▼ 9:きつねさん
一人暮らしをし始めてからこの部屋で過ごしてきた期間と、ナルトがこの部屋で寝泊まりしていたここ最近の数日間。この二つを比べてみれば、当然前者のほうが後者の何倍もの時間数を誇っていて、つまりどういうことかというと、目が覚めた時 隣に誰もいないという状況は、目が覚めた時 隣に幼い少年がいるという状況より、私にとってずっとずっと日常的で平凡で普通であることのはずだった。
だけど私は今、目が覚めた瞬間すぐさま違和感に苛まれて、呆然としたのだった。
ここ数日間の日常が、消えていたことに。
「あ……れ」
あっという間に覚醒した頭。見間違いかと思って何度も目をこすった。隣だけじゃなくて、布団をめくってみたり、台所の方に目をやったり、すぐそばのカーテンの向こうのベランダを見たりしてみた。
だけど、いない。どこにも。
ナルトが、いないんだ。
「そんな……こんな、急に…?だって心の準備とか、まだ」
言ってから、なに妄言吐いてるんだよ、って私の中の冷静な部分から声が聞こえた。
心の準備もなにもない、当然のことじゃないか。ナルトは元よりこっちの人間じゃない、ここにいるはずのない子だった。私も帰してあげようって思ってたじゃないか。ナルトが元の世界に帰れることを望んでたじゃないか。
じゃあ、例えそれがいきなりのことだったとしても、喜んであげるべきじゃないの。
「(でも私、昨日やっと)」
やっと、決心ついたのに。
あの子とちゃんと向き合おうって思ったところだったのに。ちゃんと話そうって、そう、…
昨日隣で寝ていたはずの場所を見る。抜けた金色の毛が散らばっていた。確かにあの子がここにいた証が残っていた。
そう、あれは夢なんかじゃなかった。現実だった、間違いなく、ナルトはここにいた。ご飯を食べたり、寝たり起きたり、買い物に行ったり、一緒に遊んだり……泣いたり。
そうだ。昨日、ナルトは泣いていた。傷ついて、泣いたんだ。
私のせいで。
「……私、まだ、あの子に謝れてないのに。こんな……こんなのって」
動揺した私の頭は、"そのこと"に気づくのに数分遅れてしまっていた。
「……あれ?」
帽子だ。あの、黒のキャップ。
出かける時にはこれを被ってねって、しつこいくらいにナルトに言ったっけ。ナルトの手が届く高さの棚の上にいっつも置いてたんだ。ナルトが自分で取れるように。
それが、ないのだ。
昨日もあそこに戻したことも確認したのに。
忽然と姿を消したのは、ナルトだけじゃなかった。外出中は必ず被れと言ってた帽子も一緒に消えてる。
ってことは……
「……もしかして!」
考えるや否や、私の体は動き出していた。部屋着から着替えることも顔を洗うことも髪を整えることも放棄して、真っ先に玄関に向かった。
やっぱり、ナルトのサンダルもなくなってる。
ナルトは自分の世界に戻ったんじゃない。ただ家の外に出て行ったんだ!
乱暴にドアを開けて、カギをかけることも忘れて家を飛び出した。
「(逃げ出したくなるほどに、悲しかったのかな)」
普段全然運動してないから、あっさり体の限界が来る。ぜえはあぜえはあと口から、喉から漏れてる。だけど意地を張り通して、どれだけ肺が痛くなろうと、どれだけ足や腕が重たくなろうと、走り続ける。
「(もしかしたら、もう顔も見たくない?)」
行くあては自然と決まっていた。
ナルトが来てから昨日まで、一度として同じところには出かけてない。だから、どの場所であろうとナルトにとっては馴染みがない。
なら、一人で飛び出したとしたらどこへ行く?
…多分きっと、可能性は一つだけ。
「(でもごめんね、ナルト。何度だって謝らせて)」
一週間くらい前の、小さな公園の隅っこでうずくまるナルトの姿と、
「(キミが自分の世界に帰る最後までくらい、私、一緒にいたいんだ)」
今 視界に入ったナルトの姿が、ぴったり重なった。
朝6時過ぎ。この前と状況は変わらない。
夏とはいえ、まだ少し冷えた風が吹く中、ナルトは自分の足を抱えて座り込んでいた。
キャップのつばで顔を隠して、小さく、小さく、うずくまっていた。
「……ナルト」
まだ距離はあるけど、その場から呼んだ。
反応はない。ぴくりとも動かなかった。
「ナルト?」
ゆっくり近づいていく。やっぱりこれといった反応をしてくれない。
少し戸惑いながらも、足は迷うことなくナルトのそばにたどり着く。真正面にしゃがんで、もう一度ナルト、と呼んだ。
それでも反応はなかった。無視するとかいうレベルじゃなく。
「…...もしかして」
うずくまって顔を足に押し付けて、塞ぎこんでるように見えるけど。
そういえばというか、そういえばも何も、この子はまだ子供で、今は子供には早すぎる時間。
ナルトの両脇に手を入れて、なるべく優しく顔をあげさせてみると、やっぱり。
「寝てるのか…...」
思わず苦笑してしまった。家から飛び出しておいて、ここまで来たのに眠気に負けたっていうの?
本当にただの子供なんだなあ。まったくもう、人が散々心配したっていうのに。
「ふう〜……」
色々気が抜けたよ、ホント。
焦りすぎて考えなかったけど、もし私より先に誰かがここで寝てるナルトを見つけてたら、きっと私はもうナルトに会えなかったし、ナルトもどうなってたか分からなかったんだな。
本当に危ないことしてくれたよ……原因は私だから咎めようもないけどさ。
…でも、家から飛び出したいと思っても、ちゃんと私が言ってたことを覚えててくれてたんだ。
ナルトの頭の上に乗ってるキャップ。
「……ありがとうね……ナルト」
ナルトの中で、まだ私は、完全に拒否される対象じゃなかったんだ。
それだけで、ここまで全速力で来た気持ちが救われた気がした。
自然と顔に笑顔が浮かぶ。
「よかった……」
だけどこの表情が凍りつくまで、一瞬もなかった。
「動くな」
背後から突然降りかかった声。
「動くと殺す」
全身が固まった。
息が止まった。
頭がついていかない。
「……?」
冷たい。何かが、首に当たってる。
何か息苦しいものが、全身に降りかかっている。
目の前のナルトはまだ寝たまま、一向に起きる様子はない。
私には後ろを振り返る余裕すらなかった。
冷たい何かの感覚が消えたかと思うと、後ろから腕が伸びてきた。
夏なのにアームウォーマーしてるよこの人、なんて頭の中の客観的な部分が独り言。
その腕がぐっと首に食い込んで、立ち上がらされたと思うと、体が浮いた。
「かはッ」
それで、本当に息ができなくなった。苦しい。嫌だ、なんなの。
「ナルトを狙った者か?」
ナルト?狙う?
あっさり意識が遠のいていく。
「三秒以内に応えろ。さもないと殺す」
ふざけないでよ、息もできないこの状況で、どうしろって言うの。
三秒、三秒って、どのくらいだっけ。どうにかして返事しなきゃいけないのに、体は恐怖に痙攣して、まったく動いてくれそうもない。
「三」
足はぶらんと垂れ下がったまま、蹴って逃げるような力は出ない。
「二」
両手は首に食い込むこの人物の腕に触るのがやっとで、多分本能が頑張って逃れようとしてるんだろうけど、まったく意味がない。
「一」
残りの部位は頭で、でも噛みつこうにも当然届かないし、そもそも酸素を取り込もうとするのがやっと。
目だけが動いて、背後の人物の顔を見ようと必死になっていた。
だけど、今にも私を殺そうとしているこの人物の顔は、結局見えなかった。
なんなの、その変なお面。
キツネ...…かな。
不審者にもほどがあるんじゃないの…
まあ……
もう、何でもいいか…………
「…...ホントにただの一般人みたいだね」
ゲホッゲホッと、そんな盛大な咳が聞こえた。それが自分の口から出たものだと気づくのにも数秒かかった。
なぜかその時には私はもう地面に降ろされていたのだ。しかも誰かに背中をさすられてる。
何を隠そう、たった今まで殺そうとしてきたヤツに。
「(もうやだ、何なのこの人…...)」
やっぱりナルトはすやすや眠ったまま。
涙目で顔を上げてみれば、見えたのは、ナルトと対になるような、銀色の髪だった。
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