ラビットホール(豪炎寺と誰かの話)

2013/04/26


「……え…じ、…うえ…じ」

声が遠くから響く。まるで水中みたいだ。
…違う。水中で音なんか聞こえない。声がするはずがない。
でも耳を何か大きな塊が塞いでいるようで、それに集中する。温度も実体も無いくせに、なぜかしっかりとした存在感でもって聴覚に支障をもたらす何かの情報を探して、耳以外の感覚を疎かにする。これはなんだ。

「豪炎寺!」

肩を強く叩かれ、意識が急浮上する。開けた目の先、見慣れた顔が視界の中央でこちらを見ている。

「……円堂…」
「どっか具合でも悪いのか?」
「集中にしちゃ長い時間だったけど、まさか寝てたとか?」

笑いながら風丸が顔を出す。長い髪が肩から幾筋か束になって落ちる。

「どうしてお前たちが」

言って周囲を見回す。どこかの控え室なのか、縦長のロッカーが立ち並び青いプラスチックベンチが置かれている。なんと見覚えのある部屋だろう。まるで、スタジアムの選手控え室のような。
思って改めて円堂たちの服装を見る。緑の短パンに長袖のオレンジシャツ、青い半袖のシャツと白の短パンの組み合わせは何度見たことだろう。あの緑のフィールドで着ていたことすらある誉れ高きユニフォーム。
風丸が笑う。

「やっぱり寝てたのか。興奮して眠れなかったとか言うなよ、円堂じゃないんだから」
「なっ、それは最初の試合だけだっただろ!」

試合、興奮。何を言っているんだ。何の話なんだ。
扉が突然大きな音を立てて開く。咄嗟に顔を向けると風丸と揃いのユニフォーム一式を身につけた虎丸が、スパイクを踏み鳴らしながら入ってきた。

「もう、待ってたんですよ、豪炎寺さん!早くアップしましょう!」
「虎丸も……どうして」
「なんだ、まだ寝ぼけてるのか?今日は親善試合だろ」

期待してるぜ、エースストライカー。背中の中央、背番号の上を優しく叩かれる。風丸はそのまま虎丸の隣から部屋を出て行った。
親善試合。言われてみれば、そうだったような。いや、そうだ。今日はアメリカ代表との親善試合だ。何を忘れていたのだろう。
ゆるく頭を振って立ち上がる。スパイクの感触。逆立てた髪。戦闘準備ならとうに出来ている。

「すまん、少し気が緩んでいたようだ。もう大丈夫だ、行こう」
「今日こそはあの技、やってみせますから!」
「親善試合だろうが勝ちに行くぞ!」

虎丸と円堂が口々に試合にかける気持ちを言葉にする。キャプテンマークのついた腕を叩き、入り口で待つ虎丸に向かって足を踏み出す。

「勝ちに行くんじゃない、勝つんだ」

負けると思って試合に行くやつなんていない。どれだけ不利な状況だろうと、どれほど強大な敵だろうと、誰もが勝利を夢見て目指して立つのだ。
一瞬、暗闇の中に佇む赤い背中が脳裏をよぎった。
誰の後ろ姿だろう。見たこともない。
残念ながらあと少し足りなくて肩の高さが並ばない虎丸は、それでも隣に並び立つ。今日は染岡はいない。隣に立つのはいつもどちらか一人だ。

「そういえば」

振り返り、円堂を見る。

「腕、大丈夫なのか」
「何が?」
「痛めただろう。肘を、確か筋断裂」

何言ってるんだよ。円堂は袖を捲り上げる。傷などどこにもない。何を、いや、誰と間違えたのか。そうだ、怪我をした人間がどうやってゴールを守るというのだ。
では、あれは誰の腕で、どうしてあれほど肝の冷える思いをしたのだ。
立向居ではない。ボールを追いかけるのに必死すぎて、ポールにぶつかったりスパイクで蹴りつけられて流血沙汰になることはあるが、再起を危ぶまれるような怪我はしていない。きっと今日も先にピッチで身体を温めている。

「昔の一之瀬さんのことでも思い出してごっちゃになったんじゃないですか?ほら、円堂さんこないだ相手チームのフォワードとボールの取り合いしてユニフォームの肘裂けたじゃないですか」
「あー、あったな。紙一重で血は出なかったんだけど、赤い筋がついたやつ」
「ね?」

虎丸が肩に手を置く。この齟齬は頭の中にもう一つ記憶があるようだ。何をバカなことを。

「そう、だな。きっと俺の勘違いだ」

早く行きましょう。背中を押す手に急き立てられて緑のフィールドに向かう。
久しぶりの試合はとても楽しく、胸が踊った。引き分けに終わってしまったが、再戦の楽しみが出来たということだ。
ナイスアシストと不動と手のひらを打ち鳴らす。虎丸はまた成功しなかったと地団駄を踏んだ。控え室までの道のりを歩きながら笑っていると、少年が立っていた。黄緑よりも淡い緑色の髪がまるで兎のように左右に伸びている。瞳も同じ色をしている。

「こんにちは」
「こんにちは」
「楽しかった?」

喜色満面とはこのことだろうかと思うほど綺麗な笑顔をして、少年が訊ねてきた。

「ああ、とても。ずっとこの時間が続けばいいと思うくらいだ」
「そうだよね、じゃあ」
「でも」

少年の言葉を遮る。え、と不思議そうな顔で見上げてくる少年は、かつて最上の仲間を手に入れる前の意地っ張りで我が儘な子供と同じくらいの年頃に見える。欲しいものは、まだ見つかってないのか。

「ここは俺の世界じゃない。元に戻してくれないか」
「どうして?楽しかったんでしょ、ならずっとここにいればいいじゃない。辛い思いもしないよ、酷いこともしなくて済むよ。楽しいことだけしていればいいんだよ」

そうだな。呟いて頭を撫でる。二階堂監督も響木さんも瞳子監督も久遠監督も、こんな気持ちだったのだろうか。こんなふうに、小さな子供たちを見つめていたのだろうか。

「そうやって生きていけたなら、きっと楽なんだろうな。嫌なことから目を反らし、辛いことには蓋をして、そうやって楽しいもの、綺麗なものばかり見ていられたなら、どんなに幸せなんだろうな」
「そうだよ。あなたに幸せになってほしいと思ってる人はたくさんいるよ。これはその人たちの願いでもあるんだ」

ね、豪炎寺修也さん。少年は頭を撫でていた手を両手で掴み、胸元に引き寄せた。手の甲に親指の爪が食い込む。少しだけ、痛い。

「だけど、俺は戻らないといけないんだ。あの世界がどんなに苦しいものだとしても、俺のやるべきことはあの世界にある」
「幸せになりたくないの?」

少年の手が上に動いて手首をきつく掴む。抱きしめてあげられないから、したいようにさせてやる。

「なりたいさ。だけど、幸せにしてあげたい人がたくさんいるんだ」
「自分よりも?」
「そう。お前もその一人だ、フェイ」

目を丸くした少年が手を離す。きっと、覚えられているなんて思ってなかったんだろう。覚えているよ、サッカーが大好きなのに一人ぼっちの子どもの一人や二人くらい。

「じゃあ、じゃあ、本当にいいの?幸せにならなくて、本当にいいの?」
「そんなふうにフェイが思っていてくれるだけで充分幸せ者だろう、俺は」

丸く柔らかな線を描く頬に手を添える。困った顔をして目を反らす少年。

「それは…だって、あなたがフィフスセクターを作らなければセカンドチルドレンは誕生しなかったかもしれない、から」
「そうだな。そうしたらフェイには出逢えなかった」

小さな手は遠慮がちに頬を包む手に触れてきた。子どもの手。きれいな手。

「楽しい、素敵な夢が見られた。ありがとう」
「あなたの元の世界は汚いよ、辛いよ、苦しいよ」
「そうだな。でも、俺はあの世界が好きなんだ。汚くて、辛くて、苦しくて、でも一生懸命な世界だ」

そう。少年は微かな声で呟いた。頷いたが、納得はしていないのだろう。そうだな、大人の論理なんか知ったことじゃないし分かりたくもないな、嘘つきばかりだから。

「時空移動をしたんだろう、俺は何をすればいい」
「何もしなくていいよ。目を瞑っていてくれたら、一瞬で元に戻るから」

さよならと少年の口が動く。ああと応えて手を伸ばす。抱きしめる前に、世界は真っ暗になった。
やっぱり、抱きしめてあげられなかった。
目を覚ます。まだ最低限のものしかない部屋は殺風景で、夢で見た鮮やかな色彩が胸を突き刺す。
試合から遠ざかって鈍った勘は自主トレでは戻らない。怪我をしてリハビリするばかりだった円堂ならなおさらだろう。あんなふうに全員が揃うことは、この先の未来に果たしてあるだろうか。戻りたくないわけではないが、戻れるとは思っていない。
十年前の少年たちの笑顔は二度と戻らない。

「フェイ、君だけは後悔しない道を進め」

いつかまた会えたら、抱きしめてあげよう。一人ぼっちの子どもを、よく頑張ったと。
長い髪が鬱陶しかった。



―――
書いてしまうとネタバレだからタイトルにはフェイではなく誰かにしました。
前回の話は偶然だったんだけど、今回は意図して擬音の一切を使っていません。なんとなくやってみたくて。書きにくかったです。
ちなみに照美でも考えていたのですが、照美がガチ神になってしまったのでやめました。
チャレンジはそこそこに。


戻る




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -