自分の中でのジムチャレンジが終わった後の春が来てからもう2年経つと、さすがの私も変化した生活環境に慣れてきた。

「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」

 新しく買ったスニーカーの紐をぎゅっと締める。後ろからのママの声を聞き、見送ってくれたルカリオに手を振ってからドアを閉めた。

 一歩足を踏み出せば暖かな空気が春の香りを私の鼻元に運び込んでくれた。暖かくなったおかげでママ自慢の庭は色とりどりの花が咲き乱れており、私は慣れた手つきでその中から姫空木を一本ハサミで切って仕事場に向かって歩き出す。小さな白い花びらが風で取れない様に腕で隠しながら、少しばかり足早に。

 つり橋を渡り厳かなスタジアム内を歩き、少し前までは入れなかった関係者専用入り口にICカードをかざして入って行く。

 突き当たりを右に曲り、さらに左に曲がると、華やかな表玄関とは違う少し暗くて冷たい廊下に出る。お城らしい威厳を感じさせる廊下に、「何度歩いても少し緊張するなぁ」なんて思いながら私は奥まった部屋を目指した。

 木製の細かな彫刻が施された分厚いドアの前で足を止めると、一呼吸置いて控えめに2回ノックする。

「どうぞ」

 少しの沈黙の後に聞こえた少し疲れた声に、私はドアノブに掛けていた手に力を入れ回した。

「失礼、しまーす……」

 部屋に踏み入ると予想通りと言えば良いのだろうか、壁のように積み上がった書類に埋もれたキバナさんが居た。目の下には隠しきれないくらいくっきりした隈。徹夜をせざるを得ないほど、相当長い時間書類の処理に追われ籠っていたらしい。カーテンの閉め切られた薄暗い部屋は、キバナさんの気持ちを表したように空気が淀んでいた。

「お疲れ……です、よね。……コーヒーでも飲みますか?」
「……あー、出来れば濃い目の紅茶を頼む。あと、花もありがとな」

 手短に挨拶をすませると座り心地の良さそうな椅子で大きく背伸びをしたキバナさんは、眠たそうにそのまま勢いに任せて机に突っ伏した。

 私は窓際まで移動し花瓶に花を挿し、カーテンと窓を開けて空気の入れ替えをする。急に背後から射してきた朝陽にキバナさんは眩しそうに少し唸った。慌てて謝り様子を見ると、キバナさんは大丈夫だと言うように右手を軽く上げた。

 足早に給湯室に向かいインスタントの紅茶を淹れて再び部屋に戻ると、少しは元気を取り戻したらしいキバナさんがちゃんと椅子に座り薄い笑顔で私を迎えてくれた。疲れた顔はそのままだったけれど、徹夜のおかげで仕事も粗方片付いて気が楽になったみたいだった。

 昔の私が知らなかっただけで、今まで相手をしてくれている時もこんなに大変だったのかと思うと、申し訳ないと思うと同時に時間を作ってくれて嬉しく感じる。

「どうぞ」

 目の前にそっと置かれたカップを手に取り一口紅茶を飲むと、ほっと息着いたキバナさんは力を抜くように大きく息を吐くと私の方を見て提案した。

「あー、生き返る。リーシアも一緒にどうだ?」

 キバナさんと、一緒にお茶……。

 思ってもいなかったお誘いに嬉しくて嬉しくて、反射的に心が躍り出す。すぐにでも首を縦に振りたいという衝動に駆られるが、今日の予定を思い出し風船が萎むように私は項垂れた。

「ぜひ、と言いたい、んですけど……。これからトレーニングの予定が」

 トレーニング、と聞いて何の事かと一瞬キバナさんは思案したが、すぐに思い出したらしい。「ああ!」と納得した声を上げる。

「たしか今日からか。そうか……残念だけど、また今度だな」
「はい。また今度ご一緒させてください!」

 項垂れた私に「近いうちに新しく出来たカフェにでも誘うからさ」とキバナさん気遣いながら、それ以上何も言わずに快く私を送り出してくれた。

 ご褒美が目の前にぶら下がるとやる気というのは爆発的に出てくるもので。我ながらゲンキンだと思いつつも見送ってくれるキバナさんに軽く手を振り、浅く一礼をして部屋から出た。

 窓がなく光が差し込まない薄暗い廊下の冷たい空気を肺いっぱい吸い込み、背中を丸めながら大きく吐き出すといつも気が引き締まる。時間はまだ朝の8時。

 これから私の仕事が始まる。

・ ・ ・

 ナックルスタジアムを出てポケモンセンターに着いた私は、迷うことなくジョーイさんに話しかけナックルスタジアムのIDカードを提示した。事前に情報を聞いていたらしく、カードを確認するとジョーイさんはすぐに私を処置室の奥にある訓練室に通してくれた。

「こちらです」

 窓のない広い部屋を、電灯の白い光が照らす。

 置いてある物はどんなポケモンでも拘束出来る頑丈な台。あとは床に散らばった様々な種類の可愛らしい玩具とちぐはぐな光景で、何度見ても違和感しかない。

 私が部屋に入りドアを閉めると、後ろに立っていたジョーイさんはすぐに仕事に戻った。一人きりになったのですぐに部屋の中央に置かれたプラスチックのケースに近付く。

 そっと覗き込めば、中はこんもりとした白いタオル。そしてよく見るとそれは小刻みに震えている。

「……こんにちは」

 出来る限り怖がらせない様に優しくゆっくり話しかけると、タオルはビクリと大きく震えてもぞもぞと動き始めた。

「ごめんね。タオル取らせてね」

 あくまでもそっとタオルをめくると、目が合ったのは明らかにこちらを見て怯えているミブリム。

 ーーこれは時間がかかりそうかも。

 長期戦を覚悟して、私は笑顔を浮かべたまま腰にかかったボールに手を掛けた。

 私の仕事というのはポケモンのセラピーだった。例えば親に育児放棄されたりトレーナーに虐待されていたところを保護されたポケモンをメインに受け持っている。新たな生きる道を広げる為にも、人間に対してトラウマによって怯えたり襲いかかったりしないよう、心のケアをするという内容だ。

 今回のミブリムは事前に受けた情報で知る限りだと人間に対して嫌な記憶があるらしく、時間がかかりそうかと思っていたのだが……。

「やっぱり、私よりよっぽど優秀……」

 私からかなり離れた場所ではあるが、ミブリムはフォクスライと楽しそうに遊んでいた。

 元々ポケモンに好かれやすい体質なのである程度距離があれば人間嫌いのポケモンでも慣れるのだが、さすがに怯える子からはすぐに好かれはしない。そんな時は優秀な私のパートナー達が活躍するのだ。

 しかし、ウインディだけはこの手の仕事は苦手らしく、今は何かあった時のための用心棒として私の近くで待機を頼んでいる。

 おかげで、普通なら大変な訓練がやりやすくて助かっていた。

「では、今日はこれで」

 ミブリムは2時間程フォクスライと遊んだ後、すぐに疲れて眠ってしまったので今日の訓練を終わる事にした。

 開始としては上々の滑り出しで、幼い事もあるしこれなら数週間で私の訓練も終わるだろう。この日はミブリム以外にも数匹のポケモンの予約が入って忙しく、ポケモンセンターを出た後もあっちへこっちへ休むことなく移動していた。結局仕事が終わったのは、星が空で気持ちよさそうに輝き出してからだった。

・ ・ ・

「ただいまー。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」

 思っていたより帰りが遅くなったので急いで家に帰ると、いつもなら出迎えてくれるママの声がない。どうしたのかとリビングに入れば、そこでママとパパが何やら真剣に話し合っていたらしく私の姿を見て慌てて立ち上がった。

「パパ。今日は早かったんだね」
「おかえり。ご飯の前に少し、話があってね」

 座るよう催促されたので言われた通りにすると、パパは重々しく口を開いた。

「実は……リーシアに大きな依頼があるんだ」
「珍しいね。どんな依頼?」

 いつも仕事は籍を置かせてもらっているナックルジム経由で受けるのだが……。パパから直接の依頼となるとそれは個人ではなく、恐らくマクロコスモスからなのだろう。会社の規模が大きくなれば報酬は大きくなる代わりに大変なものになると、ある程度見当が付く。

 パパは少し言うのを躊躇った後、ゆっくり口を開いた。

「……実は、カントー地方にあるサファリゾーンで職員を募集しているんだ。仕事内容は傷付いたポケモンの保護や、ストレス緩和がメインでね」
「えーと、私がその職員の候補になってる、ってこと?」
「もちろん他にも何人か候補は居るんだけど、トレーナーとセラピスト両方の実力があるリーシアが適任だと思っている。もちろん、親の贔屓目はなしでね」

 パパはそこまで言うと、ふぅと小さくため息をついた。ママを見れば、同じように浮かない顔をしている。

 その表情で私は気付いてしまった。

「カントーって、かなり遠いよね?」

 自分に向けるように言った言葉に、パパはがっくりと項垂れながら頷くのを見て私は確信したのだ。

「つまり、長期的な依頼で、しばらくはここに帰って来られない。そうでしょ?」

 そう質問すると、パパはいつになく神妙な顔で返事した。

「その通り。1人で行くことになる上に短くて3年はかかる。もちろん、パパはリーシアの意思を尊重するよ」
「……うん」
「だけど、この仕事は君の今後の為になる。良い話ではある事をしっかりと踏まえて考えて欲しい」

 そう言い終えるとパパはこの暗い空気を振り払うかのように、ぱっと表情を切り替え「さぁ、ママのご飯食べようか」と明るく言ったのだった。

・ ・ ・

 結局、昨日は仕事の事を考えてよく眠れず、目の下にくっきりとした隈を作って家を出た。

 ママは起きて来た私の酷い顔を見て少し笑うと、「リーシアの好きなようにしなさい」とだけ言って送り出してくれた。相変わらず花を持ちスタジアムへ向かう途中でも、私はぐるぐると頭の中で考えていた。

 もし、私がこの話を受けてカントーに行ったら、キバナさんはなんて言ってくれるのかな。止めてくれるのかな。3年後も、ちゃんと私を覚えていてくれるのかな……、と。

 スタジアムに着きキバナさんの執務室のドアを叩くと、珍しく返事がない。今日も徹夜したのかそっと部屋に入るれば、相変わらず薄暗い部屋でキバナさんは机に突っ伏して寝ていた。余程疲れているのらしく、スース―と寝息を立てている。

 起こしたら良くないと思い、ソファにある毛布をそっと掛けて花を花瓶に挿していると――。

「んー……。あー、よく寝た……」

 微かな物音に気付いてしまったのか、キバナさんが起きてしまった。

「お……っと、悪い、寝て気付かなかった」

 ずり落ちた毛布と、花瓶の前に立つ私を見てキバナさんは眠気まなこで謝る。私は逆に起こしたのが申し訳なく思ってしまい謝れば、彼は「逆に起こしてくれて助かった」と笑った。

 相変わらずキバナさんらしいフォローに笑うと、一言断りを入れてからカーテンと締め切られた窓を開ける。新鮮な空気が部屋に運び込まれてくるのが心地よくて、寝不足の私を少し睡魔が襲ってきた。恥ずかしいからとキバナさんに気付かれないように小さくあくびをしたのに、そんな小さな音でも聞き漏らさなかったらしい。

「珍しいな。寝不足か?」

 背伸びをして寛いでいたキバナさんがくるりとこちらを向いて訊いてきた。明るくなるとその分相手の顔色も分かるもので、見るからに隈を作っている私を見て彼は眉をひそめる。

「あ、いえ、何でもないです! 昨日寝る前に読み始めた本が面白くて」

 キバナさんも読みますか? と心配をかけないように努めて明るく伝えると、納得いかない顔をしながらもキバナさんは「そうか」とだけ言いそれ以上何も訊いてはこなかった。

「――じゃあ、これで」

 今日の仕事があるからと部屋を出ようとすると、ドアノブに手が触れる前に「待った」と後ろから呼び止められる。

 反射的に振り返れば、キバナさんは眠そうにあくびをしながら言った。

「今日は早く終わるはずだろ? 19時に駅前のレストランで待ち合わせな。アツバさんにはオレからちゃんと連絡しておく」

 こちらに有無を言わさないスピードで約束を取り付けると、キバナさんは明るい笑顔でひらひらと手を振りながら私を送り出した。一方の私は急な展開について行けず、頭にはてなを浮かべながらぎこちなく返事をするので精一杯だったのであった。

・ ・ ・

 約束の時間前に仕事を終わらせ、一応身なりを整えてから約束の場所に行くとそこにキバナさんの姿はなかった。いつも絶対に私より早く来て待っているのに、どうしたのだろうと思っているとレストランの前に立っていた店員に声を掛けられる。

「リーシア様でございますね? キバナ様がお待ちになっております。こちらへどうぞ」

 言われるがまま案内されたのは奥の方にある小さな個室で、キバナさんはそこでワインを飲んで私を待っていた。

「お疲れ。今日は早かったんだな?」
「おつかれさまです。今日は慣れている子だったのですんなりと」

 立ち話もそこそこにキバナさんは私に座るよう催促すると、適当に料理と飲み物を頼み軽い談笑を始めた。

 キバナさんがどうして急に私を誘ってレストランに来たのか、真意は掴めない内に会話は弾み料理が運ばれてくる。注文したもの全てが美味しくて、今日の疲れが吹っ飛ぶ。

 それと同時に、好きな人とこうして2人だけで誰にも邪魔されず会話が出来て、美味しいご飯を食べられるなんて、なんと幸せなのだろうかと、そう思えた。

 食事がある程度終わり、あとはデザートだけになった頃、キバナさんお酒を飲む手を止めて私にこう切り出した。

「昨日眠れなかった理由、当ててやろうか」

 オレンジジュースが入ったグラスを持とうとした手が止まる。はっとして顔を上げると、キバナさんは少し苦笑して続けた。

「アツバさんから聞いたんだろ? サファリゾーンの件」
「……はい」
「これ以上ないくらいリーシアにとって良い案件だとオレでも思うんだが……。何か不安な事でもあるのか?」

 そう言われて、私は言葉に詰まる。キバナさんに会えなくなるから、なんて行かない理由にはならない事は頭でちゃんと理解しているからだ。

 それに、今の私がキバナさんに気持ちを伝えたところで、きっと妹以上の感情を彼は持ってくれないだろう。今も昔も、私は彼にとって保護しなければならない、ただの上司の娘なのだ。

 ――ならば。

「いえ! 急に一人暮らしなんて大丈夫かなぁ、と不安になっちゃいました!」

 キバナさんに認められ、妹としては見られないくらいに大人として成長するしかない。

 どうしてかこの数秒である意味吹っ切れた私は、無意識に少し傷付いた心を悟られないようにぐんと明るく返事した。あからさま過ぎて大丈夫かなと少し不安になったものの、キバナさんは安心したように表情を柔らかくして「リーシアなら、しっかりしてるし大丈夫だろ」と言ってくれたのだった。

 その信頼の言葉が嬉しくて。でも、なんだか悲しくて。今の自分がうまく笑えているか不安になった。その後、デザートに出されたティラミスは甘く、思っていたよりもほろ苦かった。

・ ・ ・

「――パパ。私、行くよ」

 キバナさんに送られ、家に入ると私はラフな格好で寛ぐパパにそう伝えた。
 昨日の今日で急に決めたものだから驚かれたが、ママは私の決心を感じ取ったらしい。

「しっかり学んで、立派な女性になりなさい」

 私はその言葉にしっかりと頷いて、こみ上げるものを抑えつけるように唇を噛み締めた。

 それから出発まで1か月の期間があったが、私は転居の準備と仕事に追われ忙しい日々を過ごす事となる。

 ――結局私はキバナさんとカフェに行けないまま、1人でカントー地方へ旅立ったのであった。

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