マダラはその瞬間、瞠目した。

「お前......」

膝ががくんと落ち、銀色が舞い、金は鈍る。静まった戦場に響いたのは、酷く荒くなった呼吸だった。

「......良い判断とは言えないが」
「くッ...う」
「......皮肉なものだな。お前にとって憎い存在であるはずの、大蛇丸につけられた呪印に意思を託すとは」

目の色は元に。全身に走る痛みに汗が滴り落ち、だがカナはそれを拭うこともできなかった。襲いくるダメージは、ただ朱雀が今の今まで乗り移っていたからだけではない。
大蛇丸が三年前カナに施した呪印。
それを作動させる片手印を、カナは何度も目の当たりにし、身を以て痛みを体感してきた。憎いものだからこそ記憶した。ーーそしてたった今、カナはそれを行使したのだ。
"柵(しがらみ)"。力を引き出すのではなく、強大な力を押し込める呪い。

「痛みよりも、朱雀を押し止めたかったか?」
「......ええ」

荒い息を抑え、カナはゆっくりと立ち上がった。朦朧とする意識を奮い立たせ、マダラの仮面の奥の瞳を見る。

「"暁"の黒幕を殺すわけにはいかないから......」
「本当に、 それが理由か?」
「!」
「甘いな......お前は。"人を殺せない"、それはこの世界で"優しさ"とは言わないぞ」

写輪眼は全てを見抜いていた。カナの目が動揺で揺れる。その指先が震えているのは気のせいではない。
つまり、三年前とカナの心情は何一つ変わっていなかったのだ。木ノ葉崩しーーー爆発寸前のあの状況で、無我夢中で北波を救出した時と。目前の敵を自分の手にかける"覚悟"が、カナには備わっていない。

「......私は、人を殺すために忍になったわけじゃない......」

ぼそりと呟いたカナは、しかし自分の今の発言が何の力も持っていないことに気付いていた。"覚悟"がなくとも、音隠れでの三年間は嫌と言う程 カナに"現実"を見せつけてきた。

「ならばお前は、敵を殺すことと仲間の命が天秤にかけられた時、どうするつもりだ」

底冷えするような声がカナの耳に突き刺さる。マダラの赤はカナを冷たく突き刺していた。

「わかっているだろう、この二つは直結していることなど。敵を殺して仲間をとるか、敵を殺さずに仲間を見殺しにするか、お前は一体どちらを選ぶつもりだ?」
「......」
「お前があのシギの血を引いているなど、到底思えんな」

マダラの写輪眼が姿を隠す。対し、カナは眉根を寄せつつマダラを直視した。その頬に汗が流れ落ちる。
朱雀とマダラの会話の意味をカナが知るわけもない。だが、朱雀の言葉は間違いなく、"風羽シギ"という人物が存在したということを証明していた。そして同時にそれは、この面の男が百年近くも前の歴史を知っている者だということも。

「シギは強い女だった」

マダラは口にする。相変わらず赤の色は見えない。

「平和を望んだ一族、それがお前ら風羽だった。だがだからといって、風羽が人を殺さなかったわけがない。風羽もまた、人を殺した、他者を殺した。平和の為にという名目の元」
「......!」
「シギはその筆頭として、恐らく一族間の誰よりも命を奪った。平和を望んだ一族の"長"が。しかしそれでも、風羽の誰もがシギを慕っていたのは明らかだった......その理由がわからないわけではないだろう?」

"覚悟を持たないくノ一"は、強く拳を握りしめる。マダラの声に返す勇気もまた振るえない。

「シギは一族のために戦い続けた」

耳にする言葉は、カナにはあまりに痛かった。

「お前が今持つ甘さなど、シギはすぐさま捨てていた」

風羽シギ。カナはその見たことのないくノ一の姿を想像し、歯痒い思いを噛み締めた。
カナも最早 子供ではなかった。何度もこの忍界の"辛酸"を味わい、何度も"人の死"を目にし、何度も自分の"弱さ"を思い知った。単なる実力の問題ではない。覚悟のない心の弱さを。

だがわかっていても、カナの手は震える。"命"を考える時、カナの脳裏に真っ先に浮かぶのはいつも、過去の悲惨な事件。風羽、そしてうちはの血が、カナの瞼の裏を這うように。


「何ヲ余計ナ事ヲ話シテイル」
「!?」


その声が聴こえ、カナはすぐさま後方に飛び退いていた。

それは突然現れた。前触れも何もなく、見開いたカナの目に映ったのは、突如樹から生えるように現れた影。
"暁"の衣に、左右対称に別れた白と黒。植物を模した姿が、マダラの横に。

「無駄話ヲスルナ。ソイツニ説教ヲシテ何ニナル」
「まあまあ......案外、トビも優しい心を忘れてないってことかもだよ」

ちぐはぐな声が同じ姿から発される。カナはその異様な姿に口を出せず。
マダラの写輪眼は相変わらず見えない。だが、低い声が「馬鹿な事を言うな」と吐き捨て、続いて「あっちは終わったのか?」と問いかけた。カナには最初、それの意味は読み取れなかった。

「いや......もう少し。でもまあ、結果は見えたから」
「それで?」

どくりどくりと高鳴ったカナの心臓は、この突然現れた植物のような男に反応したのか、それとも、その後の言葉を知らず知らず予測していたのか。

「残念ながら......こちら側の、負けだよ」

その白ゼツの言葉で、カナは全てを悟り、息を飲んでいた。


ーーー第三十四話 「お前を」


「......経過は?」
「奈良ノ末裔ガ飛段ト。他、はたけカカシ、山中・秋道ノ末裔ガ角都ト本格的ニ戦闘ニ入ッタガ......アノ奈良ノガキハ大物ニナルナ。完璧ニ、策略負ケダ」
「まあ、詳しくは後で映像を見なよ。それより今はもう引き時なんじゃない?はたけカカシは鼻がきくんだし、のんびりしてたら気付かれてもおかしくないでしょ」

白ゼツ、黒ゼツがそうしてマダラに報告しているのを、カナはじっと聞いていた。心臓に高鳴りはまだ収まっていない。言葉では言い表せない熱が胸に込み上げていた。手に滲む汗は、もう今までのものと同じではない。

「(みんな、無事......)」

安堵でへたり込みそうになる足を、カナはなんとか支えていた。

「運が良かったようだな......」
「......幸運だったから木ノ葉が勝った、だなんて私は思いません」
「フン、どうだか」

ゼツからカナに向き直ったマダラは、仮面の奥で眉根を寄せた。その写輪眼に映った銀色はとても馴染むものではない。その輝く色を追い出すように、マダラは踵を返していた。

「どちらにしろ。オレは今はもう、お前に構う必要はなくなったというわけだ」

カナは動かない。その様子をじっとゼツが見つめていたが、その姿もまただんだん樹に消え始めていた。

「うちは......マダラ。トビさん、あなたは本当に......」
「.......覚えておけ、カナ。"このうちはマダラ"は再び現れる......今度は、サスケの前にもな」

カナが息を飲んだのと同時、二人の姿は消えていた。

途端にその場は異様なほど静かなものとなっていた。木々のざわめきや鳥たちのさえずりが帰ってくるのは酷く遅かった。風がカナの銀色を揺らしていく。一旦緩んだ手の力を再び入れ直す。
頭に渦巻く混沌とした想いや考えを、全て今だけは消し去って。

「(行かないと......)」

汗が拳に滲む。ふらつきそうになる体に鞭を打ち、足元の枝を踏みしめる。

その時、突如として耳に入ってきた爆音にもそれほど動揺せずに、カナは強く、枝を蹴った。



穴の周囲には赤黒いものが飛び散っていた。
それを踏んで前に進んだシカマルは、ガッと穴の淵に足をかけ、静かな目で見下げる。暗闇の中、僅かに見える肉片の数々ーーーしかし、微かな息づかいが未だに響いていた。

「ハ、ハハ......なんてザマだ、コレ......オレをこんなにしやがって」

呻くような笑い声。瓦礫と血肉に囲まれ、男はそれでも尚、不死身だった。

「てめェには必ずジャシン様のバチが当たる!!ジャシン教による大いなる裁きがお前にィ!!」
「そんなもん怖かねェんだよ。オレとお前じゃ、信じてるモンが違う」

オレが信じてんのは、"火の意志"だ。
飛段の視界からは、ただ一カ所光が闇を照らす場所に、シカマルの影が立っていた。そこに飛段の手は決して届かない。それは、飛段がこれまで信仰してきた"神"の如く。

「それに、てめェの神もそのくだらねェジャシン様じゃねェ。今はこのオレだ。オレが裁きを下す!」


ーー起爆札付きのクナイが、飛ぶ。飛段の目の中で、それが穴の淵に刺さった。


先ほどよりも遥かに小さな爆発は、しかし、全てを崩すには十分なものだった。爆発音と、崩壊音。それに混じるように、飛段の声が聴こえていた。罵声、怒声、叫声。しかしそれはどんどん小さいものになっていく。
シカマルは、決してそれらから目を離さなかった。穴が埋まっていく様をじっと見つめ続けた。その目に籠るのは、もう決して復讐心ばかりでは有り得なかった。

桂馬対飛車が幕を下ろす。
シカマルは暫しその場から動かなかった

もう飛段の声は全く聴こえない。代わりのように小さな足音が聴こえ、シカマルは顔を向ける。牡鹿がひっそりと大樹の影から姿を見せていた。

「......終わったぜ」

零したシカマルは、その牡鹿に口元を上げる程度の笑みを見せた。静かに一歩を踏み出し、茶色の毛並みに手を伸ばす。「騒がしくして、悪かったな」とその呟きに応えるように、牡鹿はすっとシカマルの頭に顔を寄せた。円なその瞳はシカマルの表情を黙って映しとっていた。他の鹿たちも次々と顔を出しているのに気づき、シカマルは苦笑する。

だが、鹿から目を離し、すっと前を見据えた時、シカマルの眼光はまたも強いものへと変わっていた。

「お前ら......ちょっとだけ、この場を頼まれてくれるか」

牡鹿の毛並みを一撫でしたシカマルは、ざっと力強く歩みだす。

「オレにはまだ、放っとけねェことがあるからよ......」

鹿たちは黙ってその後ろ姿を見つめていた。木ノ葉ベストは泥や血でかなり汚れていたが、その姿には確かに宿っているものがあった。
ーーー"火の意志"。シカマルはそれを灯し続けるべく、タンッと走り出した。



もう一つの戦闘もまた終結しようとしていた。

"角行"対木ノ葉。

増援としてやってきたナルトが発動した"螺旋手裏剣"、そのとんでもない攻撃回数が角都を容赦なく襲う。当たった瞬間弾けたように周囲の土までも吹き飛んだ。その中心部にいた角都が、無事なはずもなかった。

突風が吹き荒れた。力強い風だった。ナルトのチャクラを呑み込んだそれは辺りに四散していき、木々を撫でていった。遠く、遠く。

ーーーかの銀色をなびかせるまで。

木々の間を跳んでいた足音が止まる。少女はゆっくりと風が吹いてきたほうに目を向けた。無論 視界に映るのは茂った葉の緑ばかりだった。
だが、少女はそれでも小さな微笑みを漏らしていた。その頭に浮かんだ空色の瞳に向けて。

そうしてもう一度前に視線を戻した少女は、しかし足にぐっと力を入れた直前に、動作をぴたりと止めていた。
目に入ったのは木々の下、茂みの影にいる子鹿。小さな茶色の頭が顔を覗かせ、またすっと隠れる。

「(......この先には、行けない......)」

森には何の目印もない。だが、少女はこの先には立ち入れないことを知っていた。足をその先に動かすわけにはいかなかった。ぴたりと止まった少女は、唇を噛み締め、暫くその場に佇んでいた。


ーー影が伸びる。


少女はそっと方向転換をする。本来ならそのまま向かいたい気持ちを押し殺し、その目を別方向に向けた。視線のずっと先にある"暗闇"の為......帰らなければならない場所の為。
後ろ髪が引かれるような気持ちを捨て置き、きゅっと眉を吊り上げた。タン、と軽い音が鳴った。


ーー影が追う。


銀色は、すぐさま気付くことはできなかった。


「!!」


だが、間一髪。
"風使い"は咄嗟に自らの能力を以てして、上空にまで伸びた影から逃れていた。

それでも影はしつこく追う。自由自在に操られ、俊敏な動きで銀色を。息を呑んだ少女はその影の正体を知っていた。だからこそ尚更、捕縛されるわけにはいかなかった。捕まればこそ、そこで終わりだ。


「シカマル......!!」
「!!」


少女、カナの漏らした声に反応したのかしれない。事実として、影は止まった。
その時ちょうどカナの体を痛みが襲う。無様に落ちることは避けたとはいえ、足場の良い地上に下りざるを得なくなった。

ーー静寂が辺りを包み込む。長い息をつき徐々に顔を上げたカナは、目尻を落とした。

「......どうして、今更隠れてるの」

ぽつりと漏れた弱々しい声。その声は少年の位置ももう把握していた。

「また、奇襲でもする?」

カナより幾分か大きい足音が聴こえたのは、その何秒後だっただろうか。既にそちらに目を向けていたカナはしかと少年の姿を認めていた。
満身創痍といえる容貌。壮絶な戦いをようやく終えてきたその姿。

シカマルは、僅か眉を寄せていた。

「できれば......こんなところで、会いたくなかったぜ」
「......そうだね。お互い様だよ」
「けど、予想通りっちゃ予想通りだ......カナ。オレはお前がここに来る可能性のほうが高いと、最初からわかってた」
「鹿たちの森はちゃんと避けたつもりだったんだけどな......」
「ああ。お前はオレんとこの森のことを知っていた。だからこそ、お前がこの近辺に来たと仮定した時、お前が逃走経路に使うルートも絞れた......後は鹿たちに警戒を頼めば簡単な話だった」
「......」
「また、行くのかよ。音隠れに」

六日間のタイムラグ。
それだけで、二人はお互いに、かなり長期間会っていないような気がしていた。あの時は互いに余裕がなかったからかもしれない。六日前に会ったとはいえ、こうして顔を見合わせるのは、やはり互いに懐かしかった。

「......そうだね」

ぽそりと呟いたカナに、シカマルは尚の事 眉根を寄せ、睨みつけた。


「どれだけ、オレらがお前を......お前らを、探してたと思ってんだ......!」


その声に滲んでいるのは怒りか、それとも。カナは目を背ける。

「オレら同期だけじゃねえぞ!もう今はいねェアスマも、木ノ葉丸も、お前らを知ってる全員が、ずっと帰ってくんのを待ってた、探してた!それをお前はまた、自分の勝手な"想い"のまま逃げてくっつーのか!!」
「......私は、自分の一族が殺された復讐の為に」

「そんなことが嘘だっつーことくらい、オレらはもう知ってんだ!!」
「!!」

咄嗟にカナの頭にヒナタの顔が思い浮かぶ。
今 目前にいるシカマルの顔にも浮かぶ確信の色は、ヒナタのそれと全く同じなのは火を見るより明らかだった。

「お前が、木ノ葉を捨てられるわけがなかった。オレらは昔のお前をよく知ってんだ......ずっと笑ってたお前を、必死に強くなろうとしてたお前を!強くなるのは人を傷つける為じゃねえって言ってたのは、他でもねえお前自身だ!!」

『だって......消えていくの、何もかも』ーーー昔、演習場でカナと話した時の思い出がシカマルの脳裏をかすめていく。小さい体でずっと過去を背負い込んでいた少女は、シカマルの記憶の中で、三年前までは絶対に一度もブレを見せなかったのだ。なのに突然、その姿は消えた。前触れもなく。

しかし、どうして素直に、それまでのカナの気持ちまでもが消えたと思えるだろう。

「まだ木ノ葉を忘れられてねえのはバレバレだ......じゃなかったら、なんでアスマを助けた、なんであの時泣いてた?復讐に囚われてるヤツが、過去のヤツらの為に、泣けるはずがねェだろうが!!」

自分の手を傷つけてまでトビからアスマを護った。現実を目にした時、冷静な心はあっという間に姿を消し、ただ呆然と泣いていた。
それは全て、紛うことなく、カナだった。復讐を目指したという、カナだった。

「あ、れは......」

ようやくカナの口から声が聴こえる。だがそれ以上は続かない。
最早抵抗は虚しかった。
その虚しさを、カナは自分でも感じ取れた。

ーーー全て、自分の失態だった。


「......でもね......シカマル」
「!!」

「私は......私は、この道をもう、引き返すことなんてできないよ......」


目を見開いたシカマル。弱くとも昔の面影がある微笑みを見せたカナ。
銀色の髪もやはり、昔の輝きと全く変わらず。流れていった風は、生温いものだった。

「シカマルも、わかってるでしょ......その理由が何であれ、私が抜け忍であることに変わりはない。私自身も、許してもらうつもりは毛頭無い。それなりの覚悟をして里を出た。そうなるつもりで、里を出た。今、私が帰ったところで」
「......死ぬかもしれねェ、って?けどお前は最後は帰ってくるつもりだったんだろ!?なんでこんな馬鹿みてェな、」
「本当に馬鹿みたいだよね......でも」

シカマルの声を遮り、カナは言う。口にしながらカナの脳裏によぎるのはやはり、"あの"姿だった。今となっては誰よりも共に時間を過ごしてきた者。幼い頃、一つの約束を交わした人物。今や復讐に囚われている少年は、しかし、カナが最も放っておけない人だった。

「一緒に生きようって、約束したんだ」

カナの口から流れ出た言葉に、シカマルは狼狽した。

「また、木ノ葉に戻りたい。シカマルの言う通り、私は木ノ葉が大好きだったから......でも。サスケをほっとけなかったし、ほっときたくもなかった。もし、サスケが大蛇丸に殺されたら......またみんなで、木ノ葉で笑える希望もそこで途絶えてしまう。......すごく自分勝手なのは自覚してる。だけど、そう考えたら、止まらなかった」

自嘲の笑みがカナの顔に滲む。
本心だった。この三年間で、初めてカナ自身が他人に漏らした本音だった。

それは聞いているシカマルが、一番わかったことだった。だがシカマルの胸に広がったのは、カナに木ノ葉を捨てる想いがあったわけじゃないと確信を持てた事への嬉々では、なかった。
シカマルは徐々に俯き、口内で歯を食いしばった。

「もしサスケと一緒に帰れたとしても......最後は、抜け忍の罪で、殺されるかもしれない。......わかってる。殺されたかったわけじゃない。けど最後、そう判決が下されたなら、私は......」
「抵抗するつもりはない......ってか......?」
「しょうがないと思ってる。それで私は悔いはないか、____」


ないから。

ーーーそう言おうとした直前だった。


「......シカマル......?」


影ではない。カナを捕まえたのは、影真似でも影縛りでもなかった。
一気にカナとの間合いを詰めたシカマル自身が、カナが反応する間もなく、その腕で捕らえていた。

強く。

「うるっ...せえんだよ、お前は......!」

目を見開いたカナは、咄嗟にシカマルを押し返すこともできなかった。痛いほどに抱きしめられていることに苦言を漏らすことももちろん、今 自分の身に起きている事態も、うまく呑み込めないまま。

「死んで悔いはねえ...?抵抗なんてしねえ...?お前はっお前はなんも分かっちゃいねェ!!本当に自分勝手で、ちっとも優しくなんてねェよ!!」
「シカ、」
「お前は、他人がお前を想ってる気持ちなんて、まるで無視してやがる!!」

じんわりと滲む温もりを、掴む事も拒否することもできないまま。
「なにいって...」とカナはかろうじて絞り出し、足りない酸素を補給する。だが、再びシカマルの腕の力が強くなり、カナは息を思わず止めた。
この場ではシカマルの"想い"のほうが、何倍も強く現れていた。

「けどな。オレは、お前がどれだけ自分をぞんざいに扱おうと、何を言おうと、何を突き通したかったかろうと!!オレはお前を、行かせたくねえんだよ!!」

溢れ出るように、シカマルの気持ちが漏れだしていた。
今のシカマルに羞恥心など欠片もなかった。頭に上っている血はただ、カナに向ける純粋な怒りだった。抱き締める力はただ、カナに向ける純粋な想いだった。
だが、カナはそれを受け取ることができない。

「わ......わからないよ!私はもう裏切り者なんだよ!?何を思っていようと、抜け忍であることに、木ノ葉を捨てたことに変わりはない!!何でこんな......ここまでするシカマルが、私には、全然......!!」

カナにはシカマルの気持ちは見えなかった。それも、シカマルの中で、昔のカナと何も変わっていないことだった。

器用にはなりきれない少女。妙なところで鋭く、妙なところで抜けていて、けれど、周囲を包み込むようにふわりと笑う少女。この銀色を目で追う者たちは少なくなかっただろう。
そして、シカマルのその一人だった。

いつからなんて、シカマルはもう覚えていなかった。


「ん、なの......!───お前が好きだからに決まってんだろ!!」


ずっと捨てきれなかった。アカデミー時代も、下忍に、中忍に昇格してからも、カナがサスケと共に里を抜けてからも。カナに向ける想いや、サスケに向ける想いは、シカマルの中で、いつからかずっと同じものだった。

あらん限り目を見開いたカナを、シカマルは尚も強く抱きしめる。

「こんなめんどくせー気持ち、とっとと捨てられたらよかったんだ......こんなことに翻弄される自分自身が馬鹿みてえだった、けど、自覚した時にゃもうしょうがなかったんだ...!」
「......!」
「オレは、ずっとお前が好きだった!!お前がずっとサスケといることに馬鹿みてえに嫉妬して、案外自分の気持ちを隠すのが下手なことに馬鹿みてえに恥じらって、けどにも関わらず全く気付かねえお前に馬鹿みてえに苛ついたりもして!......けど......!」

動揺ばかりがカナを襲っていた。自分に向けられる率直な気持ちを、やはりカナはまだ、受けとれられなかった。
シカマルはそんなカナを知りながら、一旦 静かに息を吐き、目尻を下げて笑った。

「......けど。ここまで来たら、自分でも笑っちまう......こんな事になってまで、オレはお前に執着してる」
「シカマル......」
「......行かせたくねえんだよ、カナ。オレは......オレたちは、お前にサスケを捨てろって言ってんじゃねえ。お前にだけ、重荷を背負わせたくねえんだよ。一緒にアイツを追いかける道もあるんだ......だから」

だから?

カナはまだはっきりしていない思考回路で考えた。

"音隠れ"へ向かう足を止めて、木ノ葉へ帰る。死罪ではないことを願って......また、一からやり直す。皆に謝りつつ、またゆっくり元の関係を取り戻していく。一緒に任務をこなして、一緒に笑い合って......

だがそこに、サスケはいない。

サスケはその間も蛇の前で無防備に肉体を晒しているだろう。いつその舌に絡めとられるかも、わからないまま。


「カナ......頼む。前みたいに無理矢理連行されるんじゃなく......お前の意志で、木ノ葉に戻ってきてくれ......」

シカマルの声は切実だった。だがカナは、ぎゅうっと眉根を寄せて目を瞑るばかりだった。
シカマルの望む答は、そこにはどうしても、現れなかった。


「シカマル......でも......」
「......!」
「私は、それでも......!!」


___トン。


ーーその時、何が起こったのかは、カナにもすぐには分からなかった。
ただカナが感じたのは、今まではなかった重みが、カナの体に加わったことだけだった。

「え、シカ...!」

カナを抱きしめていた力が緩まる。代わりに、シカマルの体躯がカナに数秒、覆い被さるように。だがそれもすぐに消えた。数秒ぶりに開けた視界、そこに立っていた人物に、カナは目を見開いていた。


「紫珀......?」


紫色の髪。どこか鳥を思わせる眼光。カナの声に応えず、気絶したシカマルを黙って抱えた紫珀は、そっと大樹の根元に近寄っていった。そこにシカマルを凭れ掛からせ、暫くじっとその顔を見ていた。

「......お前が」
「!」
「カナ、もしお前がコイツの声に応えよったら......オレは何もせんかった。オレはお前のやることに口を出さへん。それは、三年前のあの時から変わっとらん......けど、お前は自分で、また楽やない道を選択した」
「......うん」
「オレは反対や」
「......うん」
「けど......お前は、変わらんのやな」

静かな問いかけを耳に、カナはそっと視線を変えた。紫珀がシカマルを見るのと同じように、カナもシカマルを見つめる。その口から先ほど叫ばれたシカマルの想いを思い返し、胸に手を当てて。
だが、カナの答はやはり同じだった。

「うん......変わらない」

紫珀はカナを振り返る。茶色の瞳は真っ直ぐシカマルを見つめていた。それでもやはり、カナの決意は手に取るようにわかる。

「(やっぱ......アホや、どいつもこいつも......)」

思った紫珀は口にはしなかった。黙って解印を組み、元の鳥の姿に戻る。

「......道案内はしたる」
「え?ここから"音"へは、私も方向は」
「ええから、はよせえ。......ソイツに何か言っとくんか」

困惑したカナだったが、紫珀の言葉にもう一度シカマルに目を留める。だが結局、小さく首を振った。

「何も言えないよ......」

言うのなら謝罪。だがカナはそれで許されたいわけではない。
むしろ、今のシカマルには、罵られたかった。

「じゃあ、行くで」
「......うん」

最後までシカマルを見ていたカナは、そうして静かにその場から遠ざかっていった。
自分の体に残る温もりの余韻に気付かないフリをしつつ───。







ゆっくりと紫珀の後をついて歩いていたカナは、次第に違和感を感じていた。

「......紫珀?」
「なんや」
「真っ直ぐ行けばこっちじゃ......」
「ええから」

紫珀の道案内は明らかに"音"への道ではなかった。大幅にズレているというわけではないが、おかしいことは否めない。カナの狼狽ぶりに、だが紫珀は一度も振り返らなかった。結局最後まで、紫珀は何も言わなかった。

いつしか翼を動かすのをやめた紫珀は、カナの肩に一度 降り、口にした。

「ここでオレ様の仕事はおしまいや」
「え?」
「なんも聞くな。行ったらわかる......もう、ここを真っ直ぐ行くだけやから」

紫珀がくちばしで指した先に何があるというわけでもない。紫珀はカナのセリフを聞く気もないようだった。ボフンと白い煙が蔓延し、紫珀の姿が消える。
カナは結局 紫珀の意図がわからないまま。しかし止まっているわけにもいかず、そうっと目を上げていた。


一歩ずつ、足を踏み出す。土を、枯れ葉を踏みしめる音が耳に届く。歩き続けたカナはその先に待っているものを知るはずもなかった。しかし段々と見えてきた先に、少しずつ歩みは速まっていく。
その先に待ち受けていたのは森の終わりだった。ザッと森を抜けたカナの銀色に、まだ柔らかい日の光が差し込んだ。

そこは火の国の森を抜けた場所、国境付近。

ーーーそこにある大樹の根元に、人影が腰を下ろしていた。

無論 カナがその人物を見逃すはずもなかった。無条件に思わず一歩退いていたカナは、そのまま、硬直した。
恐ろしかったわけではない。かといって、嬉しいと思ったわけでもなかった。一瞬にしてカナの胸に溢れた感情は、ただ、驚愕ばかりだった。


「何で......」
「......」
「何で、こんなところにいるの......?」


ーーだが、人影のほうは、然程も感情の起伏を見せず。

「......お前を」

その口だけが小さく開いた。


「お前を、迎えにきただけだ......カナ」


サスケは、すっと腰を上げ、黒の瞳でカナを映しとっていた。


 
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