意気消沈している教え子二人に、カカシはそっと言葉をかけた。

「......綱手様はおっしゃってたぞ。ナルト、サクラ、お前らにそんな顔をさせたくなかったんだと。お前らからすりゃ疑念ばかりだったかもしれんが、綱手様のお気遣いも察しろ......悪意あってお前らに伝えなかったわけじゃないんだ」

二人は顔を上げてそれを受け止めて、また俯いた。自分たちの感情の矛先をどこへ向けていいかしれず、今にもこの闇に押しつぶされそうだった。カナももう何も言わない......変わらず、両足を抱えて顔をうずめるばかり。カカシはそれを目にし、口にする。

「カナ......お前にも、三年前に言ったな。......一人でなんでも抱え込もうとするな。ナルトとサクラがどれだけお前を想ってるかは、今、分かったろ......」

あの日ーーー第七班に亀裂が走った日。木ノ葉病院の屋上でカカシがカナに諭した言葉は、果たしてカナに本当に届いていたのか。カナは今でも、下を向いたまま。
動かないカナを見て、カカシはひっそりと踵を返した。

「......帰るぞ、ナルト、サクラ」

その言葉に逆らうすべもなく。ナルトもサクラも格子に背を向け、重い足取りで扉のほうへ向かう。カカシが扉を開き、ナルトはカナを一瞥した後に闇へと消える。それに続いたカカシはもう振り返ることなく。最後にサクラは、部屋を出る前にもう一度カナに向き直り、その名を呼んだ。

「......カナ。私、まだ待ってるのよ。アンタあの時言ったわよね......"行ってきます"って。アンタがその口から、"ただいま"って言ってくれるの......私はまだ、待ってるんだからね......」
「......」
「どんなになっても、カナ、アンタの帰ってくる場所は......私たちのところなんだから」

が、ちゃん。
重々しい音と共に扉は閉まった。それで再び牢の中は静まり返った。だが、どうしたことか、心もとないながらも明るみだけはまだ残っていた。それに気付いて、カナは初めて顔を上げていた。
その瞳に映ったのは、先ほどまではカカシが持っていたはずの、使い古されたランプだった。

「(......覚悟、してたのに......)」

歯を噛み締めるカナ。次第に熱を帯びてくる目頭に、日だまりのような人たちの笑顔が浮かんでいた。

覚悟していたのだ。なんで里抜けなんて馬鹿な事をしたんだと、罵られることを。なのに、彼らはただ手を伸ばしてくれている。三年前と同じ温もりのまま、今、無様にも捕まっている私へと。
置いて行かれたランプは、静かに闇を照らしている。

「(突き放されることを覚悟して里抜けした......その上で、いつかサスケと一緒に帰ることを願った......。まだサスケはここにいない、だから私はここで止まるわけにはいかない、なのに)」

決心を揺るがせてくるような彼らが、カナは今だけ憎たらしかった。覚悟していただけに、その裏返しがカナにとっては大打撃だった。
里を抜けたのに。冷たく突き放したのに。額当てを置いてきたのに。
アスマを死なせてしまったのに。

涙を零してしまう前に、カナは脳内に睡眠を命令した。薄れゆく意識の中でカナが見てしまったのはあの時の赤色だった。毒々しいまでのそれは、カナの脳裏にこびりついて離れない。三日前の記憶は、依然として鮮明だった。


ーーー第二十八話 "家族"よ


血。鮮やかなまでの紅色。カナの瞳に映ったそれは、カナの全思考を吹き飛ばすには十分以上のものだった。地面に落ちたクナイも拾えず、頭に乗せられたトビの手も払えず、ただカナの膝はガクリと落ちる。

『あ......アスマ......さん』

呆然と呟いた声は誰の耳にも届かない。
木々の間に響いたのは、カナの泣きわめく声ではなく、トビの気味の悪い笑い声だった。

『絶望したか?見ろ、これがお前の努力の結果だ。諦めなければいつか、などという綺麗事がどれだけ下らないことか、思い知っただろう』

だが、カナは茂みの向こうを見つめるばかりで、トビになど目もくれなかった。トビの声などただの雑音で、何を言っているのかもわからないものだった。倒れ込むアスマが嫌にゆっくり見えていた。

『ち......ちが、う......違う、違う!!』

乾いた唇から漏れだす声に力はない。また響く、喉の奥で笑う声。

『違わないな......これはオレの幻術ではない。これは現実だ、事実だ。猿飛アスマは、もうじき死ぬ』

目を見開いたカナ。歪んだ写輪眼は嘲笑う。

『お前が手を犠牲にして庇ったところで、結果は同じだったな。お前の努力などそんなもの......お前が必死に未来を探したところで何も変わりはしない。見ろ、この結末を。無駄な努力だったと思いはしないか?』

トビの手がカナの肩に伸びる。しかし、それが触れたところで、カナは勢いよく振り払っていた。零れ落ちた涙にカナの必死の形相が映る。肩で息をしているカナは、目に涙をいっぱいに溜めても、トビをなんとか睨みつけていた。

『じゃあ......何もするな、と言うんですか......!』

嗚咽を噛み殺しながら、カナは言う。

『無駄だから、諦めろと...!?アスマさんを、あのまま見殺しにしとけばよかったものを、と言うんですか!』
『ああ』

トビは何の躊躇もなく返した。歯を食いしばってカナはトビを見上げる。仮面の奥の写輪眼は血のように真っ赤な色だった。血溜まりから這い上がったような、そんな色。

『無駄なことをしたものだと......お前も分かる時がいずれ来る』

その瞳からカナが何かを読み取ることはできない。自分を叱咤しても、カナにできる限界は、トビを睨みつけることだけだった。

『考えておけ、"神人"』

トビは一歩後方に下がり、タンッと軽く跳んだ。その瞬間、カナは異様なものを目にしていた。

『遠くない内に世の中から争いは消える。お前ら風羽が望んだ世界がやってくる。だがその実現には戦力が必要だ......風羽カナ。お前が協力すれば、平和への道は更に近いものとなるだろう。希望などという世迷い言に縋り付くな。オレに協力することを、考えておけ...』

その瞬間、トビは吸い込まれるように消えていた。気配は完全に途絶え、一拍遅れたように、風がカナの銀色を揺らした。
カナは一人取り残され、しかし今のカナはトビの行方もその言葉の意味もとてもじゃないが考えられなかった。また一粒零れ落ちた涙が、服に染みを作った。

『ふっ...く......ッ』

鮮血に目を戻せない。この茂みから出て行って駆け寄る、その力もカナには残されていなかった。両足からは力が抜け、悔しさが滲んだ涙が零れ落ちるばかり。

『アスマ、さん......!』

漏れ出た声に呼応するように、カナの脳裏に優しく温かな、昔何度も聞いた声が響いていた。大きな手が乱雑に髪を撫でるあの感触が甦るようだった。
ごめんなさい、とカナは何度も繰り返した。だが、声無き謝罪は誰に届くものでもない。涙を拭う両手はなく、土を掘るように握りしめる。


ーー『......"家族"、だろ』


いつかのアスマのセリフが甦った。落ちる涙。曇天の空の下、それはまるで雨のよう。

突然 がさりと聴こえた茂みの音を、カナは意に介さなかった。
既に動ける状態にもなかった。今にも一つの命が消えつつあるのを感じるさなか、自分に取り巻く全てが幻のようだった。

それがはっきりしたのは、脳内で一言、朱雀が自分を呼ぶ声を聴いた時。
だが、『主よ』と言う厳かな声に続いたのは、それとは全く別ものだった。


『なに......なに座り込んでんだよ、てめえ......!』
『......?』
『立てよ!立ちやがれ!!』


ゆらり、と_カナは顔を上げた。
涙でぼやける視界に映ったのは、木々ではなかった。
カナは徐々に目を見開いていくーーーシカマル、と唱えた唇は未だに震えていた。

『アスマが、アスマが呼んでんだ!!お前を、家族であるお前だけを、呼んでんだよ!!』

カナの頭は状況にきちんとついていっていなかった。目前に差し迫った顔も聴こえる声も、幻なのだと思ったーーー思いたかった。
だが、『さっさと...!』と言う声と共に腕を引かれたその感触は、ただ現実でしか有り得なかった。

『シカマル、ッ』
『放せっつったって放さねェぞ......!アスマの最後の願いが、お前だったんだよ、カナ...!抵抗なんざ、』
『......だって、私は!!!』

また一雫、溢れ出る。

『私は......!』

心中の想いが何であれ、カナが木ノ葉を無言で立ち去ったことに変わりはない。裏切りを働いたと思われて当然の事をした。木ノ葉を、アスマを、三代目を、木ノ葉丸を、裏切ったと罵られて、文句を言えない立場に、カナは自らなったのだ。

『出て行けないよ......私はもう、木ノ葉じゃない......!私はみんなを、裏切、って......』

だが抵抗の意を示す言葉は、その数秒で萎んでいた。
目を見開くカナーーー柔らかい温もりに包まれているのは他でもない、カナ自身だった。強引に引っ張られた腕に痛みはない。懐かしい匂いがカナの鼻をくすぐっていた。

『......お前は、何でそんなに......!』

シカマルの声がカナの耳元で聴こえた。しかし、カナが反応する間もなく、カナはあっという間にシカマルの腕から解放され、そして更に引っ張られていた。茂みが揺れる。抵抗することもできないままに。

カナの頭上、高く高くにあったのは、今にも雨が降りそうな真っ暗な曇天だった。



ーーーカナはうっすらと目を開ける。
浅い眠りから前触れもなく意識を浮上させたのは、この獄内に自分以外の気配を感じたからだった。ギギィと嫌な音をたて開かれる格子の戸。そっと顔を上げた先には面を被った男。

「出ろ」

一言 発された冷ややかな声に、しかしカナは動かない。かといって抵抗するわけでもなかったゆえに、看守はあっさりとカナを格子から引っ張りだし、獄内に置いていかれていたランプに溜め息をついた。

「全くはたけカカシも困ったものだ......囚人に情けなど」

そう言った看守がそれを回収するのを、カナは黙って見つめていた。

腕を引かれ、暗闇の中を歩く。ぼんやりと浮かび上がる看守の木ノ葉ベストを目に、カナの脳裏にはそれと重なるようにして、三日前の記憶が甦る。看守が何か言っているようだったが、カナの脳裏にそれが言葉となって解読されることはなかった。



カナの頭上、高く高くにあったのは、今にも雨が降りそうな真っ暗な曇天だった。

『カナ...!?』
『銀色の漆黒...!』

茂みから引っ張りだされたカナの耳に外野の声が届き、カナは思わず踏ん張ろうとしたが、無駄だった。シカマルの力は既に三年前の少年のものではなかった。じっとしてろ、と呟いたその声は低く、ぐっと引き寄せられた一瞬で、カナはアスマの目前に立たされていた。

目を見開く同期や上忍達の間で、シカマルの腕から解放されたカナはもうただ一点しか見れなかった。

雨がぽつりと、アスマの頬に落ちていた。


『アスマ......さん......』


ぽつ。ぽつ、ぽつ。始めは静かだった雨音がどんどん騒ぎ始めていった。それでも雨に紛れきれないほど、カナの瞳から溢れた涙は多かった。

『アスマさん...!』

どさり。アスマの横に、カナは崩れ落ちた。悲痛な声もまた雨音に紛れきれず、だが、対するアスマは薄く笑っていた。

『安心したぜ......。お前はまだ、泣けてる。お前の中で、オレや木ノ葉丸は、まだ、死んでないんだな......』

柔らかい微笑みは、カナが知っているものと全く変わらなかった。その目の優しさはカナが初めてアスマと会った時から変わらず。地面に投げ出されたカナの手を、アスマの手が弱々しく包み込んだ。冷たくなりつつある体温に気付いて、カナは一層顔を歪めた。

『どうして...?私は、裏切ったも同然のことをして!自分の、欲の為だけに勝手なことをした、なのに!!』
『......自分の欲......な。......この際、オレはもう、それが何かなんて聞かないさ......そんな時間も、もう、ないからな...』
『...!』
『どう、してもこうしても、ねえよ......カナ』

喚くカナに、アスマは笑う。空白の三年間など無かったかのように。


『オレが......お前の、"家族"だから......だ』


握られていた手をカナは自然と握り返してしまう。俯いて涙を流すカナは最早、周囲の目など気にできなかった。容赦なく打ち付ける雨は痛々しく無力感を降り注ぐようだった。

ーーーその時だった、唐突に再びカナの中から響く声が聴こえたのは。『主よ』と届いた声に、カナはハッとした。

『我が力を使えば、可能性は高い』

何の、など言わずと知れたこと。カナは身を乗り出してアスマの額に手を当てていた。

『カナ...!?』
『何を、』

いのやその他上忍の声に応えることもなかった。カナの瞳は徐々に金色に侵食されていったーー

『やめろ』
『え...?』

しかし、それに制止を命じたのは他でもない、アスマだった。侵食が止まる。アスマは小さく笑ったまま。息苦しそうに、カナから空へと目を移していた。

『お前が今、何しようとしてんのかは、大体想像がつく......』

目を丸めるカナはただアスマの声を聞いていた。

『カカシから、聞いた......"神鳥"には、死者をも蘇生する可能性があるほどの力が、あるそうだな......』
『カナ、そんなことができるの...!?』
『だったら、アスマ先生、なんで止めたりして!』

いのとチョウジから声が飛ぶ。アスマはそれに応えようとして、しかしその前に咳き込んで血を吐いた。『アスマさん!』と動揺するカナと、『先生!』とアスマの顔を覗き込む二人。
シカマルだけがアスマの意図を理解したように、ただ強く目を瞑っていた。吐き出された血は流れるようにして消えていく。考えてもみろ、と呟かれた声は、もう今にも掻き消えそうに。

『それだけ膨大な力を使うのに、カナ......お前がリスクを負わないはずが、ない......そうだろ?』
『...!! そんな...そんなこと、今は...!私よりも今は、アスマさんが!』

呪印に縛られている今、"神鳥"の力を扱おうとすればカナの体に負担がかかる、それは事実だ。だが、この状況で他人の心配をしているアスマが、カナには信じられなかった。しかしアスマは笑ったーーーオレの為に、カナにリスクを負ってほしくはないんだと。

カナも、いのもチョウジもシカマルも、イズモやコテツらも、何も言えなかった。
最期まで"玉"を護ることを選んだアスマは、悔いの欠片も見せない顔で、笑って言ったのだ。


『あの時......護ってくれて、ありがとな、カナ......。最期に、お前に会えて......』


__よかった。



「(涙......?)」

つっとその肌に伝った雫を目にし、拷問官は密かに眉をひそめた。その目前には、風羽カナが身を拘束されていた。
幻術に長けた拷問官ゆえに、少女の意識は今ここにない。風羽カナが最も苦手としていたという"人の死"をまざまざと見せつけ、しかしそれももう小一時間は経過しただろうか。カナが初めて反応を見せたのが、今だったのである。

透明な涙がカナの頬を滑り落ち、冷たい床にしみを作る。
冷徹を信条に仕事を行っているはずの拷問官が、思わず印を解きそうになるほど、それは哀しい色をしていた。

だがそれきりカナはぴくりとも反応せず、無論、何を供述することもないままだった。




同時刻、木ノ葉付近の茂みに怪し気な影が潜んでいた。
ゆるりと弧を描いた口元、ぎらりと光る眼光。その姿は黒い外套に覆われ、闇に同化する。

「やれやれ......厄介なところに捕まってくれたもんだ」

その呟きは誰に拾われることもなく、影はふっと消え去った。


 
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