遠くに見える朱色の大門。視界いっぱいに広がる平和な街。風に乗って聞こえてくる笑い声。火の国、木ノ葉隠れの里。
ここ数日この里にいたカナは、しかし今初めて、その全貌を新たに記憶に刻み込んでいた。その瞳に映る景色はどこかで懐かしく感じるようで、けれど確実にこのカナには新しい記憶だった。
火影邸の屋上。そこに呆然と立って里を見ているカナの後方には、二人の人影。

「火影様の了承は頂いた」
「よっしゃ!ありがとなシカクのおっちゃん!」
「もちろん二つ返事でいただいたわけじゃねえぞ。ったく」

ナルトとシカクは、なんだかんだと雑談しながら、里を眺めるカナの背中を見ていた。何を思っているのか、その背中は微動だにしない。カナの銀色の髪だけがふわりと風にはためいている。
ナルトは、少しの沈黙の後、その背に話しかける。

「カナちゃん。どーだ、懐かしいか?」
「…よくわからないです」
「だよなァ。ま、オレだってそんな簡単にいくとは思ってねってばよ。こりゃ根気勝負だ」
「…すみません」
「謝んなくていいって!今日は一日めいっぱい使おうぜ!堂々木ノ葉の里巡り、オレたちの思い出巡りにな!」

振り返ったカナの瞳に、ナルトがニコニコ笑う姿と、呆れたようにため息をつくシカクが同時に映り、それから改めてシカクだけを映した。
カナにとってシカクは無論顔なじみではないが、どうやらこの人物が今里を出ている綱手に代わる、現状の最高責任者らしい。

「あの……そんなことしていいんですか?」
「いいわけねえよ。普通はな」

記憶がなくてもナルトよりまともなことを言うカナに、シカクはやれやれと頭を振りながら応える。

「けどまあ、お前の記憶を取り戻すのは最優先。ナルトの、病室ばかりにいても仕方ないってー言い分もまあ、無理やりだが分からんでもない。ご意見番にはオレがうまいこと言っとくよ。今日一日はナルトと一緒なら動いてもいい」
「さっすがおっちゃん、話が分かるゥ」
「ただし!」

調子付くナルトに、シカクはビッと人差し指を向けた。うっと後退したナルト。シカクはそのままその人差し指をカナに向けた。

「お前はかなり目立つ。特にその髪色がな」
「は……はい」
「今日一日は変化をして過ごすことだ。ナルト、お前が名前を呼ぶのも禁止。絶対にカナだと気取られるな。知り合いにもだ」
「えええ!?名前呼ぶのもォ!?」
「バレたらどうなるか分からねえお前じゃないだろ。カナ、ナルトじゃ頼りないから、お前に忠告しとくぞ。オレはこれから雲隠れに出向かなきゃならねえから、騒ぎは起こさねえようにしてくれよ」

口調は終始穏やかだが、人相がいいとは言えないシカクにじっと見られると身が引きしまる。カナはおずおずと頷いた。
その途端、シカクは破顔する。向けられていた人差し指がそのまま伸び、カナの額を軽く押した。咄嗟に身構えていたカナは、呆気にとられる。今の一瞬で感じた温かいなにかに。

「肩の力を抜いてこいな」

カナにそう言ってから、シカクはなんてことのないようにナルトとも軽く会話し、火影邸の中に戻っていく。カナはその背をずっと見送っていた。そっと自分の手で額を触る。
この里の人間は、誰もかれもが温かい。直接そのような言葉を向けられなくても、不思議と感じるのは、そのようなことだった。それは何故だろうか、とシカクが見えなくなったのをきっかけに、カナはもう一度里の街並みに目を向けていた。穏やかな里の風景。───かつての自分が大切にしていたという、風羽の次の、第二の故郷。

「…木ノ葉隠れの里…」
「カナちゃん?」
「あ……いえ」
「行くか。オレが案内するからさ。じゃあまずは…どこ行こうかなァ。色々選択肢がありすぎて、」

ナルトが言い切る前に、ボンっとたった煙は、カナを包み込んでいた。変化の術。一瞬呆気にとられたナルトは、そういやそうだったなと思い出し、煙が消えるのを待つ。

目立つ銀色は姿を消した。出てきたのは、髪も瞳も黒く染めた、見なれない女性だった。その色に当たり前のように”友達”の姿を思い出し───ナルトは、眉を落として笑った。

カナが自分の身を隠すのにその色を選んだのは偶然か意図的か。見慣れない真っ黒な瞳は、サスケほどの闇色ではなく、無垢に。
ふっと見上げたその瞳に、火影邸の上に連なる顔岩が映る。そのひとつの老人を象ったものが、異常なほどカナの脳裏に焼き付いた。


ーーー第六十五話 巡る


ナルトが目的地を勧める前に、カナは意外にもひとつ、自分から行きたい場所をひとつだけ申し出ていた。それは場所というよりはある人物の元であったが、その場所は先程カナが見たあたたかい里の光景の一部ではなく、無機質な建物の中だった。そこは通常無関係な人物が立ち入りを許可される場所ではない。しかし更に“特例”を重ねることをナルトがカナの代わりに懇願したおかげで、二人は幸運にも現在、担当の者に案内されているところだった。「まったく…“英雄”じゃなかったらありえないぞ。こんな面会は」などとぶつくさ言ってる担当者と、それに手を合わせて苦笑いしてるナルトの後方をカナはもくもくと歩いていた。

「ほら。ここだ。その牢の中にいるぞ」

その言葉が狭い空間に響いて男が指をさしたとき、ナルトとカナがなにかを反応する前に、その牢の中で動く影が真っ先に顔を見せていた。
赤毛で、こんなところに入れられていても、強気な瞳の持ち主。

「ん?なんだよ、こんな時間に。メシの時間じゃないだろ?」
「…香燐さん」
「え?……」

───先の五影階段襲撃の時に捕まった香燐は、自分の名前を軽々しく呼んだ者を瞳に映し、ますます首を傾げた。
それもそのはず、カナは今いつもの姿ではなく、黒髪黒目という風貌。

「誰だよ、お前」
「ハハ、そうなるよなあー」
「あ、その……カナです」
「……はァ!!?いっ、げぇほっ」
「おい囚人、お前も体力回復しきってないんだからな。あとやかましい!」

担当の者、つまり看守は一喝するが、香燐はまったく気にせずとにかく自分の驚愕を精一杯表していた。看守は肩を落とすが、慣れた様子でこの場で唯一罪人じゃないナルトの肩を叩く。「ナルト、面会は5分までだぞ。五分間ならこの場を任せる」と一言、疲れたようにこの場を離れていくその背中に、「あー、ありがとだってばよ」とナルトは珍しく申し訳なさそうに声をかけた。
黒髪をなびかせたカナは、躊躇しながらも香燐を閉じ込める牢に数歩近づいた。

「お久しぶり…です。多分、そんなに日は経ってないけど」
「おま……なんで。色々、なんで!?」

もちろんここに閉じ込められた香燐とて、カナが同じように木ノ葉に連行されたことは小耳に挟んでいた。だが、この場にカナが居るわけとは。外を出歩けているわけとは。黒髪黒目という姿のわけとは。という、“色々”をなんとなく察したカナは、困ったようにしながら、一から説明した。

「ナルトさんが」
「ナルト?……ああ」
「オレのことだってばよ」
「私が記憶を取り戻すためには里を見て回ったほうがいいと言って。里長様に許可をもらったんです。けど、私が抜け忍だってことは……有名らしいので、変化が絶対だということで」
「ああ、それで……。……よく見たらカナだけど、色がちがうと全然……違うな」

香燐もナルト同様、今のカナの姿を見ているとサスケを思い出してしまうが、わざわざ口にしようとは思わなかった。

「けど、なんでウチのところに来たんだ?ウチは昔の記憶に関係ないだろ、うずまきナルト」
「カナちゃんが真っ先に言ったんだってばよ。お前に会わせてくれってな」
「え?」

香燐は目を瞬いてカナを見る。カナはどことなく居心地悪そうに目を泳がせてから、「あの時のことを思い返すと……」と零した。

あの時。───サスケに殺されそうになった時。二人の脳内に同時に同じ記憶が流れる。あの時、ダンゾウに捕まった香燐。それを突き飛ばし、香燐の代わりのようにダンゾウを押さえつけたカナは、ダンゾウもろともサスケの千鳥によって貫かれた。苦く、重い記憶。そしてカナはあの後、回復させようと自分の腕を差し出した香燐の申し出を断って───
牢の中の香燐は、思い出した記憶にぐっと拳を握りしめた。

「……なんかもう、遠い昔のことみたいだな。つい最近のことなのに」

言われた言葉に、カナもゆっくり頷いた。

「……香燐さんに会わなきゃって思ったんです」
「……ウチに?」
「はい。自由に出歩けると思った時、まず香燐さんの顔が浮かんだんです。……ただ、その理由が、自分でも分からないんですけど」
「理由?」
「……なにか、私の中のなにかが、訴えかけてくるようで」

その微妙な言い回しに、ナルトもじっとカナの横顔を見つめた。しかし、カナの口からそれ以上の説明が出てくることは無かった。
カナもその頭で、他人が満足できるような理由を生み出そうと考えたがしかし、やはり“自分の中の不透明な部分”がそう求めたとしか考えられなかった。今のカナにはわざわざ他人に会いにいくような理由が無いのだ。香燐に何かを言いたいと思うわけでも、安否を確認して満足したわけでもなんでもなかった。
「(……自分のことながら気持ち悪い)」と心の中で一人ごち、カナはようやくもう一度口を開いた。

「特別用事があったわけではないんです。……すみません」
「いや。……ウチは今、できたぞ。用事」
「え?」
「言ってやるよ。今、会いに来たことこそが、多分。“お前”だよ。カナ」

今のカナとは違い、香燐には分かる。それは、口にこそ出さないがナルトも同じだった。
自分に親しく関わった人の安否を逐一心配するのは、普通の感覚だ。他人を想うことのできる人間なら、誰でも持ち得るなんの変哲も無い感情だ。そしてナルトは知っている。“風羽カナ”は特に、人一倍他人を想うことのできる人間だった。
“カナ”は消えたわけじゃ無い。ナルトは希望を見た気がした。───記憶は取り戻せる。

「……生きててよかったよ。カナ」

香燐はそう続けて笑った。

「会いに来てくれてありがとな。あと、ダンゾウに捕まった時、助けてくれた時のことも感謝してるよ」

応え方が分からずに、言葉を受け続けるままのカナを責めることなく、香燐は満足そうに言った。

「記憶、取り戻してこい。……うずまきナルト。カナのこと、頼んだぜ」
「言われなくても分かってるってばよ。元よりそれが目的だ」

立ち尽くすカナをよそにやり取りする二人は、ここでの会話がほぼ初めてだったが、何かを通じあったかのように穏やかな表情だった。
そのちょうど良いタイミングで戻ってくる足音が聞こえる。「五分だ。面会は終了だぞ」と規律に厳しい看守はしっしっとナルトとカナを追い返そうとする。はいはい、とナルトは頷いて、未だに動こうとしないカナの肩を叩く。自分の中の得体の知れない感情と戦うカナは、それでようやっと足を動かし、牢から離れるように後退した。
それを見送る香燐。小さくだが、満足げに口角を上げて、最後というように言葉を渡す。

「カナ」
「!」
「ウチもこの里で数日過ごしてるけどさ。なんとなく分かるぜ。ここは、お前が育ってきた里だってさ。カナみたいなヤツができあがる里だって。……思い出すよ。すぐ」

香燐の言葉がカナの心に深く沈殿する。それは励ましの言葉か───けれど、沈殿するようなその言葉は、色にしたら、真っ黒いもののように今のカナは思った。正体が掴めない、恐ろしいもののようだった。
カナは結局最後まで香燐に返事をすることなく、ナルトの後をついて、牢獄の建物から出た。



なあ、腹減らねえ?

その一言は、カナを気遣うというよりは自分の腹の虫が鳴ったからで間違いないだろうが、カナは特に違を唱えることもなく、大人しくナルトの行く先についていった。
うずまきナルト、その名前に相応しい食べ物の屋台だなというのがカナの感想だった。ラーメン屋、一楽。その暖簾を慣れた調子でくぐっていくナルト。

「テウチのおっちゃーん。二人!」
「おォ!ようナルト。なんだ、こんな真昼間から。お前暇かァ?」
「大きなお世話だっつの!オレみてえなすげェ忍者にだって休養は必要不可欠だろ!」
「へいへい。で、もう一人はどこよ?」
「ん?あれ、入ってこいよ、……」

カナちゃん、と続けようとして、ナルトは慌てて自分の口を塞いだ。
香燐の元へはカナの要望で向かったからともかく、ここはもう木ノ葉のど真ん中。抜け忍が軽々しく歩かざるべきところである。シカクの険しい表情を思い出すと、安易にカナの名前を言ったらどんな処罰が下されるか。もちろん、テウチとてかつてのナルトのチームメイト・カナが抜け忍になったことを知らないわけはない。その人柄ゆえに騒ぎ立てることは無いだろうが、「知人にも教えるな」と釘を刺していたシカク。
どうしたァ、と訝しげなテウチの声を背後に、冷や汗をかきながら暖簾の向こうのカナを手招きするナルト。目を瞬いたカナは、ナルトの表情の理由を読み取るが、なんとなく立ち往生してしまう。恐らく仮の呼び名でも決めとかないとこの屋台の中でナルトはいつかボロを出すだろう。

と、思っていたところで、ナルトが突然なにかを閃いたように目を見開いた。そのまま高速でカナの腕を引っ張る。

「メ、メンマ!」
「え……メンマ?」
「テウチのおっちゃん、今日はメンマって子を連れてきたから!この子にとびっきりうまいラーメン頼むってばよ!」
「おお?なんだァナルト、お前、サクラって子がありながら美人を連れてきやがって」
「バカ!オレにだってオンナトモダチくらい他にもいらあ!サクラちゃんは別格だっての!」

ナルトにメンマ。面白い名前の二人が並んでしまった。テウチは気づく様子もなくカラカラと笑うだけだった。
二人以外来客のない座席。ナルトに無理やり座らされたカナは、戸惑った顔でナルトを見た。

「メンマって……」
「我ながら良いネーミングだってばよ。オレも呼びやすいし」

コソコソと会話する。ナルトの得意そうな顔を見て、カナはそれ以上なにも言えなくなってしまった。良いネーミングというよりは、どちらかというとネーミングセンスを疑ってしまいそうだったが、気にしないことにした。
ナルトが何か手際よく注文していて、カナはなにも口を出さず、ぼうっと座りながら屋台の中を見渡していた。“カナ”もここに来たことがあるのだろうか。ラーメンか……と自然に思ってから、カナはハッとした。

「私……ラーメンなんて食べたことない」
「えっ?」

その驚きは、ナルトもテウチも同時だった。

「そんなわけねえって!オレらよく一緒に、」

と続けようとして、ナルトは慌てて口ごもる。テウチはこの“メンマ”を見たことないのだから、二人の話に余計な齟齬が生じてしまう。
幸運にもテウチは気にしていないようだった。

「なんだと嬢ちゃん、お前さんこんなうまいもんを食べずにどうやってここまで生きて来たんだァ」
「ええっと…」
「さてはご両親が脂っぽいもん嫌いだな?まあ健康に良いとは言えねえけど、たまにはこういうもんでも食べて体に息抜きさせてやんねえとなあ。このナルトなんか、1週間毎晩食べに来てた時期もあったもんだぜ」
「そ、……そんなことあったかなァ?ま、まあ一楽のラーメンは絶品だからな!」
「こうやってすぐおだててきやがるから、こいつにはよく奢ってやったもんだ。口がうめえのなんのってな。ほらよ、嬢ちゃん。じゃあ今日は嬢ちゃんのラーメン記念日だな」

しかしメンマなんて名前なのになァ、とからころ笑いながら、テウチはトンッとカナの前に器を置いた。話のスピードについていけなかったカナは、黙ってそれに目を落とす。できたての熱い湯気がたっているラーメンの、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
その瞬間、ぞわっとカナの鳥肌が立つ。風羽の森になかった文化だ、カナの記憶にこの料理を食べた経験など刻まれていないが、五感がカナの記憶に揺さぶりをかけてきたようだった。瞬間的に察した。“私はこれを食べたことがあるのだろう”、と。ラーメンを食べた記憶がないのに、知識として刻まれているのがその証拠だ。

「ほらよ、ナルトも。お待ちッ」
「おおーっ、相変わらずうまそうだってばよ!いっただっき」

そこまで言ったナルトの目がチラッと横を見る。たった今来たラーメンをじっと眺めているカナ。
第七班で何度もこの場に訪れた記憶がナルトの脳裏に蘇る。ケンカするナルトとサスケの隣で、サクラと平和に笑いながら、カナはおいしそうにラーメンをすすっていた。けれど、そういった記憶は今、このカナにはない。
眉を落として笑うナルト。その手が、新たな一膳の割り箸と、レンゲを掴んだ。

「初めてだもんなァ、メンマは」
「あ、」
「ほら!こうやって、左手にレンゲを持って、右手に割り箸!まずレンゲでスープ飲んでみ!」
「え、あ、はい」

無理やりレンゲと割り箸を持たされ、カナはあわただしく食事の準備をする。言われたままにスープをすする姿をナルトとテウチが見守る。

「あ……おいしい」
「だろう!?」

またも二人の声が重なる。テウチはとてつもなく嬉しそうだ。

「ラーメンはまず、スープを飲む!んで、そのあとに麺をすするんだってばよ」
「わ、わかりました」
「熱いからな、気をつけろよ。一気にすすると服に飛び散るから、レンゲでうまく抑えながら吸い込むのがコツな!」
「はい、」
「よし!んじゃオレもっ、いっただっきまーす」

レンゲを使って…と説明していたはずのナルトは、器ごと口に持っていってスープをごくっと飲んでから、これまた服に飛び散るのなんて気にせず、一気にずぞぞぞっと豪快に麺をすすっていた。
カナは呆気にとられてその姿を見守ってしまった。「あー!しみ渡るゥ!」と口を拭うナルトのなんと満足そうなことか。感想を漏らしながらも掃除機のように麺を飲み込んでいき、一杯平らげるのにかかった時間およそ30秒。

「おっちゃーん、おかわり!……ってメンマ、まーだ二口目いってねえの?」
「お前なあ。うまいのは分かる、そりゃウチのラーメンは超うめえが、もうちょっと味わって食え。嬢ちゃんが引いてるだろ」
「早く食わねーと一番ウマイ時を逃しちまうってばよ!ほら、早く!猫舌じゃなかったろ!」
「だーから急かすなって!嬢ちゃん、自分のペースでいいからな」

騒がしい二人になんやかんや言われ、慌てて頷いて見せる。たどたどしい手つきで麺をすすり始めるカナだが、自分に集まる視線が熱すぎて食べにくい。それに気づいた大人なテウチは、またからころ笑ってナルトのための二杯目を作り始めるが、ナルトは相変わらず不躾な視線をカナに向けるばかりだ。
それが気になるとはいえ、諌める言葉も思いつかないカナは、視線を気にしないように努めながらラーメンをすすり続けた。

「ほらよ、ナルト。二杯目だ」

トンっと軽快な音と共に、ふたたびナルトの目の前に器が置かれる。それでやっとカナから視線を外したナルトは、サンキューと笑い、その隣のカナはようやっと肩の力を抜いた。
しかしカナは数秒後にまた別の違和感を感じて、そっとナルトのほうに視線を向けた。この出店に入ってから初めて訪れた静寂だった。ナルトのラーメンを食べる手は動いていたが、その意識は今、別のところにある気がした。

どうしたんですか、という言葉は、カナの口からは出なかった。声をかけていいものかどうか躊躇が大きかった。
その代わり、カウンターの奥の声が、先ほどよりも穏やかに聞こえてきた。

「らしくねえよ、ナルト。ラーメン食べながら辛気臭え顔するな」

カナがテウチに視線を向けると、彼もまた先ほどとは眼差しが違う気がした。

「またいつでも食べに来れんだから、最後の一杯みてえな顔してんじゃねえぞ」

カナの頭に一瞬浮かんだ疑問は、ナルトの「そんなこと考えてねってばよ」という少し強がった声から、すぐに理解した。

「(戦争が始まるんだ)」

「一般人はお前ら忍に守られるしかねえけど、守られた分、終わった後は盛大に労ってやっからな。その時は、全部奢りにしてやる。何杯でも食っていいぞ」
「……ヘヘッ。いいのかよそんなこと言って。店潰しちまうぞ」
「バカヤロウ、この道一本の一楽をなめんじゃねえぞ」

長年の付き合いなのだろう二人の顔には、一抹の不安を感じていても、それを表に出さない決意も溢れていた。

「嬢ちゃん」
「!」
「見たところお前さんも忍だろ」
「あ……はい」
「ナルトは今じゃこの里の英雄なんて呼ばれてるやつだが、まだまだてんでガキだからな。嬢ちゃんみたいに、賢そうな子がいてくれたほうが安心だ」
「おっちゃん、余計なこと言うなって!」
「助け合って、必ず帰ってきてくれよ」

テウチの眼差しをまっすぐ受けて、とくんとカナの胸が波打った。
自分にこの言葉に何かを返す資格がないことは明白だった。今のカナは、この里の人間とは言えない。戦争に対する思いも、この里の人間に対する思いもまるで無い。
今のカナは、完全に部外者だ。
馬鹿正直に目をそらしたカナに助け舟を出したのはナルトだ。

「オレたちは大丈夫だから、おっちゃんもなんかあったら必死に逃げてくれよな!」
「なんかあったらって…なんもないようにすんのがお前らの仕事だろうよ!」
「そりゃそーなんだけどさ!あーもう、なんか恥ずかしい空気になっちまった!メンマ、ラーメン食いきった?」
「は……はい」
「よし、じゃあ行くか!おっちゃん、お勘定!」
「ったく、へいよ」
「あ……私お金、」
「いいってことよ、ここはオレのオゴリだってばよ!」

カッコつけたふうに言ったナルトは、反して可愛らしいカエルのガマ口財布を取り出した。パンパンに膨らんだその口から小銭が取り出され、机にじゃらっと置かれる。
まいどあり、と楽しげなテウチの声を背に、ごちそーさん!と明るく言ったナルトは先に屋台から出て行った。その勢いに乗り切れなかったカナも、慌ててテウチに頭を下げ、屋台から飛び出した。



里全体が戦争を予期している…とはいえ、全土を緊張感に満たすわけにはいかない。ストレスを抱えさせるわけにはいかない。
とりわけ木ノ葉の忍者アカデミーでは、もちろんこれから里を背負う忍になるという人材を育てているわけだが、幼い子供も多い。ある程度戦争については教えつつも、戦闘員になるわけもない年代の忍の卵たちは、普段通りの学校に通っている。
必然的に、いつも通りとはいかずとも、少人数の交代制で教員はつく。そして、ちょうど本日の担当であるイルカは、グラウンドで走り回るちびっ子たちを見ていた…わけだが、ふと近づいてくる気配に気がつき、顔を上げた。

見慣れた金色の髪…と。
見覚えのない深い黒。

「イルカせんせー、暇そうだなー!」
「余計なお世話だ。なんなら代わるか?」
「いーけど、オレに生徒たち任せてもいーのかよ」
「…いや、やめとこう」

任せた後が怖すぎる。
ニシシ、とイタズラそうに笑っている元教え子・ナルトに苦笑い込みのため息をつく。それから、改めてそのナルトの数歩後ろで佇んでいる黒髪の女を見た。
初めて見る顔……だろうか。抜け忍となった元教え子を彷彿とさせる色をまとっている、が、別のイメージも邪魔する。
なんと言うべきか迷っているうちに、先に女が口を開いた。

「………こんにちは」
「あ…こんにちは。…初めまして、かな?」
「えっと〜…メンマって名前だってばよ」
「メンマ?そりゃまた…」
「オレの〜…友達!」
「そりゃそうだろうが…どういう…」
「まあまあ!細かいこと気にしないでくれってばよ!イルカせんせー、ちょっとメンマ連れてアカデミー歩いてもいい?」
「そりゃ、かまわないが」

ナルトの交友関係なんて、大方イルカが知らないわけがない。広いようで狭い里だし、ナルトは逐一色んなことをしゃべり尽くす人間だから、何でもかんでもイルカに報告してきたはずだ。
それに、おそらくこの佇まいは忍だ。一般人ならともかく、木ノ葉の中でここまで一切見覚えのない忍者がいるはずが…ない。

見覚えの───

「………」

イルカは目を細めた。

「ああ…ゆっくり見てくるといいよ」

一層穏やかなイルカの声。メンマ、もといカナは目を瞬いた。
一方でイルカとやりとりをしていたナルトは、同じようにイルカの反応を目にし、斜め上を見ながら頭を掻く。さすがだよなあ、と口にした声は、誰にも届かなかったが。

「サンキュー、イルカせんせー」

ナルトはそれ以上は何も言わずに、「行くぜメンマ」とカナの手首を掴みて歩き出し、カナは引っ張られるままに歩き出す。イルカの真意など掴めるはずもないカナは、それ以上挨拶もできずについていくままとなった。

ただ、なんとなく背中に視線は感じる気がする。とはいえ振り向けない。
どう考えても悪意はなく、むしろ温かい。居心地が悪かった。

「今の、ぜってーバレてんだよなあ」
「えっ?」

前を歩くナルトから今度は聞こえた呟き。
ナルトは軽く後ろを振り返り、カナを見て眉を下げて笑った。

今のカナは、まるきり色を変えただけのカナというわけではもちろんない。髪型も違うし、背丈はそもそもイルカが今のカナの背丈を知るよしもない。顔の造形も変わっている。
だが、今のカナがまとっている黒髪に黒い瞳───恐らくイルカはそもそも、黒というだけでサスケを連想した。あとは、ひとつふたつの連想ゲームだけで、核心に近付いてしまう。

「だいじょーぶ。イルカせんせーは、色々わかってくれるひとだから」
「イルカ先生…」
「オレたちの担任だった人。カナちゃんは…そこまで深い関わりだったかどうかは分かんねーけど、カナちゃんは、いつも笑ってたってばよ。オレがイルカせんせーに追っかけられてんのを見てさ」

ナルトは思い出すように言う。

「オレってば、あの頃、みんなに構って欲しくて、いたずらばっかしては、ド派手に怒られててさ。特にイルカせんせーってば面倒見の塊みてーな人だから」

ナルトにとっての大事な人なのだろう、とカナは喋り続けるナルトを見ながら思った。
ろくな相槌を打たずとも、思い出話を聞かせるようなナルトの横で、カナは変わっていく景色をぼうっと眺めた。記憶の琴線に触れるかどうかはもう定かではない。
新しくない作りの建物。教室が並んでいる。中はシンと静まっている。生徒たちはみなグラウンドにいるのだろう…そもそも来たる戦争のせいで、集まっている生徒たちが少ないのか。
とある教室の前で、ナルトはぴたりと止まった。

「ここ。オレたちの最後の教室だってばよ」
「…」
「オレも、サクラちゃんも、カナちゃんも…サスケも。みんなここにいた。ここから始まった」

代わり映えのない教室だった。
だが、ナルトが名前を呼ぶたびに、なんとなく、カナの頭の中で昔あったのかもしれない景色が浮かび上がった。
一番前をじんどるナルト。前から二列目くらいに座るサクラ。そのサクラがこそこそと振り返る先、一番後ろの席の窓側にサスケ。…カナ自身はどこにいるのか想定がつかなかった。

「オレってばいつも一人だったけど、我ながら底抜けに明るい性格だからよ。いっつも一番前で大騒ぎ。って、そもそも、イタズラでいねえことも多かったんだけどな。サクラちゃんは優等生だから、そこそこ前には座ってんだけど、いっつもいのと一緒にサスケを眺めてた。オレは、そんな様子見ながら腹立ててんだ。クールぶって窓の外眺めてばっかのアイツによ」
「…楽しそうですね」
「楽しかったってばよ。それに、カナちゃんも楽しそうだった。いちばん」
「私が…」
「カナちゃんを思い返すと、笑顔しかねえよ。カナちゃんは、誰の隣にも座るんだ。どことか、なかった気がするなー」

ナルトは一人教室の中を歩いていく。あの頃、大きかったと思っていた教室も、今の歩幅だと大したことなかった。変な感覚だ。
ナルトが向かったのは、昔座っていた自分の特等席ではなく、サスケのそこだ。ちょうどそこの窓は開いていて、風が入ってくる。椅子に座ると、ますます自分の体格の成長を感じた。
ナルトの青い目に教室全体と、今のカナが映る。

「サスケはきっと、ここから一番カナちゃんのこと見てたんだろーな…」

ぼやくナルトになんと返せばいいか分からず、カナもおもむろに座席の間を歩き出した。適当な席に座ってみる。低くて座りにくい感覚と、教室の座席特有の匂いが鼻を掠めた。

「サスケさんの隣に…座ってそうだなと思ってました。私は」
「へへ、もちろんそんな時もあったと思うってばよ。でもさ、サスケの隣ばっかに座ると、サクラちゃんたちサスケファンが黙っちゃいなかったからなー。どっちかってーと、ヒナタの隣が一番多かったかなァ。あ、黒髪の女の子な」
「…病室に来てくれた子ですよね」
「そーそ。でも、ほんとカナちゃんは友達が多かったから、色んな子とつるんでたってばよ」
「…すごい…ですね」
「カナちゃん、自分のことだって」
「…今の私には」

そんなことできない、という言葉を吐きそうになって、カナは口をつぐんだ。
今の自分のことはそんなに重要ではないのだ。今のカナには想定できない、昔の自分の姿。他人思いになる心。昔の自分は、どれだけ…

「…次行くか」

沈黙を割くように、ナルトは言って立ち上がった。通路沿いに座っているカナの頭にぽんと軽く手を置く。

「しんどくなったら言ったらいいんだけどよ。次、もっとカナちゃんに近づこう」
「え…?」
「カナちゃんち。まだ、あるからさ」



その扉の前まで足を運んでも、当然のことながらなにか思い出す様子はなかった。
いたって普通のアパートの一室だ。ナルトがその手に鍵を持っている。「来ると思って、前もって借りてきてたんだってばよ」と笑うナルトは、意外にも用意周到だった。
鍵を回し、ドアノブをひねる。だが、そのまま開くと思った扉は開かなかった。

「ん…あれ?」
「…どうかしました?」
「立て付けわりーのかな…これ、力づくで引いたら壊れるなんてことねえか?」

困ったように頭をかくナルト。それを見ていたカナは、ふと思い立って口を開いた。

「ちょっと…いいですか?」

珍しく自分から口を開き、ナルトのほうに一歩近づく。きょとんとしたナルトは自然と一歩下り、ドアノブをカナに明け渡した。カナの手がドアノブを掴んで、回したかと思うと…

「あれ…開いたってばよ」
「…コツがいるんです。少し、上にあげて…」
「思い出したのか!?」
「いえ、そういうわけじゃ…でも、なんとなく…」

自分の中でも気持ち悪い感覚を吐露して…カナはその視線を、ドアを開けた先に向けた。

一人暮らしの家。
すぐに眼前にワンルームが広がっていた。広くはないキッチン、数冊の本を積んでいる机、布団はなく木枠だけのベッド…そのどこにも、多少の埃が積もっている。だが、何年も家主が空けた有り様というほどではなく、そこに違和感を覚えた。
壁際にある箒とちりとりだけは、比較的新しいもののように見える。

「ヒナタが、数ヶ月に一回は掃除してるらしいってばよ」

殺風景な部屋に、ナルトの声が響いた。今日一日に何度も聞くヒナタという名前、余程関わりが深かったのだろうと、カナは箒を見ながら思った。布団など、カビがきそうなものは運んでくれているのか…そういった細かい気配りが見て取れる空間。
歩くと多少の埃が舞う。過去の自分が暮らしていた空間。風羽の家とは作りが違う。もう、本当に懐かしいのか、ただ懐かしいと思わないといけないと思ってしまってるだけなのか、分からなかった。ただ。

「オレは初めて入ったんだけど…なんか、カナちゃんの匂いがする」

匂いは、一番敏感に記憶を刺激するらしい。それだけはカナにも確かで、心臓がどくどくと強く跳ねているようだった。
カーテンはカビやすいとはいえ、さすがに家の中を見られるのはまずいと思っていてくれたのか、残っていた。そのカーテンを開けると、夕暮れにさしかかろうとしている光が入ってくる。
ますます家主が消えた空間が寂しく映った。

「…ここに一人で暮らしてたんだよな、カナちゃんは」

確かめるようなナルトの発言。

「…カナちゃんは、そういうの、言わなかったんだ」
「…?」
「家族がいないこととか、実は木ノ葉の生まれじゃねえとか、あと、自分の中に宿してるもんとか…まあ、それに関しちゃ、オレも九尾のこと人にそんな喋んなかったしおあいこなんだけどよ。でも、そういう自分の暗いこと、とにかくオレにもサクラちゃんにも言わなかった」

水月から似たようなことを聞いた。何も喋らない…本音を言わない…過去の自分。

「余計な気を遣わせたくなかったんだと思う。自分ばっか気にしてさ。気遣いでカナちゃんに敵う人間、そうそういねえってばよ」

笑うナルトだが、なんとなく寂しそうに見える。

「でもさ。今は、もう全部知っちまった。カナちゃんがずっと抱え込んでたこととか。どんだけサスケが大事なのかとか。本当の気持ちとか。だからさ、カナちゃんが記憶取り戻したら、前よかずっとずっと本音で喋れるぜ!」

差し込んでくる夕日が、ナルトの笑顔を照らす。安心しろと、言われているようだ。イタズラばかりでやんちゃだったというこの少年の方が、今や、人を思う気持ちとか、気遣う気持ちとか、敵う人間がいると思えない。
何もいえないカナに無理やり返答をさせることもない。「あ、そうだ、これを一番見て欲しかったんだってばよ」とナルトが向かった先は、机のほうだ。そこに飾られた写真立て。

「これ。昔のオレたち!」

カナの瞳に映った一枚の写真は、ほんのりと埃を被っていたが、その埃をナルトの指が丁寧に払った。
青い空を背景に…そこには四人の人物が写っている。誰と言われずとも、面影を強く残している。いがみ合っている少年二人、その二人を押さえつけている男性、何も気にせず無邪気に笑う少女、そしてその全員を見ている、

「これが…わたし」

困ったように、けれど、幸せそうに笑っている少女。
今のカナに、この頃の自分の姿の記憶はない。今の自分の成長した姿には幾分か慣れてきたが、その成長過程を見るのは当然初めてだった。見慣れた幼い自分の姿の面影を濃く残した、まだ幼さの残る少女だ。

「懐かしいよなあ。…つっても、わかんねーと思うけど」

カラッと笑ったナルトは切なそうだ。

「オレもなんかまじまじと見るのは久々だってばよ。嬉しかったなァ、こんときは…オレってば、誰かと写真撮るとか、なかったからさ。初めての…仲間との写真だ。ずっと残せるもんがあるの、嬉しかったなァ………あ」

ぼやっと語っていたナルトは、ふと思い出したように、カナを見た。まるまる三秒ほど無反応のカナを見つめて、突然照れ臭そうに笑った。

「あ、あと、オレってば、こんときくらいは、サクラちゃんとカナちゃん、どっちのほうが好きか悩んでた」
「え?」

さすがにカナは首をかしげた。想像だにしていない言葉は、人に本音を出させるのかもしれない。

「恋多き少年だったんだってばよ!」
「そ…そうですか」
「いつも元気なサクラちゃんは可愛くてキラキラしてて大好きだったし、優しくて面倒見がいいカナちゃんにはいつもときめいてた!」
「…はあ」
「カナちゃん、結構モテてたと思うしなー。ま…オレはそのうち、そうじゃねえなあって、気づいたんだけどさ」
「…」
「カナちゃんは、姉ちゃんみたいな存在だった。憧れとか、そんな感じ。いつもオレの気持ちを引っ張ってくれた」

ナルトの目がまた写真に落ちる。カナも釣られて写真を見て、ぼんやりと、今はまったくの逆だなと思った。
今の自分は何もできない。何も言えない。言いたくもない。そんな優しい気持ちにも溢れていない。ただ、この明るい少年に引っ張られている。断ることのできないほどの明るさに。

「私には無理ですよ…そんなの、もう」
「無理じゃねえって。だって今のカナちゃんもカナちゃんだ」
「今の私は、まったく別です」
「だって“カナ”は別に、マダラに性格を造られたわけじゃねーだろ?」

ふと、違和感を覚えた。ナルトに、カナと、呼び捨てで呼ばれたのは初めてだった。だが、悪い感覚のものではない。
ナルトはニッと笑った。

「ごめんな、嫌じゃねえ?」
「え…い、嫌では…」
「今のカナちゃんは、造られたもんじゃねえ!それは断言できるってばよ。なら、オレ、ちゃんと今のカナちゃんとも…カナとも、仲良くなりてーんだ。そんで、なんか、今のカナちゃんは、なんか“カナ”って呼べそうだからさ!」

あとぶっちゃけサイがあっさり呼び捨てで呼んでてちょっと羨ましかったんだよなー、とナルトは恥ずかしそうに笑う。その様子を見ていると、じんわりと自分の胸が熱くなってくるような感じがした。

初めて、居心地が良いと、感じたのだ。この世界で目が覚めて、初めて。
ナルトは、今のカナを見て、新たな呼び方を決めてくれた。過去のカナの関係のないところで、新たな関係性を作ろうとしてくれているのだと感じた。それは、今の自分しか分からないカナにとって、もっとも感情を揺すぶられることだった。
もう少し、この人に近づきたいと、初めて思った。

「…じゃあ、私は」
「うん?」
「ナルト、って、呼ぶね」
「!! …うん!もちろんだってばよ!へへっ」
「…な、なにかな」
「カナが笑った顔、久々に見た!」

言われて、カナは自分の頬に手を当てた。さすがに自分が笑ってるかどうかなんて分からないが、自分の顔がほてっていくのは感じた。
“鷹”と過ごしている時は普通に笑っていた。だが、サスケに殺されかけ、この里に来てからは、初めて緊張感が解けたような気がする。それはこの里に来てからのほうが、自分が記憶を取り戻さなければならない、それがこの里に求められていることで、記憶のない自分に存在価値はない、と強く思い込んでいたからだろう。事実そうだ。
けれど、ナルトは、今目の前の自分も肯定しようとしてくれている。

「カナほど笑顔が似合うやつ、いねーってばよ!」
「…きっと、ナルトのほうが、そう思われてると思うけどな。私、あなたの笑った顔ばかり見てるよ」
「そうかなァ?」
「…元気づけようとしてくれてるんだよね。ありがとう」
「べっつに、無理なんかしてねーよ?それに、実際うれしーしさ。こうやって、また喋れてんの。自然と笑顔にもなるってばよ!」
「…本当に優しいんだね」

ここに来て初めて、ぽんぽんと会話が飛んでいく。今の今まで敬語で喋っていたというのに、カナの中でも、こうやって砕けた口調で喋ることがなんの違和感もなかった。
それはやはり、自分の中で別の人格がいるからかもしれない。

七班の集合写真を見つめていると、その少し奥にもうひとつ立てられている写真を目に捉えた。カナの目が僅かに見開き、その手を伸ばす。「母様…父様」とその唇が震えた。
親子三人の仲睦まじそうな写真だった。

「…よく似てんな。二人に。特に母ちゃんの方…今のカナ、そっくりだってばよ」

ナルトがその横から写真を覗き込む。
銀色の髪を携えた女性が、穏やかな笑顔で写っている。少女は無邪気な笑顔で笑っていて、男性はそんな二人を見守っている。───この写真を撮った時のやりとりを、今のカナは鮮明に思い出せる。なんといっても、今のカナにとっては、そこまでの月日が経過している感覚にはないのだから。

「…変な感覚なんだ。ずっと」
「…?」
「私にとってはね…二人は、つい最近まで生きていた人なの。でも、それが、もう十年以上経ったことだって言われた。まだ私の中では二人の姿も、一族のみんなの姿も鮮明なのに。なのに…私はびっくりするくらい大きくなってるし…みんなももういない。それがすごく…気持ち悪いから、全部思いだしたほうが楽になるんだと思う…けど、」

重い、吐露。
夕暮れの日がカナの横顔を照らす。浮かぶ影が濃い。その指が写真立ての端を掴む力が徐々に強くなっていく。苦渋に歪む顔を、ナルトは真っ直ぐ見つめていた。

その感覚を想像しようとしても難しい。「けど」と言葉を区切ってそれ以上続けなくなってしまったカナが、それから何を言おうとしているのか、ナルトには予想がつかなかった。
ただ、わかるのは、本当にここにいるのは、カナであって、カナではない。別の人格となった、昔のカナとは考え方が違う人間なのだということだ。それを、否定してはいけない。

「…なあ、カナは」

ナルトの口が動く。だが、その言葉は最後まで終わらなかった。


タッタッタッタ───


忍である二人の耳に、すぐに届いた音があった。
唐突だったのか、それとも話に夢中になっていて今の今まで気づけなかったのか知らない。
足音だ。アパートの通路を走ってくる。

その音が今二人がいる部屋の前で止まったのと同時、立て付けが悪いはずのドアがあっさりと、それでいて乱暴に開けられた。
あっさり開けられたということは、この部屋のことを熟知している人間───


「木ノ葉丸!?」


ナルトが慌てたように前に出た。

「ナ、ナルト兄ちゃん!?」
「お前、なんでここ…」
「こっちのセリフだってばよコレ!!カナ姉ちゃんの部屋のカーテンが開いてるから、誰か侵入してるんだと思って驚いたんだぞ!今日はヒナタの姉ちゃん掃除するとか言ってなかった、し…」

木ノ葉丸の目が、当然ながら、別の人影を捉えて、数秒止まった。
咄嗟に前に出て自分の影でカナを隠そうと思ったナルトは、その瞬間に冷や汗をかいた。今、カナは変化をしているとはいえ───

「…誰だコレ?」

カナは事態が掴めない。
突然入ってきた少年。真っ直ぐで無垢な視線に晒される。

「えっと…メンマ…です…」
「…メンマ?」
「あー!!そうそう!!メンマ!!木ノ葉丸、コイツ、オレの、友達!!」

慌てて割って入るナルトだが、木ノ葉丸の疑念は膨らむばかりだ。

「…別に名前はなんでもいいけど、なんでナルト兄ちゃん、この人をカナ姉ちゃんの部屋に入れてんだよコレ」
「いやーーー…それはーーー…」

そこで、カナも状況を察する。カナ姉ちゃん、と親しげに自分の名前を呼ぶ少年をみるに、深い繋がりがある。そして、自分の正体は今誰かにバレるわけにはいかないのだ。
カナはずっと持っていた写真たてを離し、元の場所に戻した。

「ごめんね。ちょっと、このカナって人のこと、知りたくて。ナルトに、お願いして入らせてもらったの」

一歩前に出て、身長の低い少年に目線を合わせて言ったカナは、ひとまずこの場を切り抜けるために、自分らしくない笑顔を貼り付けた。カナの中でのイメージは、かつて風羽で暮らしていた頃、幼い自分に笑いかけてくれた年長者たちだ。
こうして目線を合わせて笑いかけられると、自然と警戒心がほぐれる───咄嗟に思いついたこの場の切り抜け方。

木ノ葉丸の瞳に、その仕草が映る。近づいてきた黒髪の女性は、前髪を抑えながら木ノ葉丸の視線の高さに近づいた。
その微妙な動作や、安心させるような笑い方、その癖が、安易に記憶を揺さぶってしまった。

「カナ姉ちゃん───?」
「!!」

ナルトとカナが目を見開くのは同時。

「カナ姉ちゃんじゃないのか、コレ…?それ…変化か…?」

木ノ葉丸の方から一歩カナに近づく。警鐘が頭に鳴ったカナは逆に一歩下がったが、下ろしていた両手首を、真正面から木ノ葉丸が捕まえた。
汗ばむ手を感じる、遠慮気味だが力強いその幼い手から逃げられない。

否定の言葉を咄嗟に出せないナルトとカナの前で、木ノ葉丸の目から涙が溢れ出ていた。一筋、二筋、息つく間もなく、感情が決壊するように。
それを目に、カナは呆然としてしまった。溢れる涙───強い想い。それは、過去の自分への。

「オレ…オレ…ッずっと待ってたんだぞ!!カナ姉ちゃんが帰ってくるの!!」
「…!」
「カナ姉ちゃんがいないまま、アスマおじちゃんが亡くなったんだ…!アスマおじちゃんもずっと待ってたんだ!カナ姉ちゃんが帰ってくるのを…!!なあ、なんで、」
「木ノ葉丸、落ち着け!」
「勝手にいなくなっちゃったんだよ!!!」

ナルトが木ノ葉丸の体を掴んでカナから引き剥がしたが、悲痛な声は容赦なくカナを襲った。ぽた、ぽた、と床に涙が落ちる。震える木ノ葉丸は、カナの返答を待っていた。
何年も待っていた人の突然の帰還に、木ノ葉丸の中でも感情が追いつかなかった。嬉しい、よりも、そのごちゃまぜになった感情が先行した。

何秒経っただろう。カナは、やっと言えた。


「…私…もう、君の知ってる、カナじゃないんだ…」

心からの涙を流している少年の前で、カナは到底、嘘をつく気になれなかった。

「敵の術で…全部、記憶を無くしたの。だから、私、キミのことを、知らない………」

木ノ葉丸が息を呑むのがわかる。ナルトも固唾を呑んで見守るしかなかった。ナルトの腕から抜け出そうとしていた木ノ葉丸の力が弱まる。放心。

「ごめんなさい…本当に」


時が止まったような感覚だった。


「ッ木ノ葉丸!!」

木ノ葉丸はナルトの腕から抜け出した。だが、今度はカナに詰め寄るようなこともしなかった。
ナルトから離れた木ノ葉丸は、一瞬、カナの顔を見上げた。だが、開いた口からは何も出なかった。絶望したような瞳だった。

そのまま、木ノ葉丸は玄関へと走り出し、また扉を乱暴に開けて、出て行った。

「木ノ葉丸!!おい、待てって───」

しかし、ナルトが追いかけるよりも先。
カナが走り出して、その背中を追った。出て行った背中はもうアパートの通路からも出て、路地の向こうに消えようとしている。
カナは、この里に来てから初めて、大きく息を吸った。


「待って!!!」


───木ノ葉丸が止まる。振り返りはしない。
その背中に、カナは、自分の迷いを振り切るように、だがまだ迷いの残る自分を感じながら、それでも叫んだ。


「ちゃんと、思い出すから!!」


後ろでナルトが息を呑んだ気配を感じた。

「そしたら…必ず、キミに会いに行く。戦争とか色々あると思うけど、必ず行くから」
「…ッ」
「もう少しだけ、時間をくれるかな……」

返答は、やはりなかった。
木ノ葉丸の姿はまた走り出し、カナの視界から消えた。

風がカナの髪をさらう。気が抜けたように、その場でしゃがみこむその姿が、突然煙に包まれた。一瞬で張り詰めた気が抜け、思わず解かれた変化の術。
銀色が姿を現す。あ、しまった、とカナが思った瞬間、バサッと自分の上になにかがかかった。オレンジ色のパーカーを銀色の髪を隠すように覆い、ナルトはその上からカナの頭に手を置いた。

「…やっぱ、カナだって、“カナちゃん”だってばよ」

ニッと笑ったナルトを見上げたカナは、まだ自分の中で逡巡している迷いをそのまま口に出すことはできなかった。

───戦争が始まろうとしている。


 
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