けたのか、キバナさんは項垂れながら手を合わせて言う。何か言わなきゃ、と顔を上げても上手く言葉が出てこない。言わなきゃと思えば思うほど、喉が引き攣った。その気持ちが分かったのか分からなかったのか、彼はひまわりみたいに眩しく笑うと、「これからも応援してくれな」と頭をぽんと撫でて立ち上がる。先ほどまで合っていた視線は一気に差が開き、また私が見上げるかたちとなった。「あ、」小さく声が漏れる。

 くるりと踵を返して立ち去ろうとする彼の背中を眺めていたとき、ママがしゃがんで言った。

「リーシアちゃん、後悔しない?」

 きっと、今後も頑張れば会えるだろう。でも、こんなに近くで直接話せることなんて、滅多にないに違いない。だから、ママは私に訊いたのだ。その言葉に私は少し泣きそうになった。ここで言わなければ、絶対に後悔すると思ったからだった。

 スカートをギュッと握り締め、固く閉じていた口を開き彼の背中に向けて大きな声で叫んだ。

「あのっ! わたし、リーシアって言います! 絶対また、キバナさんに会いに行きます!!」

 お腹の底から出した声だった。キバナさんだけでなく、その周りに居た人たちもびっくりしたらしく皆私を注目する。それで先ほどまでの威勢はどこに行ってしまったのか、とたんに委縮してしまって肩をすくめると、ママは「よくやったわね!」と嬉しそうに笑っていた。そして、嬉しいことはまだ続く。

「そっか。そんじゃー楽しみにしてるぜ、リーシア!」

 足は前へ進めながらも、左手を上げ顔だけ少し後ろを振り向いたキバナさんが返事をしてくれた。しかも、名前も呼んでくれた。その背中は人混みに消え、オレンジ色のバンダナもすぐ見えなくなってしまった。けれど、心は達成感で満たされている。本当に本当に、嬉しくて仕方がなかった。嬉しすぎて勢いのままママに抱き着くと、私はパパに目を合わせて宣言した。

「わたし……、私、ジムチャレンジする!! キバナさんに挑戦したいの!!」

 このドキドキとワクワクが入り混じったなんとも言えない興奮は、私をジムチャレンジへ突き動かしたのであった。


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